「…そうですか」
波立つ感情を抑えるのには、少しだけ間を要した。
話を聞いていたであろう名雪は驚いているのだろうか。
表情まで容易に想像できる自分が、何故か少しだけ哀しかった。
「いつ来るのかとか、それに転校の手続きも必要ですよね…」
何か日本語が滅茶苦茶だ。
割と動揺してるなあ、私。
「…いつ来るのかは聞いてませんが…、手続きは済ませてくれるそうですよ」
若干暗めの語調。
秋子さんが気遣ってるのは私か、それとも後ろの名雪だろうか。
冷静にそんなことを考えてるのは、そんなことはどうでもよかったから。
また、私の手から“普通”が失われるのが嫌だった。
それも、あの両親の手で。
私は爪が喰い込むのではないかというほどに、きつく手を握り締めた。
だが、私にそこまでの握力はない。
…何もかもに腹が立った。
腹立たしい気持ちをそのままに、私は気になっていた一つのことを訊いてみた。
少なくとも、そうすれば嫌な気持ちからしばらくの間は目を逸らしていられるから。
「…秋子さん、わざとですね?」
そう言ってキッチンの方に目をやる。
秋子さんがあゆの分の夕飯を用意してなかったとは考えづらい。
「なんのことです?」
いつもの優しげな微笑みで避わされてしまった。
でも実際の所は、私の手であゆの分の夕食を作ることまで、きっちりと予測していたに
違いない。
「まぁ、一歩前進できた感じはしましたけどね」
今は部屋で泣き疲れて寝てるけど。
「…祐一」
「なんだ?」
私の袖を引っ張る名雪。
「驚かないの?」
「予測できる事態だろ」
何を今更、といった感じだ。
名雪は私の両親の考えを知らないのだから、驚いても仕方ないのかもしれないが。
「一ヶ月で転校っていうのは最短記録かもな」
「…本当に、それだけ?」
私は返事をしなかった。
そして、無言で部屋に潜りこんだ。
だって他にどうしたらいいのか解らなかったから。
名雪に泣き言を言ったところで私の選択肢が増える訳じゃない。
もう、どうしようもないんだ。
「…畜生が」
また一つ、私が奪われた。
そう思うと、やり切れない想いが爆発しそうだ。
ここに来ることだって、かなりの我侭の末の結果。
今回のことも、私が自分を気遣うことが出来なかった結果。
ここに来てから大人しくしていれば良かったのだ。私本来の気質など捨て去って。
…でも、それなら、
私自身は、世界のどこにもいなくなってしまう。
「転校の言い訳…、どうしようかなぁ?」
別の問題を口にすることで、むしゃくしゃする気持ちから目を逸らしたかった。
なんで私が悔しい想いをしなければいけないのか。
黙ってたら、泣いてしまいそうだ。それも大泣きで。
その日は、さっさと寝た。
頭から消えないことはあったけれど、久しぶりにいろいろなことを考えて、行動をした
からか疲れが溜まってたみたいだ。
『朝〜、朝だよ〜』
「うるさい。眠くなるだろ」
いつもの通りに目覚し時計に活動停止の一撃をくれてやって、私はベッドから起きあが
った。
ぐるぐると腕を回してみる。
…悪くない、今日は走れるかな。
同居人二人組が良い顔をしないだろうから、実行には移さないが。
「おはようございます」
「ええ。おはようございます」
挨拶を交わして、私は食卓につく。
朝ご飯の用意はいつものように既に済んでいた。
「名雪を起こす役目、私じゃ駄目ですよねえ?」
なんの気なしに尋ねてみた。
秋子さんの答えは、私の想像していたものとは大きくかけ離れていた。
「名雪なら、もう学校に向かいましたよ」
「…はい?」
思わずコーヒーカップを手から落としそうになる。
今のは私の聞き間違いか?
「部活の、朝練なんだそうです」
全然納得できる理由じゃないんですが。
私の知ってる名雪は、朝練だから早起きができるというほど器用な人間じゃないはずだ。
「祐宇さん、名雪に何かあったんですか?」
「私の方が訊きたいです」
秋子さんでさえも尋常でないことと捉えてるのか。
これはホントのホントに非常事態なのかもしれない。
「それじゃ、あゆを起こしてきますね」
あゆを起こす分だけでも少しタイムロスはあるが、名雪がいないということだけで時間
の余裕はまだかなりあった。
「ええ。お願いしますね」
そう言えば昨日、泣き疲れて寝たあゆを放置したままなんだよな…。
あゆの涙に安心して、そのあとに色々と考えさせられて、頭の中が目まぐるしく変化し
ていったためにすっかり忘れていた。
そんなことを考えていると、あゆの部屋の前。
ノックしながら「入るぞー」と言う。
反応が無いならノックの必要も無いと思うのだが、それでもノックをするのは哀しい性
だろう。
「…起きてたのか」
「うん、おはよう…」
あゆは軽く笑いかけてくれた。
少なくとも、壁は薄くなってるみたいだ。
それだけでも、随分気持ちが楽になったのが解った。
「今日は学校行くか?」
「……うんっ」
少し考えた後に、あゆは笑顔で頷いた。
登校中は楽しかった。
あゆとならんで学校に歩いて行くのは、この街に来てから初めてのことだ。
「名雪がいないだけでこうも楽に行けるとはなー」
「祐一君、それはちょっと…」
苦笑するあゆ。
それでも否定の声が挙がらないのは、あゆも本心ではそう思ってるからだろう。
「事実だろ」
「それはそうなんだけど…」
それ見ろ。
教室には既に何人かの生徒がいた。
全員驚いた顔をしている。
席につくと、北川が声をかけてきた。
「…これはどういう冗談だ」
開口一番それかよ。
そりゃまぁ、二日続けて余裕をもって登校という快挙は、私自身すら信じ難いことなん
だけれども。
だからって他人に言われると何か無性に腹が立つのは何でだろう。
「お前のセリフこそどういう冗談だか」
「いやだって、相沢って昨日も早かったじゃんか」
それに何か問題があるとでも言うのか。
私だって名雪というペナルティがなければ、こういった感じで普通の登校風景を楽しむ
ことができるんだ。
「ふふふ、名雪は今日朝練だったらしいからな」
「なるほど、納得」
凄い説得力だった。
自分で言っててもそう思った。
何か間違ってる気もするが恐るべし、名雪。
「…あの子が…朝練?」
香里の動きが止まった。
私は何かまずいこと言ったか? とあゆに目で訴えかける。
あゆも私からの通信を受信したらしく、首を振った。
「有り得ないわ」
「いやだって、実際名雪は朝練でいないわけだし」
「あなたたちも同居人なら解るでしょう? …名雪よ」
これまた凄い説得力だった。
信じられない理由として、納得せざるを得なかった。
もし私も香里と同じ立場だったならば、今の事態を同じ理由で信じられなかっただろう。
「確かに…おかしいな」
「昨日はあえて訊かなかったけど、本当に大丈夫なの?」
「……………」
「…うぐぅ」
私は無言で返し、あゆは口癖で返した。
「…ごめんなさい。こんな場で言うことじゃなかったわね」
「いや、別にいいって。悪いのは私らだし、な」
こういうセリフをいう時の自分は嫌だ。
自嘲的な気分になる。
どうせ転校するなら、本当のことを話しても構わないのではないか?
今回のようなことがあったんだ。
今度こそ私は“私”でなくなる。
二度とこの街に来ることもなくなる。
…でも、やはり嫌だ。
あゆの時に感じた距離が、いちばん怖い。
畜生、ずるいよなぁ。
みんなして、いい奴なんだから。
「…じゃ、近い内に栞と家に来てくれれば話すよ」
でも、“いい奴”なら…、
最後くらい、甘えさせてくれてもいいよね?
「…そう、それなら…」
納得してくれたみたい。
頭のいい人相手だと話がスムーズに進んで助かるねえ。
「…どういう話なんだ?」
「…ボクの口からは上手く説明できないよ」
後ろで触覚がうぐぅを探ってるけど、うぐぅからは何も引き出せまい。
…たぶん。
名雪が教室に入ってきたのは、いつも通りにチャイムがなるギリギリの時間だった。
「祐一はお昼どうするの?」
「んあ? いつも通りに先輩方と親睦を深めるつもりだけど」
午前最後の授業が終わり、名雪が私に声をかけてきた。
何でわざわざそんなことを訊くんだ? 私の昼は、いつも舞と佐祐理さんと一緒なのに。
「…何か話があるならキャンセルしてもいいけど?」
別に約束してる訳でもないし。
私が好きで行ってるだけだからな。
「うーん、そういう訳じゃないんだけど、ちょっとね」
少し困った色の混じった笑顔を見せる名雪。
なんとなく訊いてみた程度のものだったのだろうか。
…どうでもいいか。
「よっす」
「こんにちはーっ」
「………」
佐祐理さんが笑顔で出迎え、舞が軽く頭を傾ける。
昨日の暗いムードはどこへ行ったやら、二人の表情は明るかった。
最も、舞の表情なんかは素人には解らないけどな。
私も成長したものである。
「って舞! なに食ってるんだ!」
「佐祐理のお弁当」
論点が違う。
「作った本人の佐祐理さんだって待ってたのに、なぜにアナタは食べているのですか」
事細かに解りやすく的確に説明してやった。
「舞はお腹空いてたんだよねーっ」
こくり。
そしてまたもう一口。
「…仕方が無かった」
「どう仕方が無かったのか一から十まで明確に説明しろっつの」
「…………」
間。
そして、更にもう一口。
「…とてもお腹が減った」
「あははーっ」
「…十分に解った」
なんか疲れた。
普通に食べよっと。
「ところで二人とも、最近忙しかったりしないか?」
卒業間近な訳だし。
「佐祐理は空いてますよ」
「…私も暇」
まあ、逆に暇なのがほとんどなんだろうな。
ちょうど良い。
「なら、今度二人で私の家に来て欲しいな。この間のことで、きちんとお礼をしたいし」
お礼とはよく言ったものだ。
自分の嘘が凄い嫌になる。
本当のことを言ったら、二人は怒るのだろうか。
隠し事をしていた訳だし、今言ったことも嘘だし。
「それなら、祐宇さんの都合に合わせます」
「…私も」
と言われても、私も暇なんだよなー。
どうしたものか。
香里たちと一緒に説明をしてしまえば一回で全てが済んで、少しは楽かもしれない。
「それじゃ予定が解り次第、私から連絡する」
「おねがいしますねーっ」
放課後。
結局、昼休みに全員に接触をすることは無理だった。
二人とのトークを楽しんでいたと言う事実もあったりするのだが。
あとは、天野か。
クラスに乗り込むのは天野に釘を刺されたので禁止。
…となると、ヤマをはって図書室にでも待機してようか。
イメージ的に、図書室で予習復習をきっちりとやってそうだ。
いかにもな、古風なイメージだけど。
「いかんなー、こういった先入観」
ぼやきながら、図書室へ。
図書室に向かう途中、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
目的の人物である。
「おーい、みっしー」
無反応。
むう、ひょっとして人違い?
確かめるべく、やや小走りでその人物の近くに向かう。
「…やっぱり天野じゃないか」
「変な名前で呼ぶのは止めてください」
「手厳しいな。もうちょっと気を軽く持ったらどうだ?」
「相沢さんが軽すぎるんです」
失敬な。
「…で、天野って最近に予定ある?」
「唐突ですね」
天野がふうっとため息をついた。
もともとそれが用件だ。
「別にありませんけど、何か用ですか?」
「んー、ちょっと今度に水瀬家に集まって欲しいんだ」
「…具体的にいつですか?」
「う…」
決まってません。
みっしーってば、そういう所細かいんだからなぁもう。
「計画性が無いと言いますか、何と言いますか…」
やれやれ、と言った感じである。
私が悪いんじゃないやい。
「うーん、他の人の予定次第だな」
「…解りました。じゃあ、分かり次第お伝え下さい」
スムーズに進んだ。
根掘り葉掘り訊いてくるような人間がいなかったのは、ある意味凄い幸運であったと言
うべきか。
言うべきことを考えながら校門を潜ろうとした所、
「あ、あのっ、相沢さんっ」
呼び止められた。
小柄な娘。制服のリボンの色からして、一年生だろう。
「ん? ああ、たしか陸上部の」
マネージャーさんだったか。
名雪がえらく気に入っていた。
「お仕事はきっちりとやってくれるし、部員全員を常に気にかけてくれるいい子」なんだ
そうだ。
「はい。それで、一つ訊きたいことがあるんです」
ふざけた応対をしようとして、すぐやめた。
表情が真剣だ。
「何だ?」
「部長に、水瀬先輩に何があったんですか?」