私には、さっぱり訳がわからなかった。
 名雪に何があったか? と訊かれても困る。
「どういう、ことだ?」
 とりあえず事態を把握しなくては。
 「何があったか?」という質問なのだから、名雪に何かがあったに違いないのだ。
 部員全体を気にかけている、という彼女の言うことなのだから、間違いではないと思う。
 しかし、私には思い当たる節は無い。
 昨日だって、名雪はすぐに復帰していつもの笑顔を見せてくれた。

 昨日、だって?
 そういえば何故あの時、名雪は家にいた?
 商店街に寄って来たとは言え、いつもの陸上部の終わる時間より、ずっと早い時間だったはずだ。

「先輩、今日はタイムががた落ちなんです。昨日も部活を休んだし」
 部活を、休んだ?
 朝練にしてもそうだ。
 いつもの名雪らしからぬ行動の連続。
 何かあったのか? 私の知らない所で。
 でも、少なくとも体調を崩したとかはないだろう。
 空元気であそこまでできたら演劇部への転向を奨めるところだ。
「私は何も知らないけど…、名雪が何か悩んでるなら、相談にでものってみるよ」
 そう言って、話を切り上げた。
 「お願いします」と言って去っていく背中を、ぼんやりと見送る。
 私には、“何があったのか”なんて見当もつかない。
 もし、何かがあるとすれば……、

 家に帰っても、もちろん目的の人間はいなかった。
 そりゃまぁ、朝練に出てたくらいだし。
 少し考えて、すぐに納得した。
 あゆには、今日のことを伝えるべきだろうか。
 それとも、名雪がそれを嫌がるだろうか。

 そんなことを考えながら部屋に戻って一通りのことをした後、最初にいきなりリビングのソファーにダイブしてしまった。
 あゆが私の顔を覗きこむ。
「祐一君、どうしたの?」
「いや……、ちょっと疲れたかな」
 なんで私がこんなに頭を働かせなければいけないのか。
 そう考えただけで、どっと疲れを感じた。
「大丈夫?」
 心配げな、声と表情。
「私を誰だと思ってるんだ」
「祐一君だから、心配なんだよ」
 確かに仰る通り。
 苦笑するしかなかった。
 でも、悪い気はしなかった。
 そして疲労感にも、嫌な気分は抱かなかった。
「なあ、あゆは聞いてるのか? 私に迎えが来るって」
「…………」
 十分に間を取った後、あゆは小さく頷いた。
 暗くなっても仕方ないか。
 ただでさえ、自分を責めていた節がある訳だからな。
「それについて、どう思う?」
「……え?」
 言ったことが解らない、といった表情を向けるあゆ。
「言葉通りだ」
 あゆには私が何を考えてるか解らないだろう。
 私だって、自分が何を言いたいのか把握しきれていない。
 いったい私は、あゆから何を聞き出そうとしている?
 残念がってもらったからといって、私がこの家を去るのを先送りできるものでもないだろうに。
「……いや、すまない。変なことを訊いて悪かったな」
 どうかしてる。
 自嘲の意味を込めて小さく微笑むと、隣の同居人は悲しそうな顔を見せた。
 別に、そんな顔をしてくれなくてもいいのに。
 ただ一人、家族が減るというだけの話なのに。

 それから私たちは、会話らしい会話も無いままに短いひとときを過ごした。
 不意にあゆが、ぽつりと呟く。
「そろそろ、名雪さんが帰ってくるね……」
 私も時計に目をやった。
 もう外も暗くなっていて、時間も確かにそんな時間だった。
「そうだな」
 話しておかなければいけない。心配されていることを。
 あいつのことだから、多分ねことかイチゴ関連の何かくだらない考え事でもあるに違いない。
 本当にそうだったら、びしっと言ってやらなきゃいけないな。
 「くだらないことで、心配かけるんじゃない」って。

「ただいまー」

 玄関から響いてきた声は、いつもの調子だった。
 悩み事があるんじゃないか、とか思われているのが嘘のような声。
 すべてが気のせいだったというのか?
 ……いや、違う。
 名雪はきっと、自分を押し殺そうとしているんだ。
 あいつの性格から言って、十分に考えられることじゃないか。
「名雪さん、おかえりっ」
「おかえりー」
 リビングに入ってきた名雪に、ソファの上でぐだーっとした体勢のまま声をかけた。
「そうそう、名雪が気に入ってたマネージャーさんに声をかけられたんだけど…」
「え……?」
 笑顔が凍った。
 何気なく出したつもりの話題が、意外にも隠れた本心をつついてしまったらしい。
 名雪が部屋に戻ろうと、立ち上がって踵を返した。
「おい名雪?」
 名雪の肩がぴくりと動いた。
 私はそれを見逃さなかった。
 振りかえらずに、
「……わたし、明日の予習をしないと」
 それだけ言って、ドアを開けようと手を伸ばす。
 私が起き上がって名雪の手を掴むよりも速く、名雪はドアを潜ってしまった。
 しまったな、この場で話すことじゃなかったようだ。
 今すぐにも謝るなりしておかなければならない、私は立ち上がって名雪の後を追った。

「待てって。余計なことなら謝るから」
 言いながらも後を追う。
 早足で名雪は自室に踏み入ってしまった。
「おいっ!」
「………………」
 いくら声をかけても、帰ってくるのは沈黙ばかり。
 ドアを叩いてみても、返ってくる反応は全く変わらず。
 こうなれば……。

「やっぱりな。きちんと繋がった構造になってるんじゃないか」
 名雪の部屋を挟んで、私の部屋とあゆの部屋のベランダは一続きになった構造になっている。
 これが寒さの見せた幻なんかじゃないのならば―――ここ、室内だけど―――、名雪から無反応以外の反応が得られるかもしれない。
 何か忘れているような気がする。
 ああ、そうだ。
「高いの怖い」
 口に出して言うと余計に情けなかった。
 人間には怖いもの見たさというものがあるようで、例に漏れず私も恐る恐るベランダから下を覗いてみた。
 ……マジですか。
 情けない話だが、目が眩んだ。

 落ち着け私たかが二階のベランダで恐怖を感じる必要がどこにある手すりだってきっちりとついてるだろうが落ちたってたぶん死にゃあしないってばだいたいなんで名雪の部屋が二階にあるんだアレだけ謎の多い水瀬家なんだから部屋の一個や二個くらい地下に造ってくれたっていいだろういじめかこれはって地下じゃこんな侵入できるわけないじゃないかバカか私は。

 とにかく凄いパニックに陥った。
 どんなにピンチのテストの時でもこの時の思考の回転を上回ったことはなかっただろう。
 例えるなら人前に出てあがっちゃった状態がいちばん近いんじゃないだろうか。
「腹……括るか」
 窓を空けて、決死の一歩。
 はじめて空を飛んだ人もこんな心境だったに違いない。誰だか忘れたが。
 片手で手すりをぎゅっと握り締めて、ゆっくりと一歩、また一歩と踏み出す。
 病院での手術後に久しぶりに歩いたときと同じ位にへろへろだ。
 ついでに寒い。
 防寒具を一切羽織らずに来たのは一種の自殺好意としか思えない。
 何分経ったかわからない。
 とにかく凄まじいまでのスローペースで私は名雪の部屋のベランダに辿り着いた。
「な、名雪ぃぃぃぃ……」
 えらく腰の引けた情けない声になってしまった。
 寒い上に怖いんだからしょうがない。
「祐一……?」
 ガラス越しだからホントにそう言ったのか解らんが、唇がそんな感じに動いた。
 そして、

 シャァッ。

 カーテンが引かれた。
 私の目の前にはカーテンのライトグリーン一色。
「っておい! 何考えてるんだよお前は!」
 思わず怒鳴ってしまった。
 しかし冷静に考えれば、むしろ私のほうが何を考えてるんだ。

 私の顔を見て、そしてカーテンを引いた。
 私に踏み入られたくない領域、もしくは私に原因があるってことか?
「……ぜんぜんわからん」
 生憎と物覚えのよろしい方じゃない。
 名雪の方から白状してくれない限り、どこをどうしたら良いやらまったく想像できなか
った。
「おーい、なゆちゃーん」
 こんこん、とガラスを軽く叩いてみる。
 反応が返ってくるはずが無い。
 なんか悔しかった。こうなったら、とことんまで粘ってやる。

「上着、持ってこようかな…」
 ぼうっとした心地でそんなことをぼやいていると、急に視界が真っ暗になった。
 それがコートをかけられたのだと気付くまでに、数秒の時間を要した。
「祐一君、やっぱり無理してるよ」
「……面目無い」
 苦笑して、そして、
「ありがとな」
 被せられたコートから顔を出した私が最初に見たのは、あゆの笑顔だった。

 二人で座って待つこと数分、実際に時計を持ってるわけでもないので具体的な時間も解らないのだが。
「名雪の奴にも困ったものだな……」
 やれやれ、といった感じで私がため息をつくと、
「いくら名雪さんでも悩みだってあるよ」
 苦笑混じりにあゆが言った。
 それはフォローになってないような気もするが。
 本人の部屋の前でする会話じゃないと思った。
「……な、時計、持ってるか?」
 私の声に、あゆは首を小さく横に振って応える。
 どれほどの時が経ったのか知りたくなるのは、人の哀しい性だ。
「祐一君、一月の間ってずっとこんな感じだったの?」
「ん? ああ」

 栞と出歩いたり。
 舞のいる学校に向かったり。
 真琴を背負ってものみの丘に登ったり。

「……全部バカみたいな真似しかしてないけどな」
 自分の体調などお構いなしのハードな日々の連続だった気がする。
 気がするだけじゃなくて、たぶん実際にハードだったんだろうけど。
「バカな真似って…ぜんぜん、そんなことないよ。祐一君のおかげで今の日常がある人だっているんだよ。だから……」
 一呼吸おいて、
「祐一君は、祐一君にしかできない、すごいことをしたんだよ」
「…………」
 熱弁するあゆに、ちょっと見惚れた。
 照れくさかったので、頭をくしゃくしゃと撫でてやる。
 まったく、どうしてこう嬉しくなるようなこと言うかなぁ。
「そう言ってくれると嬉しい」
 そんなことを言いながら、横に座っているあゆとの距離を縮めた。
 なんだかんだ言って、癒されてるのは私だと思って。

「……」
「……」
 二人の間に言葉が無くなった。
 って言うか、マジ寒い。
 名雪が部屋から出て行ったのならば、間違いなく私たちはバカ丸出し状態である。
 まだ名雪がガラスとカーテンの向こう側にいることを祈るばかりだ。

 ガラッ。

 唐突に、後ろのガラスが開いた。
「風邪、ひいちゃうよ」

 私たちは我先にと名雪の部屋に飛びこんだ。
「ようやく、話をする気になったみたいだな」
 話し云々よりも、今は暖まることの方が先決なのだが。
 高いところにいるという恐怖感も、知らないうちに消え失せてしまっていた。
 ……あゆのおかげかもな。
「名雪さん、ボクたちじゃ、相談にのれないことなのかな?」
「……違うだろ。原因が私かあゆにあるんじゃないか?」
 だから、私たちにまで悩み事を隠してきた。
 そして私たちが話を切り出した途端に接触を断とうとした。
「……ガキみたいな真似するんじゃない。私が言えることじゃないけどな」
「……ょ」
 名雪が、聞き取りにくいほど小さく声に出した。

「祐一には、解らないよ!」


 ……。
 私には解らない、とはどういうことだ?
 もともと他の人間の考えなど解る訳が無いんだが。
 私には持ち得ない類の悩み事だとでも言うのだろうか?
「どういうことだ? 話が見えないんだが」
「わたしは、祐一が、あゆちゃんを許して……優しすぎるから……」
 ……ちっとも話が見えないというか。
 ちょっとは日本語を組みたててから話せというか。
「……あのな、もうちょっと落ち着いて話せ。別に逃げやしないから」
 たくさんの言いたいことがあるのは解った。
 一度にそれを消化しようとすると、訳の解らないことになることも知っている。
 だから、私が今すべきことは名雪を落ち着かせることだ。
「な?」
 そう言って座り込んでいる名雪の髪の上に、軽く手を置いた。
「……うん」


「祐一は……身体がボロボロだし、あゆちゃんは塞ぎこんだりしちゃって……」
 なるほど。
 二人の心が離れてしまうかもしれなかったから、自分まで暗い気持ちになるわけにはいかなかった、ということか。
 もし私たちの間に大きな溝ができたとしても、自分が取り持てるように。
 そう考えた上で、少しの間だけ―――哀しみが風化するまで―――自分の気持ちを封じこめようとした訳だ。

「……祐一は気にして欲しくないって言ったけど、やっぱりわたしの、責任もあるから……」
 名雪の声は小さくて、かすれていた。
 瞳の堤防が決壊するまで、もう間が無いことだろう。
「お前のせいじゃない。私の自己管理がなってなかっただけだから」
 そう言って、私は名雪の頭を抱いた。
 名雪の髪の匂いが、嗅覚を優しくくすぐった。
「……やめてっ!」
 名雪は私を払いのけ、私に背を向けてしまった。
 肩を震えさせながら、震えた声で、
「どうして、責めてくれた方が、まだ、楽なのに……っ」

 何も言わずに、私は再び名雪を抱きしめる。
「あゆにも言ったけどな……」
 セリフの使い回しのようで余りいい気分はしないが。
「もしも自分が許せないなら…、いつもの笑顔を振りまいてろ」
 これが今の私の、精一杯の気持ちだから。
 名雪にも届いてほしい。
 ……いや、届かせてみせる。
「それができないなら、変な責任を感じるな。いつも通りの名雪でいろ」
「だって、ゆうい」
「お前を好きな人を心配させてまで、お前はこんな芝居を続けるつもりか?」
「……そんなこと、わたしは望んで、ない……っ」
 だろうな、お前は優しい奴だから。
 だからこそ、今度のような仮面を被りつづける選択をしたのだろうし。
「じゃあ、笑っててくれるな? もちろん、嘘の笑顔は禁止だぞ?」
 名雪の首が縦に振られた。
 よかった。これできっと、二人とも大丈夫だろう。
「それと、あゆにも言ったことだけど、泣くの禁止な」


「……意地張るのも、バカバカしくなってきたな」
 左手で名雪の頭を撫でながら、右手で右耳のピアスを外す。
 私だって血の通った人間なんだ、ということを示すために開けたピアスの穴。
 もちろん、専用の器具なんて使わなかった。
 使ったのは、火であぶった安全ピンだった。
 なんで耳を傷付けようとしたのかは、今の自分にも全然解らない。
 やけに私を飾りつけようとした親父を、ただ黙らせたかっただけなのかもしれない。
 憶えていることは、滅茶苦茶痛かったことと、手に滴った紅い血の温もりだけだ。

 私の生きている証は、こんなにちっぽけな存在(もの)じゃ収まらない。

「……二人は家族だからな、一種のサービスだぞ?」

 ベランダに繋がる窓から、小さな銀色の光が放物線を描いた。