朝。
いつもの気の抜ける声は聞こえない。
どうやら目覚ましをかけるのを忘れていたらしい。
その割には、あっさりと起きられた。あの目覚ましの存在意義を疑うところだ。
一応、不安なので文字盤をよく見る。
…一時間早いじゃん。
どうりで鳴らない訳だ。
「もう一度寝ると起きられるか解らないな…」
それに確か、今日は土曜日。
さほど体力を使うほどのことも無い。
一時間くらいの睡眠時間の不足など、余り影響を及ぼすこともないだろう。
さっさと起きて適当にくつろいでますか。
早めに名雪を起こすのも、たまにはいいかもしれない。
とりあえず、起きることにして毎日のようにベッドから飛び起きようとする。
「痛っ」
私の身体の爆弾を抱えた部位に痛みが走った。
これまで痛みが走ったことはあった。だが、それは体力を異常に消耗したときくらいだ。
睡眠に体力を消耗するはずがない。
「……?」
慎重に、左胸の辺りに手を当ててみる。
鼓動はいつもよりも、多少は速い。それでも『乱れ』のうちにも入らないくらい。
…だが、痛みは気のせいではない。
「おはようございます、祐宇さん。今日は早いですね」
「ええ、おはようございます。目覚ましよりも早く目が覚めちゃったみたいで」
キッチンで料理をしている秋子さんに声をかけて、私はリビングの方へと向かう。
テレビをつけても退屈なニュースばかり。
ソファに倒れるようにして座りこむ。
なんで朝なのにこんなに疲れてるやらだ。睡眠時間が少し少ないせいだろうか。
ここで寝てても良いだろうか。
「祐宇さん、大丈夫ですか? 顔色が良くないみたいですけど…」
不意に、秋子さんから声がかかった。
この人にかかると些細な体調不良もすぐに見抜かれてしまうようだ。
「…ちょっと、疲れが溜まってるかもしれません」
だから、私は正直に答える。
「無理なようなら、休んでも良いんですよ」
「いえ、皆勤狙ってますから」
果たして転校した場合に皆勤が適用されるのか、よく解らないところだが。
「無理、しないでくださいね」
「ええ」
保証はできないけど。
毎朝のマラソンは十分に無理の範疇に入る気がするし。
私がそう感じてなくても、毎日の素振りも実はかなり身体への負担を蓄積させてるかもしれないし。
そんなことを考えていると、再び心臓が痛んだ。
「もし…私が登校不可能なほど身体がイカれたらどうなります?」
少し怖くなったので、秋子さんに恐る恐る訊いてみる。
いちばん恐れているのは、両親に引き取りに来てもらうことだ。
彼らの足を引っ張りたくなくて水瀬家に居候することにしたというのに、迷惑をかけたくはない。
身体に負担をかけることが死に繋がる可能性のある私は、はっきり言って随分なお荷物だ。
「…そうですね。その侵攻の度合いにもよりますが…」
そして、少しだけ表情を厳しめにして、
「あまりに酷いようなら入院、もしくは姉さんに連絡ですね」
やはり、そうなるか。
それでも無理にこの家にとどまりたいというのは、ただの子供の我侭だ。
だから、それくらいの覚悟はしていた。
「…おかしいですよね、私。急にこんなこと言い出して」
「疲れてるようでしたら、休んでもいいんですよ?」
「…皆勤だけは逃がしたくないんです」
ちょっと強がりな笑いを浮かべて私は明るめに言ってみる。
…まだ大丈夫だ。大丈夫…。
「…あゆー、起きろー」
今日は悪戯を仕掛ける気になれなかった。
ノックするでもなく、いきなり部屋に踏み込んで肩を掴んでガクガクと揺らす。
「…うぐぅ?」
うぐぅの一声。今日は苦労せずに済みそうだ。
とりあえず一安心。ギリギリになったら名雪をあゆに任せてもいい訳だから。
「おはよう、あゆあゆ」
「うん、おはよう祐一君…」
眠そうな顔で挨拶をするあゆ。
そして、何故か私の顔をじっと見詰める。
「祐一君、ひょっとして具合悪い?」
見抜かれた。しかも、あゆに。
この事実は私にかなりのショックを与えた。
「…そんなに悪そうに見えるか?」
水瀬家に住む人間は、たまに勘が鋭い。
今回もそれならば、私としては都合がいい。あゆを丸め込んで万事解決だ。
「うん。祐一君の顔色、今日はやけに悪いよ」
あゆにすら解るのか。
本気で休もうかな、今日。不覚にも少しだけ、そう思った。
「…なぁ、あゆ。私は今日ゆっくりと学校へ行きたい。名雪を任せてもいいか?」
自分でも、私にしては弱気だと思う。
だが、今までに起こったことのない状況であるだけに、怖い。
あゆは少し考えた後に、笑顔になって言った。
「うんっ、いいよっ」
いつもは三人で走っていく道。
…でも、今日は一人。理由は簡単。私の調子が良くない。
「…あー、あれは」
前方に見える二人組の後ろ姿。
一人は女性にしては高い身長に、飾り気のないおさげ。
もう一人は綺麗なロングヘアにグリーンのストライプのリボン。
間違いなく、舞と佐祐理さんだ。
「おーい、舞ー、佐祐理さーん」
やや急ぎ足になって、私は前の二人に近付く。
二人とも私の声が聞こえたらしく、足を止めて待ってくれた。
「あっ、祐宇さん。おはようございます」
「ああ、おはよう」
「…おはよう」
舞の挨拶の後、少しの間を開けて佐祐理さんが腕時計を見た。
ちょっとショック。まぁ、普段が普段だけに仕方ないけど。
「……」
じっ、と舞が私の顔を見る。
今更体調の悪いのを指摘されても驚きはしない。あゆでも見抜いたことだから、舞ならば当然わかるだろう。
「…祐宇、顔色が悪い」
ほらね。
「まあ、な。多分風邪でもひいたんだろ」
適当なことを言って誤魔化す。すると佐祐理さんが、
「祐宇さん、嘘はいけませんよー」
ぎくり。
さすがにあからさますぎたか。
この二人の眼力を相手にして隠し通せる自身は私にはない。
かと言って、本当のことを言ってもいいのだろうか。
隠し事をされることを嫌っている二人なのは知っている。だからこそ言いたくない。
「今日は気分が悪いだけだって」
一応、嘘ではない。
気分が悪い上に心臓が痛んで、尚且つ精神的に弱気になってる訳だから。
「…そう」
「でも、無理はいけませんよ」
意外にもあっさりと引き下がった。
でもたぶん、二人はわかっている。
私が今の状態を隠したいと思ってることさえも。
この場合、私は喜ぶべきなのだろうか。
「…何故に」
気付いたら昼になっているのか。周りには下校の仕度をしてる人がチラホラと。
記憶を順を追って整理してみよう。
まず、校門を潜って校内に入った。
そして下駄箱、廊下、階段といつものルートを通ったのも覚えている。
教室に入ったのも記憶にある。香織に何やら驚かれた。
そして、石橋が入ってきて朝のHR…。HR?
その辺りからの記憶がない。まさかずっと寝ていたのか?
「…ある意味、記録だな」
「何がだ?」
鞄を持った北川が後ろから話しかけてくる。
そこでふと思ったことを口にしてみる。
「何故に名雪もあゆも香織も北川も私を起こさないんだ…」
おかげで身体の方も少しは楽になったかと思えばそうでもないし。
寝損だ。
「あまりに見事な熟睡だったからな。さすが水瀬さんの従姉妹と言うか」
「起こせよ。っつーか仮病使ってでも保健室に連れてけよ」
「皆勤狙ってるんだろ?」
そうだった。
だから無理を押してまで学校に来たのだ。
「祐一君、今日はどうするの?」
横から話しかけてくるあゆ。
毎日のように舞のところへと通うのが日課だったが、如何せん今日は都合が悪い。
「舞のところへは行ってくる。今日は休み、って伝えにな」
「うん、じゃあボク待ってるね」
「ああ」と短く返事をして私は三年の教室のある校舎へと足を運んだ。
歩きながら、私はもう一度今日の行動を思い返してみる。
「…ホントに寝てた…のか」
眠気など全く無かったのに?
何かを忘れている気がする。
重大なことが起こって、それで…。
そんなことを考えながら、三年の教室が見えてきたころ…。
「痛ぅっ!!」
心臓が、跳ねた。
違う。寝てたんじゃない。
席についた途端、胸に激痛が走って…、
気絶してた、のだ。
私の脳裏に浮かぶのは、七年前の光景。
落下したあゆを受け止めた直後の痛み。
そして、医者の「いつ死んでもおかしくない」と言う言葉。
死ぬ? …私が?
身体中の力が抜けていく。
視界が黒くなっていく。
…死ぬのは、嫌だ。
「…ん」
目が覚めた。
目に入ったのは、天井。私の部屋の。
…夢オチ?
ふと思った。
だが、ありえる訳が無い。あれほどリアルな痛みを伴う夢など。
今度は忘れてなど、いない。私は確かに三年の教室へと向かった、そして…。
「生きてる、よね…」
柄にもない言葉遣いだと思いながら、私は自分の鼓動を確かめる。
脈はいつも通りに戻っている。どうやら静まったようだ。
「ええ。祐宇さんは、きちんとここにいますよ」
返事が聞こえた。声の主は秋子さんだった。
…さっきの、聞かれた? およそ普段の自分では絶対に使わないような言葉遣いを。
もしそうだとすれば、えらく恥ずかしい。
「あの…」
ずっと傍に居てくれたんですか?
そう言おうとした私の額に、秋子さんの暖かい手が載せられた。
「休んでいてください。…疲れてるみたいですから」
反論する理由が無い。私はおとなしく休ませてもらうことにした。
シャレにならない疲労感のおかげで、眠りに落ちるのは簡単そうだ。
目が覚めた。
開けっぱなしのカーテンの先は暗い。時計に目をやると、いつもなら夕飯を食べている時間だった。
そういえば、昼ご飯も食べていない。
「お腹、空いた…」
とりあえず下へ降りよう。
「祐一っ」
「祐一君っ」
食卓についていた名雪とあゆが私のもとに駆け寄ってくる。
…心配してくれたのは嬉しいが、食事中だろう。行儀が悪い。
「祐一君が倒れたって聞いて、ボク心配で…」
「祐一もう大丈夫? 熱とかない?」
二人いっぺんに話かけるな。
おまけに言わせてもらうと私の進行方向に立ちはだかっているから、かなり邪魔だ。
「あとで思う存分質問に答えてやるから通せっつの」
思わず本音が出た。
食事終了。
とりあえず、だいぶ落ち着いた。
「…で、質問は一つずつな」
私は聖徳太子のような一度に複数の人間の話を聞くという器用な真似はできない。
「祐一、この家に来た時に言ったよね。もう隠し事は無いって」
「まあ、な」
そう言えばそんなことも言った気がする。
すっかり忘れてたが、まだ再会したばかりで水瀬家に対する遠慮のようなものがあったのだろう。
「それって、本当?」
「…何が言いたいんだ?」
訊かずとも解ることだ。
私は、確かに家族に嘘を吐いたのだから。
「祐一君、病気か何かあったりしない?」
「…なんでそれを黙ってる必要がある」
ことごとく投げかけられる質問を、私は一つ一つ跳ね返していく。
確かに質問に答えると言った。だが、真実を話すとは言ってない。詭弁かもしれないが、障害に関しては何も話したくない。
「祐宇さん」
秋子さんから声がかかる。
私は声を上げずに視線だけで返事をした。
「名雪とあゆちゃんを、信じてあげてもいいんじゃないですか?」
「別に、信じてない訳じゃ…」
嘘だ。
私はまだ、名雪やあゆが距離を空けることを恐れている。
家族だから話しても良い、じゃない。家族だからこそ、尚のこと話せない。
「祐宇さんがどんな人だろうと、二人とも変わったりしませんよ」
「…私は」
怖いんだ。
壊れ物を扱うように私に接するようになった両親。
遊びに誘ってくれなくなった友達。
今までの生活が夢だったかのように思える隔離だった。
…でも、この街に来て。
懐かしい人たちと再会して。新しい人たちと出会って。
私は、やっと昔の私を取り戻したのに。
「…私の行動は、逃げなのかな…」
思わず呟いた言葉。
話したら、今の自分が楽になるわけではない。現状は別に変わらない。
百歩譲って名雪が変わらなかったとしても、あゆはどうだ?
あゆのことだから、自分が原因だと思うに違いない。距離を作るなという方が無理だ。
「ボク、受け止めるよ。祐一君がどんなものを抱えてても」
あゆが口を開いた。
真っ直ぐな瞳には、強い意思を感じる。
「そうか…」
決めた。
あゆがそう言うなら…、
「わかった。全てを話す。七年前の事件から全部、な…」
「…という訳だ」
二人は驚きを隠せないようだった。
特に原因であるあゆの心境は、決して良いものだとは言えないだろう。
「…ごめんなさい、祐一君…」
「別に謝られるいわれは無いって、言ったろうが」
俯いたあゆの額を人差し指でこつんと押す。
「私が気にしてないんだから、お前も気にするんじゃない」
気休めにしかならないのを知っていて、私はこんなことを言っている。
だから、言いたくなかったのに…。
「秋子さん、風呂、沸いてますか?」
ちょっとの間を空けて、関係無いことを訊いてみた。
私は疲れていた。そして…
「ええ。疲れてるでしょうから今日は早めに休んだ方がいいですよ」
この居心地の悪い空間から、逃げたかった。
ベッドに入っても、眠れそうになかった。
当たり前だ。今日はむしろ起きている時間の方が短い。
時計も、いつもならテレビを見てぼーっとしている時間を指していた。
私はなんとなく目覚し時計のスイッチを入れてみた。
『朝〜、朝だよ〜』
…
『朝ご飯食べて学校行くよ〜』
…本当、役立たずな目覚ましだ。
でも、何故かこの時計が急にいとおしいものに感じた。
だって、この時計は…
確かに、飾り物でない私がここに居た証であるのだから。