カップに注がれたコーヒーを一口。
 冷えきった身体には、それは少し熱かった。
 いつもなら気分を落ち着かせてくれるそれも、こういった事態には少しも役に立ってはくれない。
『あとで、私が直接話してみます』
 なぜ、"あとで"なんて言ったのだろう。
 本気であゆを心配しているのであれば、今すぐにでも行くべきなのに。
 理由は考えなくとも解る。
 少しでも先延ばしにしようとしている私の弱さ故だ。
 斉藤は私が変わったと言ったが、全然そんなことはないじゃないか。
 ……脆弱で自分勝手な子供のままだ。

 秋子さんは私の弱さが篭った言葉に対して何も言うことはなかった。
 無意識に公に晒した隠された意味に気が付かなかったのだろうか。
 それとも、私の弱さを見抜いた上で何も言わなかったのだろうか。
 考えるまでもない、後者だ。
 私が自分の弱さに気付いた上で、それを克服できるように。
 秋子さんはそういう人だ。
 私は秋子さんが期待しているように、今の弱さを克服できるのだろうか。
 疑問は、消えなかった。

 考えながら階段に一歩一歩足をかけていく。
 小さな足音を立てながら。
 あゆの部屋の前に付く前に、名雪の部屋の前を通ることになる。
 そう言えば先刻の電話で話したとき、名雪の声にも陰りがあった。
 ……一緒に話しておいたほうが良いだろうか。
「名雪、いるか?」
 部屋のドアをノックする。
 さすがの名雪と言っても、夕方時に眠りについていることはないだろう。
「……うん」
 少しの間を空けた後、ドアの向こうから名雪の声が聞こえた。
 何故だか、ほっとした。
「これからあゆの部屋に行く。取り込んだ用が無いなら一緒に来い」
「……うん」
 とりあえず、二人と話をする環境は創れそうだ。
 名雪が私に対して何かしら思うことがあるのであれば、朝のマラソンだろうか。
 あれが最も負担をかけていることくらい、運動部所属の名雪は理解しているはずだ。
 私が倒れた原因として挙がるのかどうか知らないが、名雪のことだから気に病んでいるに違いない。

 二人とも、優しすぎるから。

「……祐一」
「どうした? 『うにゅ』とか『だおー』の名雪はどこへ行った?」
 私一人で明るく繕ってみても、期待通りの答えが帰ってくるわけが無いことくらい知っていた。
 でも、そうせざるを得なかった。
 私は二人に距離を置いて欲しくない。
「……あゆちゃんのこと」
「ああ。秋子さんから聞いた」
 随分酷い状態になってるらしいからな。

 私なんかのために。

「あゆー」
 ドンドン。
 ドアを叩く音、そして呼びかける私の声。
 ここまできたら、返事があろうと無かろうと構わない。
「勝手に入るからなー。あられもない姿を私たちに見られても泣くんじゃないぞー」
 引きこもってる時点で、そんな微笑ましい状況は期待できないが。
 部屋に鍵がかかっていたとしても、そのときは家主様の御力を借りるまでのことだ。
 そこまで考えが回らなかったのかどうかは知らないが、鍵は開いていた。
 案の定…と言うべきか、あゆはベッドの上にうずくまっていた。
 もう陽はとっくに落ちていると言うのに、電気はついていなかった。
「祐一、君?」
「そんな確認取る必要はないけどな」
 私はあゆに一歩だけ歩み寄る。
 あゆはまるで私を認識していないかのように動かない。
 ……想像してたよりもずっと重症だな。
 この状態のあゆの手を取って、もとの屈託のない笑顔を取り戻せるか。
 やれるかどうかは解らない、でも、やるしか、ない。
「一日ずっとそうやって、ちょっとは気が晴れたか?」
 いつも通りの笑みを浮かべて、おちゃらけた感じにそう言ってみる。
 晴れる訳がない。
 外をぶらついていた私でさえ、今の嫌な気持ちを捨て切ることはできなかったのだから。
 言葉にする前に答えが解っていながらも、私はあゆに言葉をかけた。
 あゆは、やはり何も返事をしない。
「たった一ヶ月ちょっとと言っても一緒に住んでたんだ。私の気持ちくらい解るだろう?」
「……祐一」
 後ろから名雪の声がかかったが、聞こえないふりをする。
 途中で阻まれる訳には行かない。
 ただでさえ気持ちが挫けてしまいそうなのに。
「なんで私が自分の身体のことを話さなかったと思ってるんだ? そりゃ、隠してたことについては謝るよ」
 言いながらしゃがみ込み、あゆと同じ目線の高さを同じにする。
 あゆは私と目を合わせないようにと、更に下の方を向く。
 途端に私の身体中を冷たいものが走っていった。
 それが悲しみだ、と認識し、言葉を造るよりも前に、
「目を背けるのは……やめてよ」
 正直な気持ちが口から出てきた。
 名雪やあゆが驚いたのが、見なくても理解できる。
「……どうして私から離れるんだよ」
 再会した時にそうしたように。
 
 あゆの小さな身体を、腕の中に。
「それがいやだったから、言わなかったのに……」
「……祐一は、自分が思ってるよりも、ずっと優しいんだよ……」
 両肩に名雪の手が置かれる。
 腕の中のあゆが、震えているのが解る。
 ……泣いている。
「……そんなこと、ない。私は我侭を通したかっただけだ……っ」

 声が震えた。
 嬉しかったのか? 私は……。

「っく、ゆういち……っくん」
 あゆの声が聞こえた。
「あゆ」
 二人とも、私のことを想って、気に病んでくれて。

 たぶん、知っていたんだ。
 両親も、友達も、私から離れていったんじゃないことくらい。
 私が自分から線を引いたりしなければ、変わることなんて無かったんだ。

 ……私は、いちばんの莫迦だな。
「……あゆ、何度も言うけどな。私は別にお前を恨んじゃいない」
 だから、今できることを。
「確かに馬鹿なことをやったとは思うさ。あの時はガキだったしな」
 全て伝えられるか解らないけれど。
「でも、な。秤にかけて良いものじゃないけど、お前の命に比べれば安いもんだろ?」
 私の中に込められているものを、全てこの場で解放する。
 あゆは小さく私の腕の中で首を振った。
「っ……そんなこと、ないよ。祐一君は……」 
「黙れ」
 そう言って、私はもっと強くあゆを抱きしめる。
 できれば、最後まで言わせて欲しかった。
 こう言う時しか格好つけられないような、情けない奴なんだから。

 不意に、肩に手を置いた名雪が後ろから私に声をかける。
「……祐一、一つ訊いてもいい?」
「別に、変なことじゃなければいいけどな」
「お母さんは、知ってたの?」
 私は頷いた。
 秋子さんは前もって母さんから全てを聞いていた。
 仮に隠していたとしても、秋子さんにまで通じるほど私の嘘は上手じゃないだろう。
「だから迎えに来てくれたのは秋子さんだったんだけどな」
 仮に名雪が迎えに来たとした場合、その場合は徒歩で水瀬家に向かうことになる。
 まだボロボロの身体がこの街の寒さに対応できるか解らなかったので、この判断は当然のものだろう。
「わたしが祐一の迎えに行くはずだったのに……って、ずっと気になってたんだよ」
 数年ぶりに会う大好きな従兄弟に最初に会いたかった気持ちは解らなくもない。
「ごめんな」
「……いいよ。わたしこそ、ごめんなさい」
 肩に置かれた手が離れ、腕が首に回される。
 私があゆと名雪に挟まれて密着している、といった具合だ。
「謝られることは何もされてないはずだけどな?」
「わたしが、朝弱いから」
 やっぱり気にしてたのか。
「あのな、何度も言わせるな。……気には、してない」
 ある意味ではむしろ、感謝したいくらいだ。
 名雪のおかげで、少なくとも私は普通の人間であるという認識を得ることができていた。
 毎朝のダッシュの度に心臓が痛んだのは事実だが、我侭を通すにはそれなりのリスクを背負わなければならない。
 リスクを背負わないで我侭を通そうなんて子供じみた考えは、私は持てない。
「でも」
「お前も黙れ」
 どうしてこう、この家の住人は人のことを気にし過ぎるのか。
 ……だからこそ、私も今までそれに甘えられたりもしたんだが。

「あゆ、名雪、お前たちに一つだけ訊く。……頼むから、正直に答えろ」
「……うん」
 耳元から名雪の声が聞こえ、あゆが小さく頷くのを感じた。
「今は私のことを、どう思ってる?」
 質問の後に、静寂。
 もちろん瞬時に答えられる質問ではないことくらい、知っていて口に出した。
 答えが返ってくるまで、ずっと待つつもりでいた。

 秒針の音だけが部屋中に響き、それを数えるのにも飽き始めたころ…、
「……わからない、よ」
 小さな声を発したのはあゆ。
 それだけ言って、あゆは私の腕を強引に解いた。
「祐一君のことは大好きだよ。でも」
 そこまで言ったあゆの額を、人差し指で軽く突く。
「……そこまで答えは出てるんじゃないか」

 私と名雪はあゆの部屋を出た。
「良かったの? 祐一」
 名雪が私に問い掛けた。
「時間が必要だろ」
 名雪にも、あゆにも。
 そして、私にも。
「こういう時は、どうしたらいいのかな……」
 名雪は神妙に首をかしげる。
 自分一人で解決するには大きい問題だった、ってことだろうか。
 
「わからない、けど頼るのは最後の最後までしたくないな…」
 今は、自分なりに足掻いてみたい。
 ちょっと前まで、この事態がくることを最も恐れていたというのに、こうなってしまった今は、逆に自分で答えを見つけたい。

 あゆと名雪から笑顔を奪ったのは私だから。



 目覚めは最悪だった。
 いつも通りに起きられた。それだけなら構わない。 
 むしろ逆にそれが問題だというべきか。
 私は普段、起きるべき時間よりも少し早めに目覚し時計をセットしている。
 理由は簡単、隣の部屋の『だおー』を起こすためだ。
「って言っても、なぁ」
 二人と一緒に学校に行くのは気まずい。
 その前に、二人が学校に行くのかどうかも解らない。

 まずは名雪だ。
 ドアのノックを三回、無駄だと知っていても私はドアを叩いた。
「おはようございます、祐宇さん」
 背後から声がかけられた。
 ちょっとだけ、びっくりした。
「あ、おはようございます。秋子さん」
 どうして秋子さんがここに?
 少し考えると理由はすぐに思い浮かんだ。
 おそらく、私に朝のマラソンをさせないよう名雪が頼んだのだろう。
「祐宇さんは下で朝ご飯を頂いて下さい。名雪とあゆちゃんは私が起こしますから」
 やっぱりね。
 確かに名雪を起こす手間がなければ、私は余裕を持って歩いて登校できる。
 名雪を起こすことが大手間と言ってしまえばあんまりかもしれないが、実際そうなのだ
から仕方がない。
「それじゃあ、お願いしますね」
 ここはご好意に甘えておこう。
 下手に名雪を待ったりすると「祐一は走っちゃダメなんだよ」とか言われかねない。
「あ、祐宇さん」
「なんです?」
 階段を下りかけた所で秋子さんが私を呼び止めた。
「今日は、朝は紅茶でも構いませんか?」
「別にいいですよ」
 切らしてしまったのだろうか。
 もともと私くらいしか飲みそうにないし、補充すること自体なかっただろうから。

 食卓の上にあるのは小洒落た感じのするカップ。
 もちろん、中には何も入ってない。
「一応、私から確認を取ってないからなんだろうけどな…」
 今までコーヒーが既に用意されてたことを考えると、少しだけ寂しかった。
 紅茶でもどうせ断ることはなかったのだから、用意しておいてくれればよかったのに。
「……いかんなー、私」
 秋子さんは全てを知っていた人なのに。
 たかが空のカップ一つで距離を感じた。

 とりあえず、顔を洗ってこよう。