一種の人徳というやつだろうか。
 教室に入った途端に響く、クラスの連中の驚嘆の声。
 そりゃまあ、普段は遅刻寸前に教室に駆け込んでいるけどさ。
 予鈴よりも二十分以上の余裕を持って登校できるなんて、私にとっても久しぶりなこと
だ。
 少なくとも、今の学校に通うようになってからは夢のまた夢状態だった。
「何かあったの?」
「いや、別に何もないぞ」
 香里の質問に簡単に答えながら席に着く。
 …私が余裕を持って登校することは異常事態なのか?
「何もない訳ないでしょう。一人で登校してきてるくらいだし」
「…頼みなんだよ。名雪の」
 一応、嘘じゃない。
「そう、ならいいわ」
 割とあっさりと引き下がってくれた。
 何か隠してるってことくらいは、見破られたかな。
 香里だし。

「今日は雪でも降るのか?」
 背後から声をかけてきたのは北川。
 失礼な奴だ。
 しかもこの地方でこの季節だと雪が降ってもたいして珍しくないぞ。
「天気予報では今日は晴れだって言ってたけどな」
「じゃあ、なんでここにいるんだ」
「誰が」
「相沢が」
「ここの生徒だからだろ」
「いや、そういう意味じゃなくてだな」
 なに、違ったのか。
 まったくもって正論だと思うのだが。
「…なんで水瀬と月宮がいないんだ?」
 少しの間を空けて、今度は質問の方法を変えてきた。
 一応、北川にも学習能力があったことが立証された訳だ。
 名雪の頼み…だけだと通用しそうにない。
 さっきは気付かなかったが、それだと、あゆがいない理由になっていない。
 香里と違って、北川だと突っ込んで訊いてくるかもしれない。
 かと言って、他にいい理由が思い浮かばない。
「秘密」
 これで通すしかない。
「なんで」
「秘密」
「それはみさ」
「秘密だっつってるだろうが」
 セリフを言わせない。
 『攻撃は最大の防御』とは昔の人はいいことを言ったものだ。
 ちなみにセリフは香里からの引用。恩に着る。

 名雪は予鈴ギリギリになって教室に飛びこんできた。
 そして、あゆは現れなかった。

「おはよう、名雪」
 なるべく何事もなかったかのように、かつ爽やかに言葉をかけた。
「うん。おはよう、祐一」
 すると名雪は、いつもの笑顔で返した。
 …吹っ切れたのか?
 今回は私に大事がなかった訳だし、これからは気をつければいいと言うことなのかもし
れない。
「あゆちゃん、今日お休みだって」
「そっか」
 私はそっけなく返した。
 気の効いたセリフが出てくるはずがない。


「んじゃ、私は約束があるから」
 昼、学食に向かう美坂チームとは別れて昼食を取る。
「あ、祐一」
 名雪が手に提げていた紙袋を私に渡した。
「これ…、倉田先輩と川澄先輩に」
「そっか。お礼しないとな」
 すっかり忘れてた。
 私が倒れてから、まだ三日もたっていないというのに。
 私は名雪から紙袋を受け取る。
 重さから考えて、中身は和菓子か何かという所だろうか。
「んじゃ」
 そう言って、怪訝そうな香里と北川を無視して軽快なステップで階段を駆け上がった。

 毎度思うのだが、この学校の躍り場は何故に綺麗なのだろうか。
 人が踏み入らないなら、普通もっと埃っぽくてもおかしくないと思う。
 魔物云々よりも、こっちの方がずっと不思議なのだが。
 そんなどうでもいいことを考えていると、二人の姿が見えてきた。
「ちっす」
「祐宇さん…」
「……」
 あやー、やっぱりちょっと暗めのムードが漂ってるよ。
 そりゃまぁ、ダイレクトに倒れた訳だから仕方ないんだけれども。
「なんか二人には世話になったな。私を運んでくれたそうで」
 落ち着いて考えてみると、かなり訳の解らないセリフだ。
「もう大丈夫なんですか?」
「…まぁ、今は平気っぽいな」
 今日一日が既に半分を過ぎたが、未だに心臓は痛みを訴えたりはしていない。
 とりあえず回復したということだろうか。
 悪化した訳じゃなくて、一時的なものだっただろうし。
「私も心配した」
「ああ、本当ありがとな」
 舞の頭を『えらいえらい』とでも言うかのように撫で撫でする。

 ぽかっ!

 チョップで殴られた。おのれ。
「照れ隠しか?」
 悔しいので反撃に移ることにする。
 …と言っても先は読めてるんだが。

 ぽかっ!

 ほらね。
「うう…、今のチョップで気分が…」
 わざとおどけて言ってみる。
 第三撃めのチョップを構えていた舞が、急に手を引っ込めた。
 ふふふ、私の勝ちだな。
「冗談だけど」
 間。
「…あははーっ」
「…………………」
 …あれ?

 ぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかっ!

「痛たたたたたたたっ、ごめん、私が悪かったっ」
 尋常じゃないスピードで両手から繰り出されるチョップの嵐。
「今のは祐宇さんが悪いですねー」
 私の頭がタンコブ製造機になろうとしているときに、佐祐理さんは割と楽しそうに解説
を入れた。
 ひとしきり叩き終わった後、舞はそっぽを向いてしまった。
 …確かにちょっとやり過ぎたな。
「本当にごめん。お詫びに今度何か奢るから」
「牛丼」
 予測はできていたが、もうちょっと色気のあるものを頼んでくれ。
 そんなことを口に出そうものなら今度は何を頼まれるか解ったものじゃないから何も言
わないが。
「了解」
「佐祐理の分も」
「へいへい」
 まったく、どっちが先輩なんだか。


 そして放課後、
「よう、こんな所で会うとは珍しいな」
「相沢さんが普段来ないだけでしょう?」
 ここは図書室。
 天野のクラスで直接訊いた所、こちらに向かったということで来たわけだ。
「いい加減、私のクラスに現れるのはやめてください」
「なんで?」
 佐祐理さんなんぞ現れるどころかズカズカと入り込んで来たりするんだが。
 それに比べれば可愛いものだと思う。
「相沢さんに一目惚れの生徒が三人、話してみて好きになった人が五人。それらの質問責
めに遭う私の身になってください」
 ああ、何かと天野のクラスの人間に絡んだりしたからな。
 …って待て、一目惚れですと?
「また物好きもいたものだ」
「私もそう思います」
「こういう時はツッコミかフォローしてくれると嬉しいんだけどな」
「事実ですから」
 私たちの後ろで図書委員が咳払いをする。
 『図書室では静かに』というやつだ。
 仕方なく、愛想笑いをしながら私は天野の腕を引っ張ってその場を逃げた。
 天野はびっくりしたようだったが、当然ながら不満を漏らすようなことは無かった。

「…で、何の用ですか?」
 言い方は静かだが、何やらプレッシャーを感じる。
「怒ってる?」
「当たり前でしょう」
「えぅ、そんなこと言う人嫌いです」
「似合ってませんよ」
 そんなストレートに言わなくたって…。
 ちょっと傷ついた。
「こういうのはどうやって訊いたらいいものか…」
「私に訊かないで下さい」
 ナイスツッコミ。
 でも、今求めてる答えはそういうものじゃない。
「天野、料理とかってできる方?」
「人並みになら」
 ビンゴ! 求めていた答えだ。
 やはり私の勘は正しかった。
 いや、決して天野がおばさんくさいとか思ってた訳じゃないぞ。
「それじゃ、なるべくコストを抑えて、尚且つ思わず食べたくなる料理って言ったら何を
作る?」
「…相沢さんが作るんですか?」
 なんだその不安げな表情は。
 顔の所々から『水瀬家に過酷な罰ゲームが課せられた』みたいな思いが滲み出てるぞ。
 見てろよ、いつか驚かせてやるからな。
「いいから!」
「そうですね、それなら…」


「ただいまー」
 とりあえず声高らかに言いながら玄関を潜った。
 私が沈んでたら全てがうまくいかない。とりあえず今は、そう思ってないとやってられ
ない。
「おかえり、祐一」
 いつも通りの笑顔の名雪。
 …何か引っ掛かりを感じたが、今はそんな些細なことに構ってなんかいられない。
 私は短く「ああ」と答えてから急ぎめに部屋に戻った。
 手早く着替えを済ませ(私はあの制服が嫌いだ)、財布をポケットに突っ込んで部屋を出た。
「祐一…、どこか行くの?」
「ああ、ちょっとな…。一応訊くが、今日の夕飯は?」
「えっと、今日はお母さんが仕事で遅いから炒飯がラッピングしてあったけど…」
 運が良いと言うべきか何と言うべきか。
 確認してみた所、およそ二人分。あゆの分は…?
 本人の希望だろうか。
「…そっか」
 あとで別なものが増えてそうだがな。
「それともう一つ、…あゆは、あのままか?」
 この質問を投げかけると、名雪の表情に再び陰りが見えた。
 そして、力なく「…うん」と頷いた。
 雰囲気が気まずかったので、椅子にかかった上着を羽織ってそのまま外に繰り出した。
 目指すは、商店街だ。


『そうですね…。オーソドックスにカレーか、今の時期なら鍋物ですね』
 思い出されるのは、天野の言葉。
 天野に相談してよかった。他の連中だと、どんな食べ物が飛び出すか解ったものじゃあ
…あるな、一応。
 アイスだの牛丼だのと言われても困るだけだが。
 それにしても、天野がオーソドックスとか言ったのは正直驚いた。
 あいつも俗に言う“横文字”を言うんだなあ。
 …それはあんまりと言うものか。
「カレーねぇ…」
 イメージ的に、あゆは辛いものよりも甘いものの方が好きそうだ。
 それに、しばらく何も入ってない胃に入れるには、カレーじゃあ刺激が強すぎる。
 やはり汁もの系に属するものの方が良さそうだ。
 って、考えずとも解ることだな。常識だ。
 …調味料は一通りあるはずだから、スープの一つでも作ってやればよかったんじゃない
か?
 天野に訊いた意味、一瞬にしてゼロに。すまん天野。
「…んじゃ、材料を購入しますかね」
 気を取り直して買い物開始。
 秋子さんの買い物の手伝いなんかで何度も来てるから、安い店なんかは大体わかる。


「こんなもん、かなっ」
 材料の詰まった買い物袋を両手に、根拠の無い満足感を一杯に。
 急ぎめに帰ってきて、買い物を済ませた。そこまではいい。
 が、ここで一つ大きな落とし穴があった。時間というものを考えてない。
 さあ、どうしたものか。
「夕飯の時間を多少遅らせるか…」
 名雪には悪いが、背に腹は代えられない。
 それに、名雪はがっつくようなタイプじゃないから怒ったりしないだろう。


「…祐一、なにやってるの?」
 名雪乱入。
「見て解らんか」
「料理してる」
 正解。
「私の『あゆあゆ復活計画』だからな」
 今できることは、なんでもやってやる。

「あゆー、入るぞー」
 トレーを持っているので両手が塞がっている。
 よって、ノックはできない。よく考えたらドアノブも掴めない。
 仕方がなく、一度床にトレーを置いてドアを空けた。
「…まだ塞ぎ込んでるみたいだな」
「………」
 あゆは何も言わない。
 …そう言えばこいつ、睡眠はちゃんととっているのだろうか?
 悪いが、ちょっと顔を拝見させてもらおう。
「お前、昨日寝てないだろ?」
 あゆは小さく首を縦に振った。
「生活リズムを崩すと、身体に悪いぞ」
「…いいもん、別に」
「私を哀れんでるつもりか? …だとしたら迷惑だ」
「…自分が許せないだけだよっ!」
 ちょっと驚いた。
 まさか強い口調で返されるなんて思っても見なかった。
 気を取り直して、
「夕飯…食べるか?」
 今度は小さく首を横に振るあゆ。
 この答えも一応予想済みだ。
「そうか…。せっかく私がお前の分を作ってやったというのに、お前はそれを無駄にする
と」
「え…」
「それに、もしかしたらお前の生涯最後の私の料理かもしれないのにな」
「祐一君、それってどういう…」
「言葉通り」
 倒れた、ということは私の実家に連絡が通っていてもおかしくは無い。
 こんなことまで利用する私は卑怯だろうか。
「お前が塞ぎ込んだって私の体調が良くなる訳じゃない。…でもお前が笑うようになれば
私の気分は良くなるんだ」
 だから笑え。
「もしもお前が責任を感じてるなら…笑え」
 いつもみたいに。
「お前がお前を許せなくても、私がお前を許してやる」

「ゆう…いちくん…」
 あゆが飛びついてきた。
 私はその小さな身体を、受け止めてやった。そしてそのすぐ後、
「うぁっ、うわあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 凄い大きな声だったけど、小さい子をあやすかのように髪を撫でてやる。
 泣き止むまで、…いや、泣き止んでも、あゆがもういいと言っても、こうしてやりたい
気分だった。
「あー…、お前って、なんでそう泣き虫かなぁ…?」
 苦笑しながら。
 でも、別に嫌な気分じゃなかった。
「あと、家族の前とは言え身なりには気を遣えよ? …一応、女の子なんだからな」
「うぐぅ…祐一君に言われたくない」
 それを言われちゃ返す言葉も無い。


「祐一、“お母さん”って感じだったよ」
 部屋を出るとき、名雪に声をかけられた。
 見てやがったのか。滅茶苦茶恥ずかしいぞ。
 あれだけ馬鹿でかい声だったのだから仕方ないけど。
「アホ言え。私はまだガキを持つ歳じゃない」
 正直な所、ちょっと照れくさかった。
 名雪が一瞬だけ暗そうな表情を見せたが、気のせいだったのだろう。



「祐宇さん、ちょっといいですか?」
 帰ってきた秋子さんが、開口一番、私に声をかけた。
「ええ。…母さんに連絡したんですね?」
 秋子さんは頷いた。
 表情は真剣。となると、わざわざ言われずとも事態は飲みこめる。

「近い内に、祐宇さんの迎えに来るそうです」