……夢。
夢を見ている。
その日が近づくたびに、目覚めの気分が悪くなっていく。
その日が近づくたびに、私は思い出す。
誰かを好きになっていい人間じゃないこと。
誰かに好かれていい人間でもないこと。
「っは……っ」
目覚めは最悪だった。
指でそっと額に触れる。
ひやりと、けれど生温い感触、大量の汗をかいてしまっていたようである。
「くだらないっ」
そう言いながら、私は思い切り身体を起こす。
布団をはぐと冷たい空気が衣服を突き抜けて身体を包む。
寒い、けどそのおかげで目は覚めた。
「くだらない、くだらないくだらない……」
頭の中で思ったとおりに、同じことを反芻する。
そうしてしまわないと、重大な事だって思えてしまう。
ぼふり。最後に一つ、硬さに慣れてきた枕を殴りつけた。
私は何に怒ってるんだろう。
それはきっと、その日が近づいてきたから。
忘れたかったのに、忘れようと努めてたのに。
時計を見て、少しだけ動きを止める。
いつもよりさらに早く目を覚ましてしまったようだ。
シャァッ! と勢いよくカーテンを開く。
穏やかな朝の光も、目覚めたばかりで光に慣れていないその目には眩しかった。
寝起き独特の口の中の粘つきがいやに気になる。
つ、と服の上から胸の手術痕を指でなぞった。
爽やかな、朝だった。
登校。
朝が苦手な名雪も最近は改善の兆しが見えてきたようで、一週間に一度くらいは余裕を
持って登校するようになった。
うむ、こうやって人間は成長していくのだ。間違いない。
そして、今日がその珍しい日にあたる。
何やら上機嫌らしく鼻歌混じりに歩く姿に和みつつ、隣のあゆにも目線をやる。
「どうしたの? 祐一君」
目が合った。
特に用がある訳でもないので、答えるまでに少し間が空く。
「あー、いや、なんでも、ない」
区切りの多い不自然な回答に、少しだけあゆが怪訝そうな顔をする。
倒れた前科があるだけに上手い誤魔化しが思いつかない。
体調自体は本当に何もないんだ、たぶん。
少しだけ気分が良くない気もするけど。
「って、あれ? 名雪は?」
私たちの少し前を歩いていた名雪の姿がない。
振り返ってみると、
「……ねこさんだよー…………」
塀の上に一匹の猫。
まずい。名雪が久々のトランスモードに入っている。
あゆに名雪を押さえつけるだけの力を期待できるか?
瞬時に出た答えとともに、私は名雪の元に駆けた。
「ゆうい……」
あゆが声にするよりも速く。
頑張るべきはたった数歩、もしくは猫のほうを逃がしてもいい。
「落ち着け名雪ぃっ!」
叫びとともに肩を掴むべく腕を伸ばす――が、その手は空を切る。
しまったと思うときには、もう名雪の目は愛玩対象をロックオン。
後ろの方で「あぁ……祐一君……」って追悼の念が漂う視線を感じるが気にしない。
今、こいつを止められるのは私だけだっ。
てけてけてけてけ。
塀の上の猫が歩く。
何を思ったか、方向的には私の方に。
「ねこさんっ!」
名雪だっしゅ!
「って、ちょっと待っ」
驚いた私がトランス名雪の突撃に耐えられるはずもなく。
どーん。
目から星。
気がついたら名雪が私に覆いかぶさる状態に。
「え、祐一? なんで? どうして?」
正気に戻った名雪が頭に?マークを浮かべているようだ。
目がチカチカし、頭がくらくらする。
どうやら頭を打ったらしい。
それが名雪の頭突きによるものか倒れたときにぶつけたかまで判断できない。
「わわっ、祐一っ! 祐一ってばっ!」
耳元で騒ぐな。うるさい。
正直名雪の頭を掴んで思いっきり揺さぶってやりたいがそれどころではない。
とりあえず名雪をどかさねば……って、あれ?
意識が反転する。
世界がぐるぐる回る。
「ぁ、れ……?」
気が突くと横になっている。
自分の部屋のはずがない、と周りの状況から判断。
すぐ近くにある窓から外を見る。
「学、校?」
僅かに違和感があるものの、その風景は私の知っている場所のもの。
やや間があって、違和感の正体はこの角度から見たことがないから、というものだと
気付く。
どうやら私がいるのは学校の保健室であるらしい。
名雪との激突で気を失ったのだろうか。
あれは派手にぶつかったし、実際そのあたりの記憶が無い。
となると、あの二人が私をここに運んだということだろうか。
それは少し考えづらいので、他の誰かの手を借りたという線も考えられる。
ちょっとだけ自分の体重を思い浮かべ、運んでくれた誰かに何故か申し訳なく思った。
「誰か、いないのかな?」
保健室なら先生がいてもおかしくないと思う。
時計を見遣れば、ホームルームの時間はとっくに回っている。
「うわ、やばっ!」
倒れたことについてはともかくとして、出られる授業だけは全部出たい。
もし一回でも休んだら、これからも嫌になるたび休んでしまう気がする。
それが怖い。何よりも。
嫌になることがある度に逃げの一手を打つのも悪いことじゃないとは思う。
けど、それがいつでも最優先になるのだけは絶対に嫌だ。
「ああもうっ、なんで誰もいないんだよぉっ」
声を抑え目に慌てながらペンを走らせる。
片付いた机に少しばかり崩れた字の「教室に戻ります」のメモを置いて。
走るのは厳禁、静かな廊下をドタバタするのは避けたい。
あと、自分の身体のためにも。
少し乱れた髪を手で直しながら、早足で廊下を行く。
「うむ、それにしてもいい眺めだった」
休み時間に開口一番、そう言ってきたのは人呼んで北川という金髪バカ。
何の事を言っているのかさっぱりわからない。
こいつに自然の風景を愛でるような趣味がついたとでも言うのだろうか。
「なんのことだ。写真部への入部でも考えたか?」
「まあ、確かに写真に収めたいショットであったのは間違いないな」
ただの平凡な一高校生が後世に遺したいほどの決定的瞬間ってなんだ。
そう思っていると、名雪が私に
「北川君が祐一を運んでくれたんだよ」
と教えてくれた。
「その通り。さあ俺に感謝しろ」
威丈高に言われると逆に腹が立つのは何でだろう。
「いやー、それにしてもまさか朝っぱらから濃厚ならぐえっ!」
北川はそれを最後まで言えなかった。
危険を察した私の蹴りが北川を同時に襲ったために。
この制服でのキックは致命的とも思えるが、この際それは気にしない。
見えたとか見えてないとか聞こえたような気もするが聞かなかったことにしよう。
その後から名雪との激突後に私がどんな状態にあったのかが思い出される。
それもどういう訳か当時よりも鮮明な画像で。
傍目から見れば、私が名雪に押し倒されているという状態に見えたはず。
そんなこんなで立ち上がる北川。
「落ち着け相沢、俺は同性愛者に偏見は無いっ!」
祐宇ちゃんぱーんち!
きたがわ は たおれた!
「い、命ばかりはお助けをぉぉ……」
「じゃ、百歩譲って半殺し」
「俺の人生の道のりは二百歩なのかっ!」
北川は気付く、その若さのために気付けなかった己の卑小さに。
こうやって人は大人になっていくのだ。間違いない。
「あと、私はそんな趣味は無い。名雪はともかく」
「ゆ、祐一!?」
溜息をつきながらの最後の一言が名雪を面白い具合にうろたえさせる。
ついでに連動するかのようにざわりとするクラスの連中。
男子陣の中に思う所ありだ、という反応さえ少し混じっているのは何故だろう。
「わ、わたしは違うよ!?」
誰にでもなく顔を真っ赤にして抗議する名雪だが、これはある種逆効果。
教室の隅でクールに溜息ついて呆れてる女帝様を見習いなさい。
既に巻き添えを避けるために退避してるくらいなんだぞ。
「うむ、今日もいい日だった」
「まだ放課後だよ」
すかさず突っ込んできたあゆ。
こんなに早く突っ込みを入れられるとは、こいつも何かしらの成長をしたようだ。
とりあえず、それが主に胸部に関することではないことは確か。
「なにか失礼なこと思ってない?」
「うむ、私的には礼儀正しいことしか思ってないぞ」
あくまでも私基準。
正直に、かつ相手の心を傷つけぬようオブラートに包んだ表現。
完璧すぎる言い回しに自分でもうっとりしてしまうくらいだ。
「ほんとうに?」
じーっと私の目を覗き込んでくるあゆ。
反射的に目を逸らしたくなる所だが、そこは私。
キラキラと瞳を輝かせて(いるつもりで)あゆの童女特有の無垢な瞳を覗き返す。
……なぜか溜息をつかれた。
小さく「やっぱり失礼だよ」とか言った気もするが、そんな気がしただけなのだろう。
清く正しく美しく、を美徳としている私が誰かに不快を与えるはずが無いではないか。
「漫才は終わったのかしら?」
そこへ割り込んできたのはクラスの女帝様こと香里。
「だったら、少し付き合ってもらえるかしら?」
「私らが?」
「他に誰がいるのよ」
名雪、と言おうとして部活のことを思い出した。
「栞とかは?」
「あの子からのご指名なのよ」
なるほど、納得。
日にちが日にちなだけに栞から、というのはすごく納得できた。
「お、美坂チーム出動か?」
話を聞いてたらしい北川が私らに話しかける。
どうやらコイツは暇人らしい。
「悪い、今日はお前キャンセル」
「なして!? もしかして俺は用済みか。俺は手駒の一つに過ぎなかったということかっ」
ボディーランゲージまでつけたオーバーリアクション。
面白いから少しの間ほっといてやろう。
頭を抱えたまま硬直すること数分。
そして律儀にもそれを見守る美坂チーム一同。
「……で、なんで俺は不参加?」
「カレンダー見てから同じこと言えるかしら?」
今が二月であること、乙女趣味満載な栞からのお誘い。
この辺りの推測できる要員で分かったらしく、北川の頭上に電球が浮かぶ。
「そうか、では期待しているぞ美坂ッ! そしてさらばだ!」
言うが早いが教室からダッシュ。
そんな彼の目には、光るものがあった。たぶん。
香里は、心の底からといった感じで深く息を吐いていた。
この二人の方がよっぽど漫才として成立するような気がする。
「さ、行きましょうか」
リーダーの一言で、私とあゆは一年の教室へと向かった。