いったい何なのだろう、これは。
寒い外からの帰還し、暖を取ろうと思ってドアを開けたところ目に入ったのが銀色の
まぶしいボディのそいつだった。
真新しい独特の匂いをかもし出し、家と外の境界線であるこの場所に居座っている。
自転車だった。
いきなり過ぎてひどく反応に困ったのは言うまでもない。
何せ舞に何か埋め合わせをやろうと商店街を見て回り、今しがた帰ってきたばかりだ。
昼に出て行く際、こんなモノはこの場所に無かった。
「祐一君? おかえりなさい」
あゆが奥のほうからひょっこりと顔を出した。
もちろん、入り口にででんと構えている自転車についてはノーコメント。
天然なのかわざとなのか判断に苦しむ。
「これ、なんだ」
真新しさが眩しいフレームを指差しながら言ってみた。
「うーん、邪魔なら外に出しておけばいいじゃないかな」
驚きなどの反応は見られなかった。
それどころか、淡白だった。
誰のかわからないだけに下手に動かすのも悪い気がする。
もしかしたら誰かの自転車を預かっているのだろうか。
だとしたら、下手なところに置いておく訳にもいかないだろう。
新品らしいフレームに傷を付けるわけにもいかず、私は自転車をなんとか避けて家の
中に入るのだった。
暖房が効いている部屋を期待していたのだが、リビングの空気は残念ながら外気温に
毛を生やした程度の温度しかない。
「寒い」
今更ながら口にしてみる。
「あ、ごめんね。誰もいなくてもったいなかったから」
その心がけはむしろ殊勝であって、別に申し訳なく思うことは無いんだが。
あゆがエアコンのリモコンを手に取り、暖房のスイッチを入れた。
聞き慣れた小さな電子音とともに暖房が可動を再開する。
「今のうちにコート脱いできたほうがいいよ。あったかくなると部屋から出て行きにく
くなっちゃうし」
「そうだな、って、おまえはいいのか?」
あゆの羽織っていたカーディガンに視線を移しながら訊いてみた。
言われたあゆは「あ」と小さく声に出す。
「ボクのはコートみたいに重いものじゃないからいいんだよ」
嘘付けこんにゃろう。
心の中で突っ込みながら、私はリビングを後にした。
普通に突っ込む気力も湧かなかったというのが本音である。
廊下の空気は冷たいが、外に比べるとまだ身体に優しい。
手早く着替えを済ませ、ついでに洗面所にも寄って手洗いやうがいも忘れない。
見事なまでにすっかり習慣づいたものだと思いながら一連の動作をこなし、私はリビ
ングへと戻った。
「おかえりなさい」
「おう、ただいま」
さっきも言われたような気がするが、その時は返事をしていなかった。
これはこれで対応としては間違いあるまい、そういうことにしておこう。
テーブルには私愛用のコーヒーカップが置いてあった。
おそらくあゆが用意しておいてくれたのだろう、中身は紅茶のようだった。
「ごめんね。コーヒーの淹れ方とかよく分からなくて」
「いや、ありがとな」
本音を言えばコーヒーの方が好ましいのだが、コーヒー派でないあゆは私好みの一品
を仕上げることはできないだろう。
それと別に紅茶が嫌いという訳でもない。
猫舌と言うわけでもないということで、身体を暖めるためにも一気にくいっと煽った。
「わ、すごい」
「まあな。うぐぅとは違うんだ」
本音言うと、かなり熱かった。
ちょっと頑張った手前、それを言う訳にはいかなかった。
「ね、ところで祐一君」
「んー?」
二杯目を注ぎながら、あゆは私に声をかける。
何か訊きたいことがあるらしく、ちらちらと視線を送ったりもしている。
その“何か”はすぐに予測がついた。
「渡すものならちゃんと渡してきたぞ」
なにやら驚いた表情で固まるあゆ。
何だ、私は何か悪いことでも言ったのか。
「すごい! 何でボクが訊こうとしてたことが分かったの? 祐一君エスパー?」
今度は瞳を輝かせ出した。
ずいぶん安っぽいエスパーもいたものだな、そう思いながら、私は二杯目の紅茶を一
口だけすすった。
お茶の淹れ方が丁寧なのか、味は悪くない。
それでも、やっぱり熱かった。
「で、私の方からも疑問があるんだが」
「ボクエスパーじゃないよ?」
知っとるわ。
「あのとっても頑丈そうな銀色ボディの憎い奴は何だ」
「銀色の?」
あゆの頭上に「?」マーク。
どうやら本気で思い至っていないらしい。
「玄関に合った自転車は何なのか」
「祐一君、自転車は自転車であって決してナンじゃな」
すぱこーん。
言い切る前にスリッパチョップがあゆを襲った。
「うぐぅ、痛い……」
「痛く叩いたんだから当たり前だ。誰もボケを求めてない」
言いながらも、私は少しだけ自分に感動していた。
我ながら見事な速さと手際のよさ、惚れ惚れするほどだ。
被害者であるあゆの方はたまったものじゃないだろうが、美しささえ感じると言って
も過言でないと自負しておこう。
「あれはね、えーとどれくらい前だったかな。祐一君が出てからだいたい一時間くらい
したぐらい」
壁に掛かった時計を見ながらあゆが思い出すように言う。
「秋子さんがお仕事の最中なのにわざわざ来てくれて、それでこれを、って」
「は?」
私の頭上に「?」マークは引っ越してきた。
そもそも秋子さんがどのような職に就いているのかも知らないのであるが、わざわざ
仕事の最中に家まで帰ってくるものだろうか。
急な仕事と聞いているが、案外早く片付いたのだろうか。
その割に家に帰ってきていないというのも謎である。
ふむう、とよく分からない声を出しながら、私は首をかしげた。
気にはなるが、判断するには材料が少なすぎる。
ちゃんとした意図があって置いてあるようなので、むしろ私たちは気にせず放置して
おくべきなのだろう。
私の判断を話してみたところ、あゆも同じように考えていたらしい。
うぐぅ。
そのまま、三十分ほどテーブルに突っ伏していた。
そこら中を歩き回っただけなのだが、思いのほか疲れが溜まっているらしい。
若者らしくないな、と思いながらも身体は重力に対して無力だった。
耳に入るのはあゆが見ているらしいテレビの音。
どうやらドラマの再放送でもやっているらしく、聞いたことのあるようなオープニン
グ曲が私の耳に入ってきた。
このままでは眠ってしまうのではないだろうか、眠くなったら寝る、これではまるで
名雪である。
「課題という制度は悪しき慣習だと思うんだ」
「ど、どうしたの? 急に」
「学校という学び舎がありながら、家でもなぜ勉強をせねばならないのか。これではど
こにいても同じじゃないか」
「う、うぐ?」
突っ伏しているままなので反応は見えないが、唐突に切り出した内容に戸惑っている
ようだ。
構わず、そのまま思いつくまま続けてみた。
「よって、私は課題・宿題といった制度の撤廃を請願したい。成立すれば世の学生諸君
が遊びと学びを真に両立させられるナイスプランだ」
「だ、ダメだよ祐一君! 宿題は大事だよ!」
「どこがどう大事なのか教えてくれ。なるべく詳細かつ明確に。二十文字以内で」
「最後の注文がおかしいよっ!」
どこの誰に撤廃を頼み込むのか、という点がツッコミから抜けている。
心の中であゆのツッコミを添削した。
やっぱりこいつの反応は面白い。
「まあ要するにだ、退屈と身体の重さから意識が飛びそうになっている」
「眠いの?」
「そうともいう」
いかん、まともに台詞を喋るのも億劫だ。
頭だけをあげ、ふるふると首を振った。
この家に住むようになってから少しだけ伸びた髪が頬に触れる。
「シャワー、浴びてくる」
重い身体を起こし、更に椅子に頼っていた腰と膝に神経を巡らせる。
歩き回って汗もかいたし、
「……っ」
思い出したくもない件である一個目のチョコレートがフラッシュバックする。
ふるふる。
眠気を飛ばすのとは別の意味で、私は二度目のかぶりを振った。
着替えを取りに部屋に一度寄らねばならない。
リビングと廊下の温度差は、無駄にヒートアップしてしまった皮膚を冷やすのにはま
だまだ足りない。
若干薄手の部屋着を手に、私は浴室へ向かった。
自分の身体が嫌いだ。
胸のいびつな傷痕を見るたびにそう思う。
他の誰かより、私は生き方を制限されている。
他の誰かは、飛んだり跳ねたり走ったりの度に痛みに苦しんだりもしない。
他の誰かは、身体に醜い線を引かれていない。
傷痕は、呪詛でも唱えるかのようにその事実を淡々と突きつけてくる。
それを腹立たしいと思う反面、誰に腹を立てていいのかが分からない。
私はその“誰”にもっとも近いであろう人間を、ありとあらゆる手段で傷つけた。
誰かにその傷痕を晒すこともした。
そこまで嫌っている一方で、そいつの命を絶とうとは考えられない中途半端さが余計
に嫌悪感を煽る。
「……ぁ」
再構築されて敏感になった皮膚は、空気の乾燥をいち早く感じ取る。
ようやく、今になって思い当たった。
私がピアスを開けたのは、自分の生を主張するとともに“誰か”を傷つけたかった手
始めでもあったのだと。
あゆを恨んだことがないか、といえば嘘だ。
あいつを助けたりしなければ、と何度考えたか知れない。
タイルに爪を立て、僅かに力を込める。
やっぱり眠っていればよかった。
たとえ悪い夢を見るにしても、夢ならすぐに切り捨てられる。
後悔の念を浴びながら、私は蛇口を捻った。
「ただいまー」
遠く、声が届いた。
おそらくは名雪が帰ってきたのだろう。
シャワーを早めに空けてやった方がいいのかもしれない。
そう思ったが、私は浴室からは出られなかった。
今の顔で外に出るのは嫌だ。
せめて落ち着くまで、一人で泣きたかった。
「おかえり」
ぽむ、と椅子に座っている名雪の頭に掌を乗せ、私は声をかけた。
「あ、祐一君、ずいぶんゆっくりしてたね」
「うん、まあな」
「わたし待ってたんだよー」
苦笑しながら、すまなかったと短く答える。
二人の間で自転車については既に話し合われたんだろうか。
そんなことを考えながら、既にぬるくなってしまった紅茶を口に含んだ。
「祐一、お風呂で寝ちゃったのかと思ってたよ」
「お前と一緒にするな」
テレビは再放送のエンディングテーマが流れている。
入る前にオープニングだったのだから、名雪を一時間近くも待たせてしまったのだろ
うか、そう考えるとさすがに悪い気がする。
名雪はついさっきまで部活で走り回ってたんだし。
「あ、そうだ。祐一君」
あゆが掌サイズの小袋を私に手渡す。
「バレンタインだからねっ」
「いいのか? 私は何も用意してないぞ」
「いいんだよっ」
あゆは私の減らず口を明るい笑顔で返した。
名雪がいなくなってから渡したということは、最初から用意してないのだろうか。そ
れとも名雪にはもう渡したのか。
頭に引っかかりを感じたが、些細なことはどうでもいいことだ。
貰ったものはありがたく召し上がらせて頂こう。
可愛らしく結ばれたライトブルーのリボンを解き、私は小袋の封を開けた。
「一緒に食うか?」
「それ、ボクが祐一君にあげたんだよ」
あゆが苦笑交じりに返す。
「そうだ、私がもらった。だから私がお前に分けてやる。これでいいだろ?」
私からの申し出に、あゆは笑顔で頷いた。
いそいそと紅茶の準備を始める。
そんなあゆの後姿は、小学生が背伸びしてお茶を淹れようとしているようで何とも微
笑ましい。
どう頑張っても私はこいつを嫌えそうにない。
結論を再確認し、私は再びテーブルについた。
秋子さんが帰ってきたのは、夕食時になってからのことだ。
玄関の自転車を見たときの第一声は、「あらあら」だった。
「あの自転車、何なんですか?」
「あれは、祐宇さんのですよ」
すぐに質問に答えられ、かえって反応に困った。
「私の?」
「ええ、自転車の方が楽かと思いまして」
「移動範囲が増えてかえってそこら中走り回ったりするとか、考えません?」
「だって祐宇さんですから」
信頼度たっぷりに言われた。
反応に困る一方で、あまり悪い気はしなかった。