大空の月の光し清ければ 影見し水ぞまづ氷ける
        よみ人しらず(古今和歌集 冬歌)

 

 

 今宵は満月。頬を撫でる風は透明で、どこまでも澄んだ匂いを漂わせる。
 草木がさわさわと揺れる音を聞きながら、トゥスクル國が皇ベナウィは月を見上げてた
め息をついた。
 先王ハクオロの治世が終わり、皇が不在の國となってからおよそ一年。その間にも、目
まぐるしく事は起こった。
 戦友たちは散り散りとなった。エルルゥとアルルゥは故郷のヤマユラを復興させるために。
カルラとトウカは旅に、ウルトリィとカミュは祖国オンカミヤムカイへと。彼女等はいずれもハ
クオロに惹かれ、導かれてきた者たちだ。
 次に、オボロの妹ユズハがハクオロの子を成し、臥した。「長くない」と言われていた彼
女だったが、最期に子を抱く事ができたのはせめてもの幸せであった事だろう。
 オボロはその子を連れ、國を見て廻ることを決断した。ユズハは病のために光を失って
いた。だからこそ、この子には世界を見せてやりたいのだと。
 ベナウィや腹心クロウをはじめ、國の重臣たちは揃って反対した。当然のことである。
ハクオロの義弟にあたるオボロは次期の皇。更にはその次の皇となる子まで連れ出そうと
いうのだから。
 反対しながらもオボロがトゥスクル國を出て行くことを止められないのは解っていた。
むしろ、それでこそ先陣を切って敵陣に突っ込んでいく武人、オボロだとすら思っていた。



 オボロがトゥスクル國を出て行く前日のことである。
 彼は先王の側近の部屋を訪れた。戦の刀を携えて。

「ベナウィ、頼みがある」
「何でしょうか?」

 オボロの言わんとしていることは解っていた。それでも、ベナウィは何も表情には出さ
なかった。

「俺と……戦ってくれ」

 ベナウィは顔に出さずに少し笑った。答えは考えるまでもない。
 クロウを立ち合いに立て、至急に復興に力を注いでいる最中のエルルゥを呼び寄せた。
 戦いは、明朝。

 朝の冷たい空気が、二人の間に流れる。
 小さな風。
 葉がかさかさと揺れる音。
 愛用の槍を構え、オボロに向けた。
 迎え撃つのは二振りの刃。
 言葉は、要らなかった。
「ハァァァァァァァァァァァァッ!」
 二つ刀を隙なく構えたまま、片方が突っ込む。
 相手は柄で受けると見せかけ、足元を薙いだ。
 予期していたかのごとく飛び上がり、それを避ける。
 間合いを詰め、袈裟切り……が、そこに槍術の武人の姿はない。
 連続した突き。
 二刀の武人は動かない。

 キィンッ!

 二本の刀で、自分の急所を狙ってくる槍を次々に弾く。
 ベナウィは驚いた素振りを見せなかった。もともと速さの点に於いて分があるのはオボ
ロだ。
 オボロが再び攻めあがる。

 二刀がそれぞれ違う生き物のように攻めてくる剣技。
 片方を剣に、片方を盾にする法。
 翻すと見せて袈裟切りに転ずる手管。
 初見の時のような、闇雲に突っ込むだけの剣士の姿はそこには無い。

 火神の身と天性の嗅覚。
 ぞくりとする感覚すら覚えた。
 が、ベナウィとてトゥスクルの侍大将を務める武人。戦術の数、経験、そういった部分
において勝っているのは彼の方である。

 ふうっ、と息をつく。
 オボロが一瞬だけ、構えを緩める。
 切れ長の眼が、かっと見開かれた。
 槍の穂で斬りかかる。
 隙を突かれたオボロの防御が、一瞬遅れる。
 槍を受け流されながらも、返す刃で斬り上げる。
 二刀目の刃でそれを弾く。
 両者とも武器を大きく弾かれた、身体ががら空きの状態となる。

「せいッ!」

 刀を返すよりも速く、槍の柄をオボロの頭に叩きつける。
 たじろぐオボロ。
 続けざまに槍の刃を咽元に突きつけた。

「勝負、あったな」
 クロウが静かに呟いた。エルルゥは目立った怪我人も出なかったことに安堵した。見守
っていた兵士たちの緊張も解けていく中、クロウだけはいつもの二人の手合いとはどこか
が違っていたことに気付いていた。
 勝負がつくのが早すぎる。これは敗北を喫したオボロの方に原因があるのかもしれない。
いや、それよりも。

 大将、何があったんだ……?

 オボロを武具に例えたならば、それは彼の愛用する武具通りに“剣”であろう。対する
ベナウィは槍を使うものの“盾”とも成り得る、そんな武人だった。多くの部下を統率す
る立場上、それは自然なことだ。
 しかし今日の彼は違う。“侍大将”としての盾の気質は無かった。あったのは一本の槍
としての、貫く姿勢。
 クロウには、それを探る気はなかった。武人が姿勢を変えるのは、覚悟の現れだ。




 サクヤは、一人でぼうっと月を見上げていた。
 いつも一緒のクーヤはつい今しがた寝付いた所だ。記憶と人格を失った今でも、自分の
敷いた床をクーヤは気にいっていた。サクヤには、それが嬉しかった。
 窓から見える月は、優しかった。
 宮廷内で世話になっているサクヤだが、評判はあまり良いものとは言えなかった。先王
の最期の側室という立場であるが、子供どころか寵愛すら受けてはいない。それは戦や時
期などを含めても仕方のないことだったが、何よりも種族に問題がある。
 クーヤとサクヤは当時戦争をしていたクンネカムンの種族、シャクコポル族だ。ただで
さえシャクコポルは下賎の民としての扱いを受けてきた。加えて戦争を仕掛ける、という
行為に及び、連合国軍の前に敗れ分裂するに至った。
 身分や人柄は関係なく、二人の存在を疎んじるものは少なからずいた。中には「さすがの
ハクオロ皇も穴人には手を出す気にならなかった」などと悪質な冗談を言う輩もいることを、
サクヤは知っていた。
 戦の英断を下したのは他でもないクンネカムン皇であったクーヤであるが、サクヤはク
ーヤを恨んではいなかった。むしろそういう決断をせざるを得ない状況に追い込まれるま
で何もできなかった自分を責めていた。


 なんの気なしに、サクヤは腱の切れた脚を引き摺るようにして部屋の外に出た。檜製の
廊下は、少しだけ冷たい。そのまま、サクヤは空の見える所まで歩いていった。
「はぁ……」
 一つためいき。
 いろいろなことが、あった。
 だからこそ、月の光は優しかった。
「サクヤ殿?」
 シャクコポル族の長い耳をびくっとさせて、サクヤは振り返る。そこにいたのは、同じ
く月を眺めていたベナウィだった。
「ベナウィさ……いえ、聖上」
 少しだけ動転していたとは言え、不覚にも“さん”付けで呼びかけてサクヤは内心慌て
た。ベナウィが悪い人間でないことは知っているが、彼の厳しそうな雰囲気には未だに慣
れない。
「そこまで固くなる必要はありませんよ」
 ベナウィは穏やかに笑った。サクヤが初めて見る表情だ。形式を重んじ、文武両道をま
さに姿にしたような彼であるが、年齢が大きく離れている訳でもない。

 ベナウィが即位してはどうだ、と提案したのは他ならぬオボロだった。ベナウィには武
勲、知識、責任感といったものが揃っている。狩猟民族上がりの自分よりも、その方がず
っと良い國を創り上げてくれるのではないか、ということだ。
 問題はあった。民の中にはケナシコウルペ時代の再来を恐れる者があったからだ。ベナ
ウィといえば精錬潔白な人間として名高い者だが、彼の人となりをよく知らない者は、ケ
ナシコウルペの名に脅えた。
 ベナウィが即位してまだ数ヶ月。戦乱の中での新しい政権の確立は決して楽なものでは
なかった。

 サクヤはベナウィの方に一歩だけ近寄った。片足が不自由なので、一歩だけでも不自然
に、ゆっくりとした歩みになる。
「脚は、大丈夫ですか?」
 その様子を見て、ベナウィが声をかけた。痛みはとうに無くなっている。脚の神経だけ
は名治療士のエルルゥでも治療の仕方がなかったが。
「はい。それに」
 サクヤは自分の通ってきた道を振りかえる。
「クーヤ様が私の分まで元気ですから」
 自然に笑えた、と思う。ベナウィの人柄は知っている。宮廷内での自分たちに関する噂
も、恐らくは耳に入っているだろう。気にしている様子を見せてはいけなかった。これ以
上、迷惑をかけたくない。

「一つ、提案があるのですが聞いて頂けますか?」
「……なんですか?」
 サクヤは少しだけ考えて、聞くことにした。皇自らの話を、聞かない訳にはいかない。

「あなたに、私の片腕となっていただきたいのです」

 静寂。
 二呼吸ほどの間の後に、
「えっ、えええええええええぇぇぇぇぇっ!?」
 鳥たちも眠りについていた真夜中に、幼さを少し含んだ少女の絶叫が響き渡った。余り
に突然過ぎる申し出に、サクヤの頭の中はパニック状態にされた。
「何もそこまで驚くことでは」
 平然とベナウィはそう言うが、驚かない方がどうかしている。
 皇の片腕ということは、少なくとも重臣の一人になると言うことだ。自分にそのような
任が務まるとは思えなかった。
 頼れる家臣、というものは國にとって必要なものだ。頼るもののないある皇は傀儡と化
し、またある皇を民の恐怖に仕立て上げる。前者はまさしくクーヤのことであるので、サ
クヤもそれはよく知っている。
「ど、どどど、どうしてですかっ?」
「あなたは、かのゲンジマル様の孫でしょう?」
 シャクコポルとしての出生以上に、伝説的な侍であったゲンジマルの雷名は大きな意味
を持つものだ。武士の鏡とも言える彼の血族であれば、智謀や知略といったものにも精通
するものがあるかもしれない。
 加えてサクヤはクーヤに最も近い存在であった。つまり今は亡き國クンネカムンの内情
をよく知る人間である。かの國がかつての大戦乱まで国力を保っていた理由は、兵器アヴ・
カムゥだけではないはずだ。むしろ、兵器などは邪魔になりかねない。穴人として蔑まれ
ていたためにまともな交易も望めなかったはずである。結果として落ち着くのは、資源が
豊富であり、行き届いた政治が行われていたということになる。サクヤがそれを知ってい
たとしても、何ら不思議はなかった。
 死に目に会うことは叶わなかったがサクヤは祖父のことを尊敬しているし、兄が祖父の
“武”に憧れたように彼女は“文”の方に憧れを抱いていた。目標に近付くために一日中
書物と睨み合いをしたこともある。
「あなたは、もう少し自信を持った方がいいですよ」
 ベナウィは子供に諭すような口調でゆっくりとそう言った。謝る癖を持っている相手に
対して、それはいささか難しい注文であるのだが。
「あの、お返事は」
 はっと気付いたように、サクヤが声をかける。多少上ずった調子になってしまったが、
ベナウィは気にしないでいてくれた。
「いつでも構いませんよ。のんびりされ過ぎても困りますが」
 そこで、その夜の会話は終わった。寝所に戻ろうとするサクヤをベナウィは心配そうに
見ていたが、「大丈夫です」と返した。

 眠りについたクーヤを起こさぬよう、努めて静かに戸を開け、閉める。
「ん〜」
 起こしてしまったのかと思って背筋をびくりとさせたが、寝言だったようだ。ほっと胸
を撫で下ろし、クーヤの隣に敷いた自分の床に入る。

『私の片腕となってもらいたいのです』

 ベナウィの言葉が頭の中で反芻される。頭から布団をかぶっても、それは消えてくれな
い。
 夜は、長かった。



「きゃ〜」
 暖かな日差しが真上に差し掛かる頃、シャクコポルの二人は禁裏の庭園に足を運んでい
た。クーヤはトゥスクルの土地に咲く花を見るたびに瞳を輝かせ、感嘆(だと思われる)声を
上げる。サクヤは、そんなクーヤの様子を見守っていた。
 微笑ましい光景なのに気が晴れないのは昨夜の会話のせいだ。サクヤを重臣の一人とし
て迎えたい、彼はそう言った。自分には無理だ、と思う。ベナウィの言う片腕はクーヤの傍
にいたのとは訳が違う。何しろ、國の一角を支える人間になるのだから。

 ならば、どうして自分は迷っているのだろうか?

「さく〜?」
 クーヤが不思議なものを見るような顔をして、サクヤの顔を覗き込んでいた。サクヤは
息を呑んだ。記憶を封印し、幼子のようになってしまった今でもクーヤはアムルリネウルカ
・クーヤだった。湖底を思わせるような深い瞳は、少しも損なわれていない。
「クーヤ様……っ」
 泣きそうになる気持ちを押し殺して、サクヤはクーヤを抱きしめた。日光を身体いっぱ
いに浴びていたクーヤからは、暖かい匂いがした。

 迷っていたのは、クーヤのためだ。
 「寵愛を受けられなかった室」として陰で噂を立てられるのは決して気分の良いものでな
かったが、耐えることはできた。傍に“友である”クーヤがいたから。
 本来ならばサクヤとクーヤの同室は認められない。クーヤは立場上は敵国の捕虜だ。そ
こを我侭を通してもらっているのだから余計に立場が悪い。困ったことに、それはベナウィ
の立場にも悪い影響を与えてしまう。

 だが、もし自分がベナウィの家臣となれば……?
 少なくとも、クーヤを預かるという名目を作り出すことができるのではないか?

「クーヤ様」
「お?」
 ぱちくりとしたクーヤの瞳を、サクヤはまっすぐ見詰めた。
「あなたの心に気づくことができなくて、本当にごめんなさい。でも、これからは……」
 冷たい空気を、一呼吸。
「あたしが、クーヤ様をお守り致します」
 彼女にしては珍しい、強い口調。
 エヴェンクルガの英雄ゲンジマルの血は、確かに彼女に流れていた。