太陽が真上を通り越し、傾き始める頃。禁裏の一角にクーヤはいた。つい先程までお昼
寝に興じていた彼女であったが、目覚めればサクヤの姿はない。ベナウィの元へ向かった
などとは知らない彼女は、少しだけ周りを見まわしてから立ち上がった。
今までに自分が目覚める時は、いつもサクヤは付いていてくれた。自分自身を封印して
しまってはいるが、しっかりと覚えてはいる。
ゆっくり、何故かそうっと襖を開ける。まだ勤務を終える時間には早過ぎる為か、部屋
の前の廊下には人っ子一人いなかった。心なしか昼下がりのはずなのに先が暗く見える。
小さく息を呑んで、クーヤは一歩を繰り出した。
ぎしぃっ。
「お?」
廊下が軋む音に、クーヤは不思議そうな声を上げた。静けさのせいで、それはいつもの
音とは違って聞こえる。少しだけ、うすら寒い感覚が走った。そういえば、かなり前にサ
クヤは言っていた。
『寝ぼすけの方の所には、エルンガーが来ますよ』
当時はエルルゥも禁裏にいて、サクヤは何故かスゴい目で睨まれていた。その時クーヤ
は思った。エルンガーはこんな顔をしているに違いない、と。
それは別として、一人ぼっちというのは好きにはなれない。自分でも理由はよく解らな
いが、今でも時に見る夢のせいであろう。なんといったか、あれは……そう。
ウィツァルネミテア。
自分たちにとってと禍日神と呼ばれるもの。姿は知らないはずなのに、怖い夢には決まっ
てそいつが現れた。
「さくっ!」
大声を上げて、クーヤは走り出した。ぎしっ、ぎしっ。軋む音が、まるで背後に奇妙な
唸り声を上げている獣がいるかのような感覚を生み出す。
どんっ!
「おわっと」
勢いよく何か大きなものにぶつかった。一体何かと思ったが、それをまっすぐ見ても全
く見当がつかない。
「元気のいい姫さんだな」
上のほうから声が聞こえたので、クーヤはその方に顔を向けた。一筋の傷の入った無骨
な顔が、白い歯を見せてにっと笑っていた。クーヤが衝突したのは大柄な武士だった。自
分はこの人を見た覚えがある。どこだったか、サクヤと一緒に会った。名前も聞いた。
「くろーっ」
元気よく名前を呼んだクーヤに向けて、クロウは笑顔で頭を撫でた。
「覚えててくれたかい」
不思議と恐怖は消えてしまっていた。禁裏のサクヤ以外の人間で他の誰と会っていても、
このような感覚は生まれなかっただろう。クロウの“頼りになるアニキ”と評される人柄
あってこそのものだった。
「お前さんの友達はな、今大事な話の真っ最中なんだ」
「さく?」
きょとんとするクーヤに、クロウは笑顔のまま頷く。
「だから、少しの間邪魔しないでおいてやろうな?」
今のクーヤには言葉の意味が解っているのかどうかすら怪しいが、それでもクロウは彼
にできる限り優しく話しかけた。
クーヤはしばし頭上に『?』マークを浮かべた後に、満面の笑顔を見せた。どうやら、
クロウの話を理解し、内容に了承したということらしい。
「うっし、じゃあ暇潰しに俺と街に出るか?」
「おー」
笑顔のまま駆け出すクーヤの少し後を、クロウが苦笑しながら着いて行く。時折、本当
にクロウが着いて来ているのかどうか、振り向いて確かめたりもしていた。
余談だが、この直後から城下町では侍大将殿の不名誉な噂が流れたそうである。
が、それはまた別の話。
サクヤは言葉を話さなかった。少しだけ、体が震えているのが自分でも解った、やがて、
ようやく重い口を開く。
「ころ、す……?」
一言で言ってしまえばなんてことのないただの単語。あくまでも、その言葉に込められ
ている意味を除けば。
サクヤにも武術についての知識や、護身程度の心得はある。兄ヒエンと道を違えたのは
幼い頃だったが、それまでは二人とも同じくシャクコポルとエヴェンクルガの融合した教
育を受けていた。剣の振り方、槍の扱い方などは実際に振るったことは無いが知っている。
サクヤが知っているのはあくまでも使い方、その先の結果が伴っていなかった。
「戦に出る、ということはそういうことです」
少し厳しい口調。サクヤは咽元に刀の切っ先を突き付けられているかのような感覚すら
覚えた。ベナウィの言葉だけでも自分が甘かったことが思い知らされる。
「……少し、外の風に当たってきます」
クーヤがクロウと主に禁裏に帰ってくる夕刻まで、サクヤはほとんど言葉を発しなかっ
た。重臣になれと言われたこと。戦のこと。何より、クーヤのこと。
祖父ならばこの時どうするだろうか。サクヤとは全く違う生き方をしている彼ならば、
打開する術を心得ていたのかもしれない。
「さくーっ」
背後から、急に元気よい掛け声と供にクーヤが飛びついた。考え事に没頭していたサク
ヤは、平衡を崩して倒れ掛かってしまう。
「く、クーヤ様!?」
すっかり失念していたが、クーヤが昼寝してしまってから放っておいてしまったのだっ
た。数日ぶりに会ったかのようにクーヤはサクヤの服に頬を擦り付ける。
「ははっ、やっぱり元気のいい姫さんだな」
少し遅れてクロウも姿を現す。
「クロウさんが一緒にいてくださったのですか?」
大柄な侍大将殿の面倒見のいいという側面が、意外だったといった声だった。今のクー
ヤの相手は、正直かなり神経を使うものがある。幼子と同じ行動をとるようで、時に猫の
ようにどこかへと歩き回ってしまう。常に目を離してはならないと言うのは大変なものだ。
「ああ。なかなか楽しかったぜ」
クロウはにっと笑った。クーヤもつられて同じように笑う。まるで仲のいい兄妹でも見
ているかのような、微笑ましい雰囲気が流れる。
「あの、それは?」
サクヤが指差すのは、クロウが手に持っている小さな包み。心なしか、それから甘い匂
いが漂っているような気がする。
「ああ。姫さんが紅皇バチの蜜の匂いが気に入ったらしくてな」
少ししか買えなかったが。とクロウは付け加える。紅皇バチの蜜といえばかなりの高級
品である。珍味とされ、禁裏御用達の店でも僅かにしか拝めないといった代物だ。もっと
も、それは幻覚を見せるという副作用があるためでもあるのだが。
クーヤが気に入ったから、という理由で大層なものを買ってくれたことに、サクヤは申
し訳ない思いを抱いた。侍大将の懐具合を大きく削ってしまったに違いないのだから。
「あの、失礼ですが、いくらほどかかったんですか?」
おずおずと尋ねるサクヤ。
「気にすんなって。どうせ余る金だからな」
サクヤは尚も食い下がったが、クロウは決して礼や代金を受け取ろうとはしなかった。
クロウの「立場が逆だったら受け取らねえだろ?」という言葉で、軍配はクロウに上がった。
次に現れたのは、掌に乗る程度の小奇麗な硝子細工の瓶。透き通った薄紅色で姉妹花が
描かれたものだ。これもまた気品の漂う精巧な造りをしていたが、同じようにしてクロウ
は手渡す。
これを探すのに一番労力を使ったとクロウは言う。何せ蜜の容れ物に相応しいものとい
う条件をつければ、自然と値段はつり上がり、その中の多くは大神を祭ったものが多い。
その名だけは決してクーヤが譲らなかったこともあり、歩き回らされたとのことだ。
「おかげで普段見ねえ所を見学できたけどな」
最後にクロウはそう言った。確かに彼は細工物を扱う店よりも、武具を扱う店や鍛冶屋
にいる方が似合っている。
自室に戻ろうと立ち上がるクロウに、サクヤは声をかけた。
「あの」
申し訳ない、という思いも確かにあった。
でも、今は少し違う。
誰もが手を焼く友の相手をしてくれた。
この思いは「すみません」ではない。
「ありがとう、ございます」
クロウはすぐに背を向け、手を振って去っていく。その仕草には、少々の照れ隠しが混
ざっていた。
しばらく後、クーヤが眼を輝かせて硝子瓶を眺めていた。綺麗なもの、高貴なものに関
心を持つことはいいことだ、と思う。國が滅亡したとはいえ、彼女の身体には王者の血が
流れているのだから。
余り強く匂いをかがないように注意しながら、琥珀色の蜜を薄紅の容器に移す。もちろ
ん硬く蓋をすることも忘れない。窓から僅かに入ってくる夕刻の光が、それを黄金色に輝
かせた。
「お〜」
クーヤが満足そうな声を上げて瓶を眺める。時折、瓶を手にとっては光に透かしてみた
りもしていた。
紅皇バチの蜜の強い幻覚作用のことを、サクヤはクーヤに伝えた。少々おとぼけの感が
あるが、クーヤが理解してくれたのかは表情でわかる。
僅かに漏れた香りが部屋を満たす。考え通して疲れた心には、甘い香りは優しかった。
「ずいぶん手間をかけましたね」
ベナウィはそう言いながら白い湯のみを手に取り、中の白湯をくいっと煽る。対面に座
っているクロウは、自分のそれには手をつけなかった。
「大将の話は長えっすから」
少々皮肉っぽい台詞で返すクロウに、ベナウィはただ苦笑するしかない。自分がサクヤ
と話をする時にはクーヤの様子を見ているように、とベナウィ本人が頼んでいたのだった。
「で、どうですかねえ?」
「私は話すことは全て話しました」
サクヤは、未だはっきりと臣になることを承諾した旨を伝えてはいない。サクヤ本人に
は断る気は既になく、ベナウィもそれを感じ取っていたのだが、彼女自身の口からはっき
りとそれを言われた訳ではない。
クーヤのために。サクヤがそれを考えていることも、ベナウィは頭に入れていた。打算
的になってしまうが、それで双方に利益が生まれるのであれば構わないと思っていた。
「決めるのは、彼女自身ですよ」