敵は逃げも隠れもしていなかった。
むしろ、待ち受けていたといってもいい。
「どうされたかな? トゥスクルの皇殿」
片膝を着く姿勢となったベナウィを、黒の漢は見下ろす。
黒い絹のような髪をその指で梳くと、澱みなきところに小さく波が立つ。
静かな、無駄のない動作。その禍々しさに皇は内心震えた。
「せっかくもてなそうと思ってめかしてみたのだが、ね」
黒の漢が見事に音もなく脚を後ろに振り上げると、鞭のようにしなる。
顎を打たれたベナウィが、大きく吹き飛んだ。
監獄島の隠された入り口を見つけることは、さして難しい問題ではなった。簡素な洞
穴にしか見えないそこに隠蔽工作の影は欠片も見当たらない。見つかるはずが無いとい
う油断か、それとも最初から隠れる気などないのか。
罠の可能性を考える。道中誘うように一体ずつ現れた異形の黒甲冑。全てを相手にす
る訳にもいかず、幾度となく犠牲を払って退却する羽目にもなった。明らかに陽動を示
唆するような兵の出し方ではあったが、アヴ・カムゥを捨て駒として使う必要は無い。
トゥスクルの防備はハクオロ時代に比べれば手薄なのは明らかであり、複数のアヴ・カ
ムゥがあるのならばそれで一挙に占拠してしまった方がよほど効率的だ。
「行きましょう」
自ら先頭に立ち、ベナウィは数人の部下とともにウォプタルを駆って仄暗い穴へと踏
み込んだ。
刹那。
「下がりなさいッ!」
「下がれッ!」
突然の大きな物音の中、二つの叫び声が交差する。
落石が、部隊を二つに分断した。
やはり罠だったか、ベナウィは自分の判断が間違っていたことに唇を噛む。幸い自分
の側にも反対側のクロウの側にも死者はいないようだ。
ウォプタルが頭を下げねば通れなかった洞穴の外見と裏腹に、内側は跳躍しても天井
に届かないほど。また、ベナウィはアヴ・カムゥが縦横無尽に戦うには不都合であると
も暗闇に慣れた眼で判断した。これならば敵が内側にアヴ・カムゥを待ち伏せさせてい
たとしても、その戦闘力は十分に発揮されまい。
留まっていても、どうしようもない。自分の側にいる数人の兵を引き連れ、ベナウィ
は奥へと進むことにした。チキナロから得た情報では、他に隠された入り口があったと
いう話は無い。敵が外に出ているならばクロウが討ち、内で待ち構えているならば自ら
討てば良い。出口の心配は、後でいい。
不謹慎だと思いながらも小さくベナウィが笑う。かつてケナシコウルペの時代、先皇
と敵対していたときも同じようなことがあった。あの時も策士の一手に不覚を取ったが、
現在の彼に当時ほどの焦りはない。護るものはかつてより大きいはずなのに、と考える
と不思議にすら思えることだった。
「お待ちかね致しておりました」
進む一行の先から、静かな声がした。
誰かがいる。先頭に立ったベナウィは槍を構える。
「解らないように動いてきたつもりだが、あなたに見破られた事に全く驚きというもの
を感じられない……不思議なものだ」
ベナウィは答えない。ただ、思うことは一つだけ。
自分の槍の先に、確かに敵はいる。
カルラとトウカを相手に一歩も引かぬほどの実力者であるというのに、自らの中の水
神は全く騒がない。まさに水のように、静かに。
「……一つ、訊きます」
「どうぞ。私に答えられることでしたら」
「アヴ・カムゥを操り、私の部下を攫ったのはあなたですか」
「その通りですよ、ベナウィ皇」
それだけ聞けば十分だ、とベナウィは再び神経を槍へと戻す。
だというのに、敵からは全く殺気を感じない。
しばしの沈黙の後、相手は再び声を発する。
「私からも質問を許していただけるかな?」
「……何でしょうか?」
「なぜ、ここを知れたのです?」
「あなたは自ら手がかりを残した。砦の場にも。アヴ・カムゥそのものにも」
もともとキママゥの縄張りでもあった砦の場にアヴ・カムゥ撃退までその姿が見えな
かったことは、その種の呪が施されていたため。また野盗たちを裏で操ることで、似た
条件をもった地形を選ばぬよう、國内の防備すらも操っていた。
答えはない。
ベナウィはそれを否定でないものと受け取る。
「あなたの正体も見当が付きます。その姿は皇を真似ただけではないでしょう?」
見えてはいない。会ったこともない。だがトウカやカルラの言から、黒の漢の風貌に
ついて、多少の情報を得ることができた。
ハクオロに似ている、と。
思慕の念をもつ限り、剣が鈍るのは仕方がない。カルラやトウカを相手に逃げおおせ
たことに最初こそ驚いたものの、風貌について聞けば納得に足ることだった。
「あなたがどういうつもりなのかは知りませんし、聞くつもりもありません」
そう言い、槍を握りなおす。
「覚悟を。参ります。――――ラクシャイン」
その名を呼ばれた後、黒の漢は笑った。
例え幻術や催眠を施し別人をその人と思い込ませるにしても、自らもまた法術に通じ
ていた亡國の皇を術にかけるには、多少なりとも似ている外見であることが必要だった
はずだ。チキナロに調べさせたディーの周りの人間関係を知ったとき、ベナウィはそう
疑いを持った。
死亡が確認されていないクッチャ・ケッチャの皇弟。
名を捨てようとも、その姿を捨てることはできない。まだ人を保っていた時の白い翼
の若き考古学者と、トゥスクルのハクオロによく似た漢がともに同じものを研究してい
たことは、信用に足る情報屋から聞き及んでいる。
クッチャ・ケッチャは今やトゥスクルの一部として併合されている。もし、彼が未だ
亡国で持っていた権力に未練があるのならば、先皇になりかわりトゥスクルを乗っ取る
腹積もりである可能性もある。
かの人が帰る処を汚される。ベナウィは、それを畏れた。
護るべきものを背にした恐怖が、槍の穂先を煌かせる。
いかなる剛も術法の前では防御は疎かになる。
真っ向に向かったはずのベナウィ、その部下数名は爆ぜた火神の術に弾かれた。
「確かに。あなたが言うように見破られることは見越していた」
見下ろすラクシャインの声は冷たい。
「あなたは聡明だが、頭が固いようだな。何故、自分が掌の上だと考えぬ?」
「それで、手がかりを、残したのですか……ッ」
吐き捨てるように言うベナウィを見る様は、なんとも愉快だと言わんばかり。
「一國の皇ですら意のままに。面白いと思わぬかな?」
それもかつて自らが権力誇った國を吸収し、のし上がった國を使って。
飄々と話すラクシャインの内側には、確かな恨みの感情が渦巻いている。
ベナウィは動かない。彼の肉体は戦士のそれ。術の一つや二つを身体に受けたとて折
れてしまうほどやわではない。
が、彼は動じるわけには行かなかった。
一つは、ラクシャインの隙を探るため。彼の防御がいかほどのものかは見当がつかな
いが、隙を突けば一撃で貫くこともできる。そしてもう一つは、仲間の身を案じたため。
自分の後方にいる、術を受けた兵たち。彼に策があるのならば、外にいるクロウたちの
安否も懸念される。そして、連れ去られたサクヤも。
「そうだ、面白いものを見せようか」
言うが早いがラクシャインの姿が消える。十数えるよりも早く、彼は再び姿を現した。
ずるり。何かを引きずるような音とともに。
「私とディーの間に交流があったことをご存知だね?」
靴音、衣擦れ。そして引きずる音。
それら全ての音に注意を傾けながらも、ベナウィはラクシャインを注視する。
彼が引きずっているのは自分と同じほどの大きさの肉塊。その頭らしき所に、長い耳
が見えた。
「まさか、貴様ッ!」
「たしかに元はシャクコポルだが、彼女ではないさ」
その顔を向けさせる。そこには、かつての仮面が施されていた。
ウィツァルネミテアの封印とともに、仮面の機能は失われている。もはやただの防具
にも劣るようなそれを、彼は容易く引き剥がした。
ベナウィは眼を見開く。仮面は装着とともに完全に人と一体になるはずであり、それ
を剥がすなど不可能なことのはずだ。
「彼を助けるために、研究を続けた。そして知った。仮面から逃れる術を」
もっとも、神そのものの寄り代であったディーを助けるには遥かに及ばないものだっ
たが、とラクシャインは付け加える。仮面を引き剥がすことも可能であれば、またそれ
を別の人間に付け替えることも彼は可能にした。大神に背く行為に相違ないが、それを
裁く神はすでに常世にはいない。
「アヴ・カムゥもそれの応用みたいなものさ。シャクコポルだと思わせればいい」
剥ぎ取った仮面が、握り締めると同時に崩れ去る。
「私は、ウィツァルネミテアを超えてみせる」
ベナウィは、言葉もなく立ち上がった。術による痛みは残ってはいたが、歴戦の覇者
が一撃で立てなくなるほど人の術は重くない。槍を握る手の感覚は研ぎ澄まされたまま
熱く滾る。
得体の知れない力と知識を持ちながらも、底は見えた。例えいかなる高尚さを繕って
みても、一國に過ぎないトゥスクルやその同盟國を執拗に狙ったことが本音を諸実に物
語っている。
「手始めにトゥスクルを。神を超えるには御誂え向きかも知れませんが」
音もなく、右の手で構えた刃を向け、左の手で牽制の構えを取る。
水神の戦いは、水のように静かに。水のように激しく。
「あなたは人に過ぎない。國一つのの未練を残して、何が神か」
ラクシャインは答えない。
洞穴の暗がりのために表情までは未だ詳しく確認できないが、ベナウィにはラクシャ
インの内を読み取ることはできる。
彼の目的はここで皇であるベナウィを倒すこと。その目的を許さなければ、トゥスク
ルが負けるという事態に陥ることはない。
「さあ、仕切り直しです」
ラクシャインはこれまでの余裕の表情を崩し、ベナウィに向き直った。
「やはり危険だな、あなたは」
「参るッ!」
クッチャ・ケッチャの人間は騎馬民族。ウォプタルを持たぬ現在において、ラクシャ
インは本来の力を発揮する事はできない。一方のベナウィも手負いの状態。彼のウォプ
タルであるシシェは走る機能は奪われてはいないものの、万全の状態に比べれば速度が
落とされている。
双方に枷となる条件がある。長期の戦いは不利になると、どちらもが思っていた。
野望と信頼への責、どちらが勝るか。
睨み合いは長くは続かなかった。
穂先と切っ先が向かい合う。と同時に、両者が駆け出す。
サクヤは、本日何度目かのため息をついた。
昼も夜もない穴倉での生活は、穴人といわれる種族といえど不安を煽られる。
逃げる手管を持たないことから牢からは出されたが、それでも外に出ることは叶わな
かった。
黒の漢に連れてこられて以来、何日が経っているかも見当がつかなかった。砕かれた
肩の痛みは、黒の漢が連れてきた人間の治療により、完治とはいかぬまでも和らいでは
いた。おそらく治療師だったのだろうとは思うが、暗闇の中でも手馴れた治療を行った
ことを考えると、なんとも薄気味悪い。
舌を噛み切ろうとさえも思ったが、クーヤを取り残して一人逝くことを考えると自ら
命を断つ気力は消え失せた。
涙が浮かぶのは何度目か。暗闇に取り残されると悪い思い出が否応なく蘇ってくる。
クーヤを拠り所としていたことを、またもや思い知らされた。
気が狂わずに要られるのは時折話しかけてくる黒の漢のおかげであるというのが解っ
ているだけに、物悲しいものがあった。
「クーヤ様……」
トゥスクル内でのサクヤの立場のおかげか、亡國の捕虜の立場であるクーヤが危険な
目に遭うことは無かった。そのサクヤがいない現在はどうなっているのか、考えること
には恐怖を伴う。ベナウィやクロウがいる限りは大袈裟なことにはならないと考えられ
るが、それも確証のあることではない。裏工作など幾らでもできることだ。と同時に首
を振って考えを打ち消す。禁裏や市中の衛兵の中にはサクヤに理解を示してくれたもの
もいた。そういった人たちは、サクヤがクーヤを想っていることを知っている。黙って
クーヤに危険が及ぶのを見ているだけということは無いはずだと希望を抱こうとする。
捕らえられてからのサクヤの想いは、それの繰り返しばかりだった。
いっそのこと、黒の漢が自分を壊してくれていたなら。そんな考えさえ浮かぶときも
ある。不意打ちという手段をとってサクヤを捕らえ、暗闇の底に幽閉までした人間だと
いうのに、最初の対面の後はサクヤに言葉以外の干渉をしようとはしなかった。
暗闇の中での何度目かの話で、黒の漢は自ら「あなたを娶るのはトゥスクルを滅ぼし
てからだ」と言った。それはつまり、トゥスクルの皇、ベナウィはまだ凶刃に倒れては
いないということだ。ベナウィが倒れていないのであれば、トゥスクルはまだ黒の漢に
打ち勝つ可能性がある。自分はまた、クーヤと出会える。人を利用するような考え方は
好きではなかったが、今はそれにすがるしかない。
ギィィィィィィィ……。
静寂に響く軋むような音。また黒の漢がやってきたのか、とサクヤは思う。その度、
人と話せるという安堵と、トゥスクルは無事だろうかという恐怖を抱く。
もしかしたらそのような思いをわざとさせているのかとも思うと、さらに不気味さが
煽られた。
「よかった、無事ですかい!」
サクヤは久しぶりに炎を見た。
格子越しの松明の明かりが浮かべ上げる面影が、酷く懐かしい。
「クロ、ウ、さん?」
右の手の指が震える。
立ち上がろうとして、すぐにかくんと膝が折れた。
左の肩が鈍く痛み出す。
のどが、小さく振動する。
視界が、滲む――――――。
黒装束を深く貫く煌く槍。
槍を引き抜くと同時に、ラクシャインの体躯が支えを失ったように倒れこむ。
「ふ、は、ははは、は」
うつ伏せで倒れながら、ラクシャインの声が耳に届く。途切れ途切れの声と声の合間
の何かを吹き出すような音に、ベナウィは黒い命の炎が消える寸前であるということを
感じた。
「トゥスクルすら、あなたの手には重かった」
「その、ようだ、な」
神を超えんとしても、その身は人であることを離れることはできない。死に直面して
いる現在、彼はそれを痛感していることだろう。ベナウィは槍を握り直した。
槍の刃を、喉元に三度振り下ろす。
國を転覆させようとする人間に対して慈悲を与えようとは思わない。罪人を殺さず悔
い改めさせるという思想を、なぜか適用したくなかった。傲慢なようだが、この時ばか
りは自分が一國の皇なのだと思いたかった。
ラクシャインの刃はベナウィの甲冑を砕くに留まっていた。彼の心は、皇の堅牢なる
責任感を揺るがすにも及ばなかった。連れていた兵たちも、交わされた声や肉を裂く音
から結末を知ったようだ。
「さあ、行きましょう」
そして、生きましょう。
本当の皇にその座を返す、その日まで。
月は白く。なお丸く。
禁裏の窓からも覗けるほど、その宵の月は大きかった。
「ほら、ご覧になってください」
「お〜」
白い真円を掴もうとでもするかのようにクーヤは掌を天へと向ける。それでも立ち上
がろうとはせず、座っているサクヤの膝を枕にしたままの体勢なのは彼女の独占欲の表
れだろうか。
友が自分に甘えてくれる、それが素直に嬉しい。
いつかクーヤが心を取り戻す時が来るかもしれない。その時、彼女は再び辛苦と罪悪
感に苛まれることだろう。自分は、今度こそクーヤの支えとなれる人間となりたい。
これまでに自分を支えてくれた人に負けないような、大きな人間に。
「……なれますかねえ?」
自分で決心しておきながら、少し大きい目標に自分で苦笑した。
その一方、かつてベナウィの仕事場であった侍大将の部屋。侍事のための部屋なだけ
に飾り気のない簡素な造りのそこで、新旧二人の侍大将は労いの杯を交わしていた。
「一件落着、ですね」
「結局は役に立てませんでしたがね」
黒の漢との決着を結果的にベナウィ一人に任せてしまったことで、年甲斐もなくクロ
ウは少しだけ拗ねてみた。アヴ・カムゥの待ち伏せも予期されていたことであり、実際
に黒甲冑の群れは格納されていたが、使い手の死とともにそれらはふたたび鉱物の塊と
化した。
「いえ、あなたがいなかったら私たちは洞窟に埋もれたままでした」
「私"たち"ねぇ」
クロウの何かを含んだ笑いに、ベナウィはぴくりとする。
「なんです、一体」
「まあまあ、気にせずに」
言いながら、杯にとくとくと酒を注ぐ。
多少気にはなったが、ベナウィはそれをくいっと煽った。
「いっそ、サクヤさんに求婚しちまったらどうです?」
後に、このときの侍大将は語る。
世の中には顔の筋肉を一切動かさずとも口中のものを噴出できる人間もいる、と。
そしてその数年後、
「どうした、私の顔に何かついているのか?」
「何もついてないから驚いてるんですっ!」
そんな会話が復興したヤマユラで起こったのは、また別の話。