「それじゃ、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」

 その遣り取りから、およそ三十分。
 山吹色の輝きは雲に閉ざされ、どんよりと曇った様相を地面に向けていた。晴れ間で
あればおよそ百八十度様相の違うお昼時であるが、文句を言ったとて天気が良好なもの
に変わるはずが無い。
 せめてこれが日曜日でなかったら。桐生絆那きりうきずなはそう思いながら路地を歩く。季節はと
うに春であるのだが、陽光の暖まりがない日は少し肌寒い。身体の弱い妹をもつ彼にと
って、この状態はまことに好ましくない環境だ。せっかく寒い寒い冬が開けたというの
に。過保護なきらいなどは自覚した上での思考である。幼友達には何度も指摘されての
ことであるので、もはや絆那本人は気になどしていない。
 寄宿舎住まいであるとはいえ、日用品やおやつなどはさすがに外に出ねば補充ができ
ない。絆那は二人分の消耗品の買出しのために街へと繰り出した帰りであった。

 ぽつり、ぽつり。
 不意に、雫が頬に当たる。
「あれ、雨?」
 春の天気は変化しやすい。風音を家に置いてきて正解だったかもしれない。
 今回は濡れて困るような代物は無いはずであるが、それでも買ったものが雨に濡れる
ことに対しては抵抗がある。気は進まなかったが走って帰ることにする。
 道が滑りやすくならない内に、走って帰るべきだ。雨の降りが強くなるのかまでは判
別がつかないが、早く帰るに越したことはない。妹を気遣った結果として自分が風邪を
こじらせるのでは実も蓋もない。

 小走りで走り続けること十数分、やはりと言うべきか雨は勢いを増していた。
 コンビニにでも寄って傘を買えばよかった、と後悔したがもはや遅い。五分も前に既
に通り過ぎたばかり。

 ――パキィンッ!

 突然耳に届く、何かが、小さくはじける音。
 近くの民家がダイナミックに皿でも落としたか、と思ったが、それとは違う。
 その判断ができたのは、自分の頬に一筋の切り傷ができているから。
 小石か何かが弾けて飛来したものか。否、原因となるようなものはない。近くに公園
があったが、天気のせいか人の姿は見当たらない。
 絆那は足を止め、少し考える。
 視界にかからない程度の長さの前髪が垂れ下がってきたのが少し気になるが、この際
それは仕方が無いと諦めた。寄宿舎に戻ったら友人にでも頼み込んで切って貰おうか。
(っつーか、怪現象を前に我ながら余裕あるなぁ)
 それとも、問題を直視することなくすり替えたいだけなのだろうか。
 頭の中で少し大げさな表現を反芻してみる。自分で苦笑したくなった。

「ハ、やっと見つけた」
 背後から聞こえた男の声に、表に出ない程度にびくりとする。
 考え事に集中しすぎるのは悪い癖だ。周りが見えなくなってしまう。
 声の主たる人間はすぐに発見できた。路地には他に歩く人も、車さえもない。
 それ故に、男が「見つけた」のが自分であろうことも理解する。
 落し物であるならば視線は下を向いているはずで、こちらに向けはしないだろう。
「あー、どなたですか?」
 知り合いだろうか、と考えを巡らすが記憶に無い。
 顔立ちからすると年上に感じたが背の高さは自分よりもやや下。鼻先まで届くのでは
と思えるほど長い前髪は鋭い目つきを隠すどころか際立たせている。春物にしては薄そ
うな黒いシャツは、雨を含んですらりとした体型を表していた。
「人違いじゃないですかー? あと、傘使った方がいいですよー」  男のつけているじゃらりとした鎖のアクセサリに眼を少しやる。変に絡まれることも
少しだけ考えたが、だとしても体格が伴っていない。ナイフなどの武器を持ち歩いてい
るならば別だが。

 ゴッ!

「えっ」
 絆那が足速に横を通り過ぎようとした直後、目の前の地面がめり込んだ。
 上から何かが落下したのか、と判断したがその地点には何も無い。

 何も――?

「見えるか? 見えるんだろ? なあ!?」
 固まった絆那の耳元で、ニヤニヤしながら男は語りかける。
「これ、なんだよ。あんたが、やったのか?」
 焦点の定まらない眼と震える指でそこを指差す。
 チッ、と舌打ちが響いた。
「ハズレかよ」

 直後、何かが顔面に叩き込まれる。
 身体が地面から離れ――何かに、受け止められた。

「ちょっと遅れた、か」
「そう? 十分間に合ったと思うよ。あと俺、雨の日は遠慮したい」
「――はいはい。私が引き受けるよ」

 聞いたことのある声の、短い遣り取り。
 意識が黒に染まる、遠のいていく。

ヤドリギ

第一章 コダマ




「で、夜行衆がわざわざ何の用?」
 傘を片手に、空いたほうの手を腰に当てた体勢で、少女が問う。
 首を僅かに傾けると、シャギーの入った赤毛の髪も少し揺れ、肩に触れた。
 男はニヤリと笑った。
「ははッ、ハズレだと思ったらお前らが出てきてくれるとはなッ!」
「ハズレ? ……あ、やっぱり絆那が目当てだったんだ」
 す、と空いたほうの腕を水平に伸ばす。
 冷たい空気が腕を伝って手の甲へと集中し――、

「させない。おいで、コダマ」



 ふわふわと浮いた感覚が解けると、絆那は目を覚ます。
 上体を起こすと、頬がズキズキと痛んだ。
「……なんだ?」
 何に対しての問いかはわからないが、とりあえず声に出してみる。見回してみれば、
木製の机やら棚やら見覚えのあるものが部屋の中には並んでいる。自分は今、寄宿舎
に戻ってきている、ということだ。だが雨の中からどうやって戻ってきたのか、何故
自分がベッドで横になっていたのかが分からない。
 頬に触れてみれば、湿布が当てられていた。どうやら何かで強打されたらしい。
「ちーす」
「ぬおっ!」
 ぬ、と視界に現れた顔に驚いて思わず大声を出す。ついでに頬がまた痛んだ。
「なんだよいきなりっ」
「あ、心外。せっかく運んでやったのに」
 神楽玲かぐられいの眼鏡の奥の瞳がいたずらっぽく笑う。
「おまえが?」
 感謝よりも先に信じられない、といった表情が表に出る。絆那も決して大きいとは言
えないが、玲はさらに小柄な部類に入る。加えて、穏やかな顔つきと度の強い眼鏡のお
かげもあって力仕事は向いてない、と言わんばかりの印象だ。幼馴染である絆那でさえ
も信じがたいことであるのは無からぬことだった。
「なんだよー、感謝しろよー」
 絆那の袖を引っ張りながらぶーたれる玲。
「ああ、さんきゅー」
 物凄い棒読みで。
 玲が落胆したようなリアクションを見せたが、いつものことなので最早気にとめない。
 玲の方も言葉とは裏腹に絆那が感謝していることを知っている。
 それよりも、絆那には気になる点があった。
「なあ、どうして俺は道端で寝てたんだ?」
「頭を打ったから」
「いや、そーじゃなくて」
 その原因の方を聞きたかった。頭部強打のせいで余計に記憶が曖昧なものであるが、
少なくとも車などが走っていたような覚えは無い。雨で滑って派手に転んだなどの取る
に足らない落ちであったのだろうか。色々と考えてみるが、どの考えもすっきりしない。

 がちゃり。ノブが回され、ドアが開く。
「お兄ちゃんっ!」
風音かざねっ!」
 漆黒のロングヘアーをたなびかせて飛び込んでくる小柄な少女。寄宿舎の中では人の
目をほぼ気にする必要がないための地味めな薄手のセーターは、シスコンお兄様の購入 による高級洗剤が御用達。
 幼馴染の冷ややかな視線をよそに、抱き合わんばかりの勢いな桐生兄妹。この手のア
クションにはもはや慣れていて、玲の方は突っ込みの一つも入れる気配はない。

「お兄ちゃん、頭を打ったって聞いて心配したんだよっ」
「おお、風音よ、お前を置いて俺は一人では死ぬものか」

 兄妹のアホ劇が繰り広げられている間、玲の方はいつの間にやらカップ麺に湯を注い
でいたりする。真性シスコンとノリがいい妹のそれは三分どころか五分、下手すれば数
十分にも及ぶことがある。下手に関わるくらいならその時間を有効活用したほうがいい。
 すぱーん!
 玲の頭がスリッパで叩かれた。
「って、突っ込まんかボケ!」
「突っ込んだら突っ込んだで邪魔するなって言うくせに何を言うか!」
 手にちょっとかかった熱湯が熱かったので玲の方もご機嫌斜め。
「あ、玲くんが運んでくれたんだよね、ありがとう」
「ん? あー、うん。いちおう」
 キレた二人の中で一人マイペースな風音の言葉に、玲の調子が狂わされる。
 マイペースとマイペースが重なり合ったこの兄弟がどこがどうやって噛み合っている
のか、幼馴染といえど血の繋がらない玲にはさっぱり解らない。もしくは自分にも兄弟
があるならば理解のできるところなのだろうか、と少し考える。
 考えながら目の前の参考例を見てみた。
(あまり、理解はしたくないな)
 とりあえず、桐生兄妹のノリだけは絶対に嫌だった。

 漫才にまで移行しつつある桐生兄妹を横目にカップ麺を食してから、壁にかかった時
計に眼をやった。兄の方が目を覚ましてから、もう十分以上も経っている。倒れた時間
から計算すれば、もう一時間近い。
 絆那の倒れた時間は、即ち異形の攻撃に遭ったとき。
「芝居もたけなわなところ悪いね。ちょっと用事」
 返事も聞くことなく、玲は部屋を出た。



「まだ、やるんだ」
 赤毛の少女――冬樹盟ふゆきめいが疲れた、と言わんばかりに呟く。その肩には動物らしからぬ
一ツ目の生物の姿。リスザル程度の大きさで盟に負担をかけるような大きさではなく、
体毛などはなくつるんとした青緑の表皮が剥き出し。姿としては、哺乳類よりもむしろ
両生類のそれに近い。
「くそ、化物めッ!」
「似たようなものだと思うんだけど」
 似たような、どころか同類項そのものズバリ。
 理解しながらもあえてその点について触れなかったのは、盟にとって相手は格下であ
るときっちりと序列がなされたため。

 彼らは自身を「物の怪憑き」と呼称していた。
 異形を自分自身に飼い、また同時にその力を自在に行使できるという稀有な存在。

「叩き潰せぇッ!」
 男の長い腕が振り下ろされると同時。
 アスファルトの地面を砕く鉄拳が見舞われる。
 ――が、そこに標的の姿は無い。

「こっちこっち」
 ぺちぺち、と指の先ほどの小枝が男の頬を叩いた。
「ひ」
「そんな警戒しなくても、もう痛めつけたりしないよ」
 大の男が触れるだけでも折れてしまいそうな小枝に恐怖する姿を見ると、呆れを通り
越して哀れにすら思えてしまう。
「大人しく帰るなら、追わない。向かってくるなら」
 袖の中からするするともう一本の細い枝を抜き取る。
 男は新たな枝を凝視。
 “それ”は持っていた一本目とは明らかに違う。
 折れそうな、というより崩れそうで黒みがかって――焼け焦げている。
「あ、やめ……」
 言い切る前にへなへな、と膝が折れる。
 だめだこりゃ、とばかりに盟はため息をついた。

 盟の物の怪であるコダマはそれ単体で攻撃する術を持たない。木霊とも書かれる植物
に宿るとされている物の怪は、その名の通りに植物に潜り、記憶を読み取ることを可能
とする。相手にとって厄介な点は、その記憶を他に貼り付けることも可能とすること。
 伐採された樹からは切断される感覚を。
 害虫に食われた樹からは内側から食われる感覚を。
 焼き払われた樹からは生きながら焼かれる感覚を。

 盟は戦闘において相手の肉体にダメージそのものは与えない。
 彼女が削るのは、その精神。
「まあ、無駄だって解ったよね。絆那に手を出さないって誓うなら帰っていいよ」
(聞こえてなんか、いないだろうけど)
 切断と寄生の感覚だけでも、もう再起不能ものなのは既に何度も実証済み。
 おそらく放置しておけば様子を見に来た仲間が回収してくれることだろう。


「あれー、無事だったんだ」
 膝を折った男の横を通り過ぎた直後、玲が顔を出した。その様子を見て、盟は少し苦
笑した。全く気付いてなかったが、どうやら雨は上がっていたらしい。傘はとっくに手
放していたので、髪も割と気に入りのブラウスもぐっしょり。
 雨あがりにすら気付いていなかったなんて、いたぶることに夢中になっていたサディ
ストみたいだ、と思えてしまう。幼馴染といえど油断できない玲の前では絶対に口には
出しやしないけれど。
「ん、ちょっとタフだった」
「焼いとく?」
「無駄に腹減らすことないでしょ」

 玲は浮かべていた薄ら笑いを引っ込める。
「そんなに肩入れすることないのになあ、先生にさ」
 聞いていたのか、それならば傍観してないで助けてくれてもよかっただろうに。そう
思ったので少し意地の悪い言い方をしてみる。
「そう思うなら、絆那から離れれば?」
 盟の答えに、再び玲は微笑った。
「それとこれとは別じゃんかよう」