振り返れば、そこにあるのは黒。
それに呑まれていることを掘り返そうとしても、決して何も見つかることはない。
闇は泥とは違うんだ。
玲の日常はうがいから始まる。もともとは恩師からの受け売りの健康法であるが、睡
眠中に朝までに溜まった口の中の雑菌が一年間におよそ丼一杯分の排泄物の量に匹敵す
る、と聞いてからは欠かせないものになっていた。下品な話だが排泄物に換算されると
一気に切実な問題へと早変わり、とは彼の弁。
風音や盟にはさすがに起床後すぐのうがいは勧めているが、同室のねぼすけさんこと
絆那だけには教えていない。曰く、その方が面白いから。朗らかな振りをして玲は陰湿
な部分も持っていた。もっとも、そこまで知りながらあえて絆那に教えていない風音と
盟も似たようなものだ、と玲は思う。
首やら関節やらをコキコキと鳴らしながら、玲は枕元の眼鏡の位置を確認する。ぼや
けた視界では地味なフレームはどうにも見つかりにくい。かといって派手な色のフレー
ムにするには出費が大きいし、何より自分に似合わない。
昨日が雨だったせいか、朝はやや寒い。せっかく洗面所にまで歩けたと言うのに、ベ
ッドがまるで魔力でも持っているかのように手招きをしている。二度寝をすれば間違い
なく遅刻の目に遭うだろう。それも、ねぼすけ絆那と二人揃って。
玲は公の場においては感情よりも理性が立つ側の人間だ。二度寝の魔力に取り込まれ
てしまいたいのはやまやまであるが、それで学生としての本分を忘れてしまうほど愚か
ではない。ある意味においては寝られるだけ寝ることを実践できる絆那が羨ましいと思
うことも稀にあるが、それは目覚まし役となってくれる自分への信頼あってのことだと
知っているので文句は言わない。
……あくまでも、言わないだけであるのが難点か。
玲は本日の絆那目覚ましコース・過激編の考案に入った。
「ぬ、ぬおおおおおおおおおおぉぉああああっ!!!?」
今日も絆那の叫びが響き渡る。
余談であるが、これが目覚ましとして意外と便利がられているのは別の話。
玲は本人のあずかり知らぬ所で多くの学生から一目置かれていたりした。
「はうッ! マジでギブギブギブギブ!!」
何が行われているのか、と周りから本気で疑問がられてたりもしている。
同時刻。
赤黒い壁に囲まれた空間内において、二人の人間が向き合っていた。
「ふーん、それで逃げてきたんだ」
言葉を投げかけられた一人は盟に敗れた物の怪憑きの男。彼は言い返すことも出来ず
に狼狽した様子で立ち尽くしていた。
「しっ、仕方ねえじゃねえか。まさか奴らまでいるとは思わなかっ」
「相手の妨害工作はいつものことらしいけどね」
冷たく突き放す言い方をするもう一人。男はぐっ、と言葉を詰まらせる。
「まあ、わたしにも落ち度はあったし。椎田君一人にに任せなきゃよかったとか」
猫のような瞳が怪しく輝きを帯びる。その視線は椎田と呼ばれた男を貫いたが、捕え
てなどはいない。眼前で明らかに格下扱いされている椎田京としては決して面白くない
ことだったが、それに異を唱えることは許されていない。
「コダマか。楽しみー」
物事は邪魔が入る方が燃える。梶取識はそういう人間だった。
「絆那さあ、いっぺん近所迷惑って言葉を覚えた方がいいよ」
「おまえこそ安眠妨害って言葉を覚えろっつーの」
学校にて繰り広げられるいつもの会話。
この件に関して周りの連中は絆那の方に一理あると考えるのであるが、ある意味で玲
の世話になっている人間も寄宿舎組には少なからずいるため、止めようとは考えない。
悲しいことに、他人事となると人間は意外にも冷たいものである。
バカが二人。
盟は毎度のことで既に飽き気味の遣り取りを遠巻きに見、いつものように机に突っ伏
して眠りに入る。
彼女は学校においては起きている時間の方が少ない。成績もそれに応じて下の方に位
置していりするのだが、落第にさえならなければ問題ないという人生哲学の柱は強固に
打ち立てられていた。
「起きろー、盟ちゃーん」
ぷにぷに、と頬を突っつきながら。
「ん、……玲か」
「おう、玲君だぞーう」
にこにこと笑いながら、ほっぺたを突くのをやめようとはしない。
「セクシャルハラスメントって言葉、知ってる?」
朝方の絆那と玲の遣り取りを思い出しながら、そんなことを言ってみる。
「ハラスメントって相手が嫌がらなきゃ成立しないんですぜ?」
玲は笑みを消そうともしない。寝起きで回らない頭では不敵な友人に勝てそうも無い、
と盟はゆっくりと上体を起こした。爽やかに明るかったはずの空がオレンジ色。見事な
までに今日の授業を丸々眠っていたということになる。
「お昼くらいには起きられる計算だったのに」
それでもおよそ半分をサボっていることには違いない。入学時から一年間見事に続い
た堂々としたサボり行為には既に教師側も諦めたらしく、授業だからと起こされること
はほぼ全く無くなった。むしろ稀に起きて授業を受けたりすると逆に体調を心配されて
しまうほどだ。出席状況がどうなっているのかは確かめようが無いが(寝てるから)無事
進級できたことを考えれば出席だけは大丈夫と盟は判断していた。
「絆那に付いてなくていーの?」
「ん……今日はパス。あんたがやって」
コダマの使役による疲労は通常の倍近くの睡眠で補われているはず。玲はちょっと首
をかしげる。
「あ、そっか。女の子って大変だねー」
言った直後、玲は思いっきりぶっ飛ばされた。
「何? 何で玲君までほっぺに湿布ー?」
風音の戸惑う台詞に、玲はぶーたれて応えなかった。
確かに冗談にするネタとしては非があったことは認めるが、その辺は気心の知れた仲
なのだから流すべきだろう、というのが彼の意見。気心が知れている上でそういった台
詞を出したのだから、お互い様と呼べなくもない。しかし、
「手加減が無いってのは考えもんだよね」
「は?」
首を傾げるしか出来ない桐生兄妹。
下手なことを言って不興を買うのも馬鹿らしい。玲はそれ以上は何も言わなかった。
「んー、あれが今回のスカウト対象かなー?」
忍び込んだ学校の屋上から、校舎を出て行く生徒達を見下ろす識。その視線の先には
玲と一緒に歩く桐生兄妹。
「やっぱり昨日の今日じゃ一人にはしないみたいね」
何気なく歩いているようでも、気楽にただ寄宿舎への家路につく桐生兄妹と玲とでは
その気配が全く違う。言い方を変えれば警戒していることが丸出しだ。
まあ素人には分からないだろうけど。と識は少し笑う。警戒してることを相手に悟ら
せるようではたかが知れている。敵ながら少し微笑ましいとすら思っていた。
「わたしスカウト専門だから敵を知らないんだよね。あの子がコダマ使い?」
「いや。だがよ、あいつは奴の仲間だ」
傍らの京が答える。昨日の盟との戦闘の前、玲も供に助けに現れていたことは彼の記
憶にしっかりと残っていた。
「へえ。じゃあ敵はもう一人いるんだ」
僅かな風に揺れる猫っ毛の髪を指で弄りながら、識は面白そうに玲を見た。
校舎から寄宿舎まで、真っ直ぐ向かうならば数分程度の道のりである。が、それはあ
くまでも真っ直ぐ突っ切るせっかちさんや遅刻寸前の方向けルート。実際は区切られた
塀を回り込む必要があるため、正規のルートを使うならば十分近く時間が加算される。
彼らの本日の帰り道はぐるりと遠回りの正規のルートだった。
慌てている訳でもない。そのまま近くのファーストフード店へと繰り出すのも悪くな
い、と絆那は考える。それならば一度部屋に戻って鞄やらを置いてからの方が無駄が少
ないことなど百も承知。そういった無駄をこそ楽しむのが彼にとっての粋だった。
「あ、ちょっと財布忘れたみたい。先に行ってて」
「お金なら貸すよ? お兄ちゃんが」
「酷ッ!」
隅っこの方で傷ついて四つん這いになってる兄貴殿はさておいたまま、玲はうーん、
と考える仕草。
「そうだね。じゃあゴチになるよ」
「どうぞどうぞ」
なにやら本人のいない所で懐が左右されていたり。
(追ってきてるみたいだし、どうしようか)
財布を忘れたことを口実にして追っ手を始末しようか、とも考えた。気取ることので
きた気配は二つのみ。警戒している姿勢を撒き餌にして相手の気配を露出させる、とい
う彼の戦術は見事に功を奏した。敵側はさぞかしこちらを舐め切ってくれていることで
あろう。短期決戦さえも不可能ではない。
懸念される点はあった。伏兵がいないとは言い切れない。ましてこちらは昨日の内に
戦闘を一つ消化している。相手方が念を入れている可能性は十分にある。
さまざまな考えを巡らした結論として、とりあえず保留ということで落ち着く。いく
ら異能を操る物の怪憑きとはいえ、まさか街中で騒ぎを起こすほど馬鹿でもないだろう
と玲は判断した。
(奴さんも組織なら、馬鹿ばっかじゃないだろーし、ね)
少なくとも、昨日の今日で姿を隠そうともしないあの男はバカか大物かのどっちかだ。
「ね、椎田君、今回は引こう」
くい、と識は椎田の袖を引っ張る。
「はあ?」
「だってあの子、わたしたちに気付いてるよ。わざとらしすぎるもん」
何言ってるんだ、という表情の椎田。
むしろ、雑踏の中などはこちらのフィールドに引きずりやすい。
椎田の意見を見透かした上で、識は大きく溜息をついた。
「派手にやれば敵を呼ぶ。敵を呼べばわたしらがピンチ。そうなれば百鬼夜行としては
切り捨ても止むを得ない。おっけー?」
実際にはそんな単純に物事が運ぶはずは無いが、説明が面倒だったので噛み砕いて聞
かせてみせる。乗り気だった相方も、とても分かりやすい説得になんとか了解した。
「逃がすつもりはないけど、ね」
派手にやらなければいいんだから。
裾の広い識のジーンズから紅色の蛇が一匹、滑るように落ちた。
二つの気配が急に距離を置いていくのを、玲はしっかりと掴んでいた。視線だけは残
されているので自分たちを見失った訳ではないようだ。相手に芝居がバレてしまったこ
とに玲は思い至る。油断していたのは自分の方だったようだ。
「あー、残念。財布あったみたい」
「それのなにが残念なんだよ」
なぜか奢る羽目になっていて不満タラタラだった絆那からツッコミ。
「ほら、俺が金使わなきゃならないじゃん?」
「俺の金は別にいいんかいっ」
玲が“いい笑顔”でこくりと頷くと、すかさず絆那からのツッコミチョップ。
「わ、湿布ブラザーズ結成」
マイペース妹はというと、なぜか売れそうに無いコンビ名を授けていた。
そんな名前は勘弁してくれ、と二人同時に思ったのは別の話。
気配を辿る手管――即ち、物の怪――を玲は持ち合わせているが、街中で使うには抵
抗があった。彼の場合、索敵にも応用できる能力がある代わりにその力は一般人にも目
視できるというデメリットもあわせ持つ。
目に付いたのが二人だけと言うだけで、敵の数が二人だと決まったわけでもない。
やはり、この状況下では絆那のそばから離れないことを優先すべき。
この間に仲間が助けに来るなどと期待を抱くほど、玲は楽観的な人間ではなかった。
「すごいね。わたしたちが離れたら急に演技やめちゃったよ」
感心したように微笑む識。
「じゃあ、玲が安心できるようにもっと遠くへ離してあげなきゃね」
背後からかけられた声に、二人同時にはっとする。
盟が枝を片手に、コダマを構えて二人を睨みつけていた。
「おまえはッ」
椎田が戦闘体制をとる――よりも速く。
コダマ本体の体当たりが椎田本人を吹っ飛ばした。
「あららー、せっかくの二対一だったのに」
識は動じない。
けらけらと吹き飛ばされた椎田を見て笑う。
「枝にばっか注意してるから普通の攻撃も避けられないんだよー」
ひらひらと手を振りながら、小さい子に教えるような口調で。
識の余裕は盟にとっては好機でしかない。
この隙にッ!
盟が識に向かって駆ける。
「残念でしたー」
横から割り込む大きな“口”。
識のノヅチが、盟をコダマごと呑み込んだ。