赤黒い視界に一閃。
 仄暗かった周囲に直線の細い光が差し込む。
「や……った、のか?」
 呆然とする絆那。
 光が差し込むとともに、揺れる足元。
 腹が割かれたノヅチがのたうっている。
「お、うううおおおおおおぉっ!?」
 がくがくと笑う膝のせいでまともに立ってさえもいられない。
 先に体力を無駄に使いすぎたことのが原因か、と自分の不摂生を呪う。

 光が差すということは、割けた腹が外に通じているということ。
 目の前に出口がある、ということ。
(畜生ッ!)
 揺れる地面と疲労のせいで立つことすらもできない。
 せめて風音だけでも。最愛の妹に向かって絆那は必死に腕を伸ばした。
 その腕が、不意に掴まれる。
 絆那は目を見開いた。
「起床はもっと穏やかな方が好みなんだけど」
 目を覚ました盟だった。



 ヤマワロの鉄拳が唸る。
「ハハハハハハハハハハハッ! 逃げろ逃げろぉ!」
 もたつきながら、玲は拳を紙一重で避わした。

「はっ、はっ、はっ、はっ」
 息も切れ切れ。
 呼吸の暇さえも与えぬ、と鉄拳が飛んでくる。

 初撃はとっさに後ろに飛んで威力を殺した。
 さもなければ、その一撃で骨を砕かれてしまっている。

 手負いの獣は恐ろしい、とはよく言ったものだと玲は思う。
 報復にのみ集中し、標的から決して意識を逸らさない。
 単純ゆえに付け入る隙が見当たらない。

 廃ビルであるためか、身を隠すのに向いた場所は無い。
 柱を盾にしてもヤマワロの鉄拳の前では効果が薄い。
 さらに柱が砕ければ自分が危ない。
 スウェイバックと腕のガードの上から打たれた腹が重い。
 回避の連続すら今は玲の体力を削る。

「はあッ!」
 右方向から鉄拳が飛来。
 それを前方に飛んで避け――、
(しまっ……!)
 眼前に迫る巨大な拳が襲い掛かる。

「おいおい、鬼ごっこは終わりか?」
 愉快そうに椎田は倒れ伏した玲を見下ろす。
 答えるにも、声は出せそうになかった。
 出血しているらしいが、それがどこなのかも分からない。
「まあ、コイツの一撃だからな。……やれ」

 ヤマワロの足が、踏み潰さんと玲に向かう。



 玲と椎田が戦闘をしている廃ビルの屋上。日も落ちようかという時。
「あ……、え? 何、で」
 不意に腹部に響いた鈍痛。識がそこに触れた。
 掌にべっとりと付着した“何か”。
 どんな絵具よりも鮮やかに紅い“何か”。
 訳がわからない、といった具合に識は自分の手を見つめる。

「何、した、の?」
 痛みとともに目の前に現れた盟に対し、途切れ途切れに言葉を押し出す。
 息苦しさが込み上がる。
 ノヅチの腹が割かれたという事実は、決して識の頭に届かない。
「私じゃない」
 盟はそっけなく答える。
「今後スカウトはもっと穏便に行うべきだね」
 盟は識のノヅチの能力を既に知っている。
 伸縮自在な体躯こそやっかいであるが、絆那の一撃で動きを鈍らせている。
 敏捷性と小回りに優れたコダマならば十分に対応できる。

「おまえ、たちが……邪魔したくせに」
 息切れで小さくなった声を、さらに小さくした一言。
「邪魔をさせたのはそっち」
 盟はあくまでも冷静を保っていた。その冷静さをもって、識を観察する。
 にこやかに笑っていた表情は既に欠片も残っていない。静かに、かつ一直線に盟を貫
く視線には、静かに燃え盛る怒りが篭っていた。
 一度目の対峙の時に見せていた余裕の表情はそこにはない。ここからが相手の本領発
揮。コダマの能力を過小評価するつもりは無かったが、相手が重傷を負っているという
ことを、盟は思考から排除した。
「おいで、コダマ」
 冷たい空気を纏い、コダマが躍り出る。



「な、何だと……!」
 椎田は目を疑った。
 玲を踏み潰したと思っていたが、それは“何か”に阻まれた。
(本当ギリギリ、だったね)
 燃え盛る炎を従える純白の甲冑。
 玲のトビモノが、巨大な踏み付けから主を守っていた。

「てめェ、解ってんのか?」
 途端に不機嫌さをはらんだ声。
 それに答えず、ごろん、と玲は仰向けになる。
 そのまま大きく深呼吸。
 軋む骨が痛みを訴えるが、それ以上に酸素を身体が求めた。
 決して綺麗な空気とは言えなかったが、目を覚ますには十分。
(備えあれば憂いなし、何事もやっておくもんだね)
 よろよろと玲は立ち上がる。

 玲はときにトビモノで遊び心を見せる。
 一度、炎の温度をどれだけ操作できるかと試みたことがあった。炎の高温については
計測などできるはずもなかったが、低温の炎を創ることができると知った。

 ――俺のは持って帰っておいて。

 “ハンバーガーの中”にそれを仕込ませておく。
 トビモノの人魂は手足に等しい。即ち、人魂の周囲の様子を玲は知ることができる。
 一般人にすら視認できる弱点も、ご丁寧に包装までされたハンバーガーの中では全く
問題とならない。
 伏兵が潜んでいる可能性を玲は最後まで捨てていなかった。
 演技による餌だけでなく、第二の撒き餌を控えていた。

(わかってるさ、ここは俺の勝ちって、ね)
 ノヅチの能力は予想外だったが、もはや躊躇する必要は無い。
 ふらふらとした立ち方は椎田から見てもわかるほどに不安定。
 立っていられる時間もそう長くなさそうだ。
「行くよ、トビモノ」
 燃え盛る人魂が、ヤマワロと椎田を取り囲んだ。



 風音を背負ったまま、絆那は商店街から寄宿舎へ駆ける。盟が促す通りに逃げ出すこ
とは癪だったが、風音を巻き込んでしまうことは避けたかった。走りながらも背中の風
音の穏やかな寝息と+α二つを感じ取る。兄貴だというのにちょっと興奮してしまった
のは内緒の話。
 周りの目が多少気になる所であったが、絆那は堂々と突き進んだ。自分の恥よりも、
絆那は妹の方が大事だと考えていた。

「絶対あとで説明してもらうからな、盟ぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

 視線の原因はその叫びの方だったり。
 そんな事も露知らず、絆那は爆走を続ける。絆那は気付いていなかった。ほんの十数
分ほど前まで立つことも叶わぬほどの疲労に襲われていたことに。

 超速度での回復、物の怪憑きとしての変異が彼に現れていたことに。


「はああああぁぁぁぁッ!」
 コダマを潜らせた長い枝を、識へと叩きつける。
 ――が、識はそれを回避する。
 止まらず、盟は枝の攻撃を次々に繰り出した。

 先に仕掛けた盟は攻め手を緩めない。
 様子見はしない。
 日が落ちれば、縮んだノヅチの視認が難しくなる。
 同じ奇襲を受けるのは、もうごめんだ。

「ノヅチッ!」
 膨れ上がったノヅチが頭上に迫る。
 人間すら一呑みの身体は、それ自体が強力な武器。
 盟を押し潰そうと、ノヅチが頭から突っ込む。

 ズゥゥゥゥゥゥン……!
 鈍い崩壊音が聴力の落ちた識の耳にも届く。
「やっ――」
「ってないよ」
 瞬時に左方向からの気配を察知する。
 声のする方に、押し潰したはずの盟の姿。
 鈍痛にさえも隠れない、ちくりとした感触。
 焼け焦げた枝が、自分の首筋に当てられている。

「――ぁ」
 追い詰めた相手の抵抗ごと潰してやるのが好きだった。
 追い詰められる、という状態になど一度たりとも陥ったことは無かった。
「あんなに堂々と膨らませれば誰だって気付く」
 淡々とした盟の言葉も、識には届かない。

 “恐怖”という感情を、今この時をもって識は始めて知った。
「……さよなら」

「あああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁッ!」
 生きたまま全身を焼かれる記憶が識に貼り付けられる。
 息苦しさをもどこかへ追いやった断末魔の叫びに、盟は少し耳を閉じたくなった。

 識の敗因は戦闘に不慣れであったこと。
 組織において彼女の受け持っていた作業は捕獲と選別。
 戦闘においてもどんな相手に対しても優位を取れる能力を有しながらも、それを生か
す機会が無かった。攻撃力をほぼ持たないながらも常に前線で戦ってきた盟が相手だっ
たことが、彼女にとって最大の不幸。
「じゃあね。傷の方は早く誰かに手当てしてもらいなよ」
 聞こえているはずが無いと解っていながらの言葉。
 盟は識に背を向ける、

「冷たいねェ。冷たい冷たい」
 突然の声に、向けた背を再び返す。
 風にたなびく今の季節には少し遅い黒革のコートを纏い、両の腕をまっすぐVの字に
掲げた長身のシルエット。夕暮れ時でも分かる赤毛は後ろで高く結ばれている。
 声、姿、雰囲気。
 その全てが、自分自身の持つ記憶と一致する。
「人として、それは無いと思うぞ?」
「兄、さん……」
 盟は身構える。
 見知った顔が現れた故に少しの間だけ呆けてしまったが、目の前に現れた長身の男も
敵対組織――百鬼夜行の一人であることに変わりは無い。それに加え、この男は自分に
とっても憎むべき仇敵でもある。

(て言うか、そのカッコは何)
 季節感の無いコートもおかしければ格好もおかしい。奇抜といえば奇抜な風体である
が、それで身が持つのだろうかと相手に心配させるような格好はどうなんだ。一目見た
ときに問答無用で襲い掛かってしまえば良かった。
 最初に兄と認めてしまったことに少しだけ後悔する。

「カタいなぁ。らぶり〜に、“お兄ちゃん☆”でいいんだぞ?」
 絶対言うもんか。固く心に誓いながら。
「コイツを助けに来たの?」
「愛しのまいしすたーを迎えにさっ!」

 ぶんっ。
 がつんっ!
 思いっきり放った太枝が脳天に見事にヒットした。

「帰れこんちくしょう」
「痛たたた。まったく、嫌われたもんだ」
 オーバーリアクションで肩をすくめる盟の兄。対する盟は冷たい視線のまま態度を変
えようとはしない。
「んじゃ、ちょっと手荒に」
 す、と右の手を盟へと向ける。

 ゴキィッ!

「う……あ」
 気付かぬ一瞬の間に、あばらに鈍器のような一撃が叩き込まれた。
 数歩ぶんの幅が二人の間にあったというのに、その差はさらに遠い。
 盟はその場に蹲るように崩れ落ちた。
「ごめーん、骨までやっちゃった。まあ、すぐ治るよなっ」
 明るく言うことじゃないし、扱いが全く“愛しのまいしすたー”じゃない。冷たかっ
た視線に、熱が篭った。それを長身の男は満足そうに見返す。
 額に脂汗が滲むのを感じながら、盟はコダマが消えていくのを感じていた。
 気を失って言葉も無い識を抱き上げて去っていくのを、盟はただじっと見ているしか
なかった。
「帰れ、って言ったのはお前だぞ、盟」
 集中を途切れさせるな、と自分を叱咤するも変わらない。薄れゆくコダマを兄に向け
させるも、コダマの動きも鈍い。
「動、けぇッ!」
 コダマが立ち上がる。と同時に、その姿は虚空に消えた。
 かつ、かつ、と足音を立てて盟のもとへと足を運ぶ。
「お前の体力じゃ連戦はキツかったろう、おやすみ」
 兄――哲司てつしの思いの外優しい声が、いやに遠く聞こえた。



「楽しむ時は相手と時と場合ってのを考えるべきだったね」
 足元でピクピクと動く椎田を見下ろしながら玲は言う。
 まだ生きてるんだ、と少しだけ感心した。
 もっとも、彼自身も人魂で殺すつもりなど全く無かったのであるが。
「た、たす、け」
 消え入りそうで、もはや声というよりも漏れ出る呼吸音に近い。
「ムリ。お腹空いたし」

 玲がそう言うとともに、トビモノの甲冑の前方ががちゃりと開く。
「さ、召し上がれ」
 平坦な調子で玲は言い放つ。
 無機質で、美しさすら称えるトビモノの奥に広がる闇を、椎田は見た。

 声にならない悲鳴は、玲の耳にすら届かなかった。