それから数日。
 二日間の連続した超常現象が嘘かと思えるほどに、絆那の日常は平和だった。相変わ
らず朝は玲の過激コースで叫び声とともに目覚めるし、学校に着けばすでに盟は机に突
っ伏して眠り込んでいたりする。学校にいる時間は滞りなく過ぎていき、放課後もいつ
も通りの寄り道や寄宿舎の生活に変化は無かった。
 隠していた衝撃の事実を知らせてしまった割に、身近な二人の態度にさえ変化は無い。
絆那は逆にそちらに驚かされた。

 盟が言うような身体的な異常はいくら待っても現れない。同じく物の怪を知っている
らしい玲にも尋ねてみたが、他人の感覚など解るはずもない、と空しくも一蹴された。
 身を護るためにも自分の物の怪を知りたいとも思ったが、まずそれをどうやって外に
出せばよいのか解らない。起きている時間の短い盟とは擦れ違うばかりであり、玲の方
も好奇心だけで物の怪を使うのは危険だから、と答えなかった。

 数日間、警戒しながらの生活だったが、物の怪の影どころか警戒する必要さえも見当
たらなかった。実際の所は二人も掴みかねている所もあるのだろう、その証拠に絆那は
ほとんど一人になることは無かった。
 もしもの時を考えよう、と風音と距離を置くことも考えた。二日で挫折した。
 シスコンということは自他共に認める所だったが、顔を合わせないだけでも落ち着か
ないほどに重傷だとは自覚が無かった。妹がノリと付き合いのいい性格で本当によかっ
た、と影ながら感謝してみたり。そうでなければとっくに避けられている。



「もう、絆那が知る必要はないけどね」
 冷たく言い放った言葉を、絆那は受け止めることができなかった。最初は聞き違いや
冗談かとも思ったが、玲の態度がそれらの類ではないことを絆那に伝える。
 絆那が何事か言い返そうとするより先に、玲が口を開く。
「物の怪は危険だ。使う方にも」
 眠り込んだ盟の髪をす、と撫でる。
 いつもなら殴り飛ばされるだろうね、と笑いながら。
「こう、なりたい?」

 震える身体や異常な睡眠時間。
 そういった類が自分に襲い掛かるかもしれないと、ほんの少し前に恐怖したばかり。

「少なくとも、使うよりは使わない方が安全なわけ。おーけー?」
 口調は平時のそれに戻ったが、瞳の真剣さの度合いは損なわれていない。
 絆那は自分の手が冷たくなるような錯覚を覚える。
「おまえも、物の怪を?」
 答えのわかっている問いを、玲にぶつけてみる。口ぶりや態度から予想するに玲が物
の怪憑きであることは想像ができていた。
「ああ、俺はさすがに見せてやれないけどね」
 答えは予想通りのもの。物の怪のリスクを知った絆那は玲が物の怪を見せない理由も
理解できる。玲に向けて「そうか」と短く返事した。
 物の怪憑きについての最低限の知識は得たが、それ以上のことを絆那は知らない。
 まだまだ知りたいと思うことは山ほどあった。
「なあ、物の怪から身を護るには、どうしたらいいんだ?」
 ふにふに、と盟の頬を突いていた玲は絆那の言葉に大きくため息をつく。
 玲が答える気がないことを絆那は感じ取った。ならば、と質問を変えてみる。
「お前たちは、いつからこんなことを?」
 二度目のため息。仕方がないな、と呆れが混じった声で玲が声を出す。
「知る必要のないことばかり知りたがるんだな」

 自分が狙われていること。
 狙っている存在は一般人には不可視の力を有していること。
 それだけを知れば良い、と玲は言った。

「火の粉を払うのは俺たちの役目。絆那まで戦う必要は無いんだよ」
 言葉にのしかかった、遠さ。
 ともに歩んできたと思っていた幼馴染の中で、自分だけが違う道であったこと。
 分かたれた道の間には、確かな距離が存在していた。
「そのために戦ってるんだしさ。俺も、盟もね」

 玲の言葉に、絆那は内側を貫かれるように感じた。盟の話を聞いてから色濃く残った
もやもやとしたもの。それは、ともに戦いたいという想いだったのではないか。
 自覚すらしていなかったことを、ぴたりと玲は言い当てた。
 付き合いだけは長いゆえに、心根を透かすこともできるということだ。

 逆に絆那も長い付き合いだからこそわかった。
 幼馴染が、なぜ自分を戦いから遠ざけようとしているのか。
「わかった。俺は“普通”に生きていけばいいんだろ?」
 玲や盟にとっての絆那は、護る対象であるとともに帰るべき“普通”でもあるのだ。
「そ。それが風音とおまえの役目」
 満足そうに玲は笑う。
 見透かした上での笑顔なのだろうと思うと、絆那はその悔しさも許せる気がした。



 標的である絆那にとって、それを知ってからの最初の二、三日は気が気でなかった。
何せノヅチの例がある。常に玲か盟が近くにいるとしても、またいつ奇襲を受けて拉致
されるか解ったものではない。
 絆那の心配の割に、日常は平和を保っていた。油断を誘っているのかもしれないとも
考えたが、油断をしていようが警戒していようがどちらにしろ絆那は無防備だった。

 週に一度の風音とのランチタイム。
 本当ならば毎日でも一緒に食事を楽しみたいのだが、それが原因でクラスの人間に馴
染めない事態が生じる可能性もある。現在の週一ペースは両者の意見を聞き入れた上で
の妥協の産物である。
 そのせいで入学したばかりの下級生にも既にシスコンぶりが知れ渡っている始末。
 玲や盟が同席することもあるが、今回ばかりは同席を遠慮してもらうことにした。物
の怪についての話を聞いて割り切れないものを感じている絆那には、同じ場にいること
が耐えられないものだった。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「んーにゃ、ちょっとなー」
 週に一度の楽しみだというのに絆那は上の空。いつもならば幾らでも飛び出る無駄に
多い話題が、今回は一つとして出てこない。熱でもあるのか、と風音は絆那の額に手を
当ててみる。
 余談だが、かつて一度悪ノリして額で熱を直接測ったら本当にオーバーヒートした。
「風、音?」
「うん、熱はないっぽいね。悩みでもある?」
「あ、ああ、うん」
 突然、柔らかい掌が額に乗せられたことで絆那は少しだけどぎまぎした。
「そだな、悩みかもしれない」
「聞いてあげようか?」
 無垢な笑顔を向ける風音。
 絆那は少し困った顔をした。言えるはずが無い。
 自分の聞いた事実を伝えたところで信じてもらえるかも解らないし、幼馴染である盟
や玲がずっと秘密を抱えていたことで風音を傷つけてしまうかもしれない。
「いや、自分でなんとかするよ」
「そか、ちょっと残念」
 言葉とは裏腹に、少しだけ笑顔。
 いつまでも妹にべったり、からようやく一歩前進したとでも思われただろうか。

 自分には、大事な友達と妹がいる。
 だから、これ以上物の怪に関わるべきではない。
 思考の上では、それで納得できていた。



 夜。寄宿舎近くの街道。盟は一人でそこにいた。
 街道に添えられた街路樹や、植え込みの一つ一つをコダマで読み取る。不審な存在が
近くに現れたのならば、それで直ぐに感知できる。コダマによる点検は盟の日課の一つ。
 それが原因で学校で睡眠をとる羽目になったりしているのだが、他に使える時間帯も
無いので仕方なく夜に出回ることにしている。
「……これは」
 街路樹の最後の一本にコダマを潜らせたところで、盟は動きを止める。季節に全く合
わない黒い皮のコートの長身の男の姿がそこにあった。まさか、と疑うべくも無い。高
く結んだ長い赤毛も、それを裏付ける。
 冬樹、哲司。
 少しだけ熱くなった心を冷ますとともに、記憶の読み取りにのみ集中する。
 街路樹に片手を当て、携帯を耳に当てながら樹に向かって話しかける姿。
 誰かと話しているのだろうか、と思ったが、それは明らかに違う。
 せせら笑うような視線は、明らかに樹に向けたもの。コダマで周囲の樹の記憶を読ん
でいることも、既に相手側に割れている。今までの日課は徒労であったのだろうか。
 相手側からの接触があったことには相違ない。気を取り直し、もっと集中して音声も
明確に拾わなくては。

『よーお、盟ちゃん元気かい? 愛しのお兄ちゃんだよー?』

 いきなり集中を途切れさせそうになった。
 言い方を変えれば、相手が樹だろうがちょっと殴りたくなった。
 事実上の軍使だろうに、何故にこの男はこうまで軽いのか。

『盟ちゃんのことだから、このメッセージを聞いてくれてると信じてるぜっ』

 勝手に妙な信頼をされても困る。
 だが、しっかりと期待に応えてしまっている自分が悲しかった。
 携帯電話を所持しながらだったのはこのためか、と盟は納得する。世迷言に関しては
他人の目を気にする程度の常識があったことに、驚きと安堵を覚える。

『大きい声じゃ言えんが、よくぞ椎田を倒した。アイツぁ正直嫌いでな。
 まあ、それはどうでもいいんだ。ところでこないだ友達からメロン貰ったんだ。
 欲しいか? ん? 太いバナナもあるぞ?
 辛抱たまらーんっ! って思ったらいつでも“お兄様☆”を呼びな』

 どうでもいい身の上話の上に微妙にセクハラまで混じりやがった。
 しかも何やら呼称の従順度がアップしている。
 ものすごく投げ出したい気持ちに駆られたが、重要な情報を聞き出せる可能性があ
る以上、読み取りを続けなくてはならない。

 その状況から、およそ十数分ほどどうでもいい雑談が続く。
 ものぐさなくせに奇妙な所で生真面目な盟は、それに全て付き合った。
 自分で自分を褒めてやりたい、と思った直後、

『ここまで読み取るとは、相変わらず真面目だな。お兄ちゃんそういうの大好きだぞ。
 ……でも、まずはお友達を優先すべきだったな』

 そこで音声は途切れる。
「――――しまったッ!」
 ほぼ同時に、全速力で寄宿舎へ。
 細い体躯と普段の爆睡ぶりからは全く想像もできない速さで駆ける。
(迂闊……ッ)
 哲司の狙いは、自分を絆那から離すこと。
 盟の性格を知り尽くしている哲司に、それを逆手に取られてしまった。
 自分の性格が、呪わしかった。



 玲とともにコンビニへと買出しに出ていた絆那は言葉を失う。
 見上げれば、そこに首をもたげる真紅のノヅチの姿。
 膨れ上がった巨大なノヅチの威圧感はそれだけで恐怖を煽る。捕獲に向いた能力ゆえ
に飲み込まれてしまえば逆に安全であるが、その力を使わずともノヅチは十分に戦闘に
向いた物の怪であった。
「玲君には悪いけど退場してもらった。悪いね、絆那君」
 黒いコートを纏った見覚えの無い長身の男が、穏やかな調子で絆那に声をかける。
「盟が来るまでにカタを付けようか。あの娘が来ると暴れたがるんでね」
 ノヅチの方に眼をやり、笑顔を浮かべながら黒コートの男は言う。
 口ぶりからすれば今のノヅチが落ち着いているかのようであるが、むしろ腹を割いた
張本人を前にして興奮しているのが絆那にもわかった。

 物の怪憑き。何度か襲われた経験や盟の説明もあり、絆那はパニックに陥ることなく
思考する。自分に出来ることは、ほぼ無いに等しい。ノヅチに呑まれた玲を助けたいと
は思うが、何かをしたところで無駄に終わるのは目に見えている。

「まだ、俺を狙ってるのか」
「組織的にはね。俺的には君はどうだっていい」
 笑顔を絶やさぬまま。
「君がこちらに来れば、盟が楯突く理由もなくなるだろ?」
 男は三人の名を呼んだが、盟だけが呼び捨てであることに絆那は気付く。名前を調べ
ていることについては驚きは無いが、そこだけが妙に引っかかる。
「あんた、盟の何なんだ」

 現状が目の前の男の言葉通りならば、盟はこちらに向かっている。裸同然の無防備な
自分にできることは、それまで時間を稼ぐこと。いつ襲ってくるかも解らないノヅチを
前にして平静を装うには神経が緊張しすぎているが、会話をするだけの僅かながらの余
裕はあった。

「俺かい? 俺は盟のお兄ちゃんだ」
「盟、の――?」
 哲司の言葉に、絆那は驚きを隠せない。
 幼馴染の一人であったが、盟の家族関係については一切知らない。今でこそ寄宿舎に
住んではいるが、その前に住んでいた場所さえも絆那は知らなかった。
「君も妹がいるんだろ? じゃあ俺の気持ちを理解してくれるよな?」
「だって、盟に兄貴がいるなんて」
 聞いたことが無い。
 そう言おうとしたところで、何かに弾き飛ばされた。

 人間とほぼ変わらない程度の身長の、深緑のぬめぬめとしたシルエットが哲司の前
にいる。二本一対の髭を生やした深海に棲んでいるような魚から、太い腕や脚を生や
した姿。
 哲司のもつ物の怪、河童だった。

「あまり気は長くないんだ。力づくでも連れてくよ」