動悸が頭に響く。
体中が熱くて、寒い。
盟の兄を名乗った男が躊躇無く物の怪を現したことは、絆那にとって予想外だった。
物の怪を具現化し、使役することが使い手に多大な消耗を与えることを絆那は知って
いる。ほぼ抵抗手段を持たない絆那に対しての態度にしては厳重すぎる。
(まさか、俺が物の怪の力を使えると思っているのか?)
一度だけ行使しただけに過ぎないが、盟を捕えまでしたノヅチを破ったことによって
その疑惑を持たれている可能性はある。状況だけならば盟が内側からノヅチを破ったと
考えられなくもないが、次の刺客が刺客なだけにその言い逃れはできそうにない。
最初に“狙われていることを自覚している”ことを吐露してしまったのは失言だった。
「一応、色々と聞いてるんだ。君は怖い。だから」
ひゅんっ。
軽やかな風切り音とともに河童が眼前に現れ――、
ドガァッ!
腹に鈍器のような一撃が叩き込まれる。
反応すらできなかった絆那は一メートル近くも吹っ飛ばされた。
音にそぐわぬ威力に、ただ驚くばかり。
「手加減は、しない」
語調が冷徹なそれに変貌する。これまで絆那を襲ってきた物の怪つきは、椎田も識も
絆那の身を多少は丁重に扱おうと気絶や捕獲だけに攻撃を留めていた。
今回の現れた三人目は違う。
目的こそ同じであれど、それに懸かった力は戦闘に対するもの。
瞬間的に現れるのは、その物の怪の能力によるものか。
たったの二発だけだった攻撃が、重い。思考が十分に働かない。
「待て、待ってくれッ!」
「命乞いかい? だいじょーぶ。たぶん殺しはしないから」
「たぶんってなんだコラ! あとそーじゃねえ!」
爽やかな笑みでの自己完結に、思わずいつもの調子での突っ込みが飛び出した。絆那
には、相手に対しての抵抗手段がないことを示す必要があった。信じてもらえないにし
ても、ただ逃げ回るよりは時間稼ぎの代わりになる。
「じゃあなんだい? ともに妹がいることの素晴らしさでも語ろうってのかい?」
「違うわーッ!」
逃げ回りながら絆那が叫ぶ。
距離を置けば河童は目の前に現れる。
そして、またもや絆那の身体が突き飛ばされた。
半ばヤケになったような絆那の罵声を避わす爽快感溢れる微笑の仮面の下の瞳は、あ
くまでも冷静なまま絆那を観察していた。
手加減はしないと宣言はしたが、最初から全力で向かうような真似はしない。
力を使わないのは覚醒したてで制御が効かないから、と哲司は判断する。だが物の怪
の力に慣れていない割に、絆那はえらく堅い。
必死に逃げても身体能力で勝っている河童の脚力に追いつかれ、そのたび河童の一撃
を受けている。河童の一撃が盟を一撃で沈めた攻撃より劣ったものであるといっても、
生身でそう何度も受けられる代物ではない。
絆那が逃げると、河童が追う。
現れる先は“必ず”絆那の前方。
そのことを、絆那自身が学んできている。
対応が回を重ねるごとに速くなっている。
河童の姿を見つけるたび、
――後ろへ、飛ぶッ!
寸分違わぬ絶好のタイミング。
河童の張り手の威力の大部分を殺したはず。
消耗や気の乱れによる判断力の低下を差し引けば、見切るには速すぎる。
表情を崩さぬまま、哲司は自分の鳥肌を感じ取った。
目の前の少年は新鋭の物の怪憑きとして、これ以上にない脅威だ。
「いいかげん話聞けやこんちくしょうがあああああああああああ!」
今は半分パニックになったような喚き散らしを交えながらであるが。
ノヅチを内側から破るほどの攻撃力、戦闘における成長率、未だ不安定であれど絆那
の潜在能力の高さは哲司の予想をはるかに超えたものだった。
前言撤回、と哲司は小さく呟く。少しだけ、絆那に対して興味を持った。
「追うな。止まれ」
絆那が自分のいる方向へと逃げている時を見計らって河童を止める。
ぴた、と河童が命令に従うと、絆那もその少し後に止まった。
「はあ、はあ、はあ、この、はあ、やろう」
絆那は息切れ混じりに哲司を睨む。
物の怪憑きだろうがお構い無しに殴りかかりたい所であったが、全力の往復ダッシュ
計十七本がそれに制限をかける。
「正直な所、手足の二、三本は別にいいかなーって思ったけど」
さらっと言いのけた哲司の台詞はツッコミどころ満載であったが、絆那は今それどこ
ろではない。
「止めておくよ。もっと痛い目に遭ってもらう」
河童が拳を握り、両手をつき、膝を浅く曲げる。
さながら、相撲の立ち合いのように。
その姿勢からの先制攻撃こそ、陸における河童の武器。
手加減はしないまでも、無駄な消耗は抑えるつもりだった。
だが、それは誤りの選択だ。
全力で立ち向かわねば絆那は成長する一方。
敵に呑まれることなど、決してあってはならない。
仮面を剥ぎ取る。
捕獲対象ではなく、敵として。
「行けッ!」
河童が、地面を蹴る――直後。
バチィッ!
深緑の何かが河童に飛び込んだ。
絆那と哲司が同時に何かを目で追う。
飛び込んだのはコダマだった。
思わぬ奇襲に河童が仰け反る。
「めい、か」
河童のダメージがフィードバックし、哲司は苦悶の息を漏らす。
予想していたよりも、到着が思いの外速い。
――――――あいつだッ!
ノヅチが漆黒の天空に向けて雄叫びを上げる。
十メートル以上にまで膨れ上がったノヅチが、コダマを押し潰そうと身を持ち上げた。
「止めなさい。派手に被害が出るよ」
コダマに追いついた盟が、落ち着いた調子で話しかける。
「そんなの、知らない」
ノヅチの影から、識が姿を現した。
猫のような目や柔らかげな髪質にこそ変化は無いものの、両手に包帯を巻き、頬にも
怪我を手当てした痕跡が見られる。――それら傷は、盟がつけたものではない。
さらに一方で絆那に割かれた腹の傷は、まるで最初から無かったかのような振る舞い。
否、既に傷そのものは再生されているのか。
精神に直接与えたダメージとノヅチの特性を考えれば、盟にはおおよその傷の経緯は
予想できる。コダマの攻撃の後に自らを傷つけてしまう場合を眼にしたことはあるが、
それを気に留めていないかのように虚ろな笑みを浮かべる人間は初めてだ。
不気味な奴、盟は小さく呟いた。
「焼かれてから、痛いんだよ。ずっと」
その尾が一薙ぎ。
「もっと痛い思いをしても、全然そっちは痛くないのに」
さらに一薙ぎ。
巨体ゆえに鈍重。
盟はそれを余裕を持って回避する。
が、周りはそうはいかない。
周りの電柱や塀、家までもが倒壊する。
崩れる音が。
数々の悲鳴が。
それらを見て、聞いて、識は満足そうに笑った。
ノヅチが、再び尾を揺らす。
(場所を変えるか、それとも)
飛び交う破片を避けながら、盟は絆那を見遣った。
今の選択肢は二つ。場を離れるか、このまま戦闘を継続するか。
戦う場所を変えねば被害はより大きくなってしまうし、かと言って離れれば戦闘体勢
に入っている哲司を放っておくことになってしまう。
幼馴染の親友を切り捨てることも、無関係の多くの人を見殺しにすることも選択でき
るはずが無い。
暴れまわるノヅチの懐では、考える時間は用意されていないに等しい。
「兄さん! ノヅチを止めさせて!」
破壊の音が響く中、声も枯れよと哲司に向かって叫ぶ。
無理と解っていながら、兄に頼るしかなかった。
「無茶を言うな。ありゃ俺の物の怪じゃないんだ」
河童を従え、盟の目の前に現れた哲司が答える。
「でも、兄さんなら止められるでしょう!?」
昂った声で哲司に詰め寄り、コートを掴む。
その間にも、ノヅチは破壊行動を続ける。
他者が痛みを訴えるときだけ、識は痛みを忘れられる。
虚ろな瞳が、恍惚を湛えた――。
膝を折り、視線は地面へ。
「お願い、止めて……」
気丈さの裏に隠れた脆さを目の当たりにし、哲司は大きくため息を吐いた。
妹のわがままを一つくらい聞いても、バチは当たらないだろう。
「そうだな、でも、ひとつ条件がある」
立ち尽くすしか、絆那にできることは無かった。
飛んできた破片が頬を切り、その痛みでようやく自分を取り戻す。
不可視の力に狙われているということ。
それは、てっきり自分だけが危険なのだとどこかで思い込んでいた。
頭の中では解っていたはずなのに。
絆那は、掌を固く握り締める。
逃げ回るしか出来ない自分。
それを庇い、護ることさえもできる玲や盟。
構うことなく全てを破壊する敵。
自分がもっとも無力な存在であることが、酷く腹立たしかった。
あの時振り下ろした右手に願う。
自分に、それを止められる力があるのなら。
「頼む、頼むから……!」
俺に、力を貸してくれ……!
「交渉成立だな」
悦を含んだ笑みを浮かべ、哲司は識に向き直った。
「たしかに、ちょっとやり過ぎだ。周りが見えなくなってる」
河童の力を、最大にまで引き上げる。
緑の筋肉が盛り上がり、立会いの姿勢はさらに頭を低く。
狙うは、ノヅチ憑きただ一つ。
「梶取」
識を呼ぶとともに、河童が駆ける。
破壊の愉悦と、殺意の交差――――。
深緑の矢が、識を貫く。
直撃を受けた識の身体が、ノヅチに叩きつけられた。
「ふ、ゆき?」
消え入りそうな声で識が最後に発したのは、哲司の名だった。
「どうよ? お兄ちゃんは偉大だろう?」
全身から汗を吹き出しながら、哲司は盟に向かって笑顔を見せる。
全力を使ったことによる疲労が哲司を襲っているのが、盟にもわかった。
「殺、したの?」
背中に冷たいものを感じながら、恐る恐る盟は訊く。
「俺はそのつもりだったよ。そうでもなきゃ止まらない」
識は既に肉体の痛みを痛みとして認識しない状態にあった。生半可な攻撃は逆に神経
を逆撫でするだけ。動きを止めるなら最低でも意識を奪わねばならなかった。微妙な手
加減ができるほど、哲司も河童も器用ではない。
身をもって河童の一撃は知っていたつもりであったが、目の当たりにした一撃は盟の
知識のそれとは比べ物にならない。高速で移動でき、尚且つ一撃で致命傷を与えられる
河童は、驚異的な物の怪だ。同時に、それを自在に操る哲司の精神力も。
「おいで、盟」
盟がコダマを呼ぶときのように、哲司は盟に手を差し伸べる。
哲司が盟に与えた条件、それは盟が哲司たちの側――百鬼夜行に来ることだった。
崩壊した周囲を見、差し伸べられた掌を見、盟は震えた手でそれを取ろうとする。
その時。
――オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!
呼応するように、ノヅチが吼えた。
物の怪は、人間に憑くと同時に自己に呪縛をもかける。人間が物の怪憑きになると同
時に、物の怪はそれのみに使役される存在となる。
宿主でありながら枷でもある識が事切れたことで、ノヅチは晴れて自由の身となった。
「ありゃー、大人しく消えてくれると思ったのに」
「そんな呑気なこと言ってる場合じゃない!」
ノヅチの眼の無い頭が、盟と哲司に向けられる。
眼は無くとも、その匂いは色濃く残っている。
通常ならば自由の身を満喫したり次の宿主を捜しに行ったり様々だが、活きのいい宿
主を潰されて気性が荒立ったノヅチの次の行為は異なっていた。
首をもたげ、標的を飲み込もうと大口が開かれる。
疲弊した河童とコダマでは迎撃には心許ない。
頭から突っ込むノヅチを避けるも、その衝撃が二人を襲う。
駄目元ではあったが、盟は枝を構えてノヅチに突っ込む。
物の怪の身は切断されても直ぐに再生するし、炎の記憶が効くかどうかもわからない。
虫食いの枝で、内から食われる感覚を浴びせれば動きを止められるかもしれない。
物の怪は何かに憑く一方のもの。喰われる感覚など知らないはずだ。
「待て、盟!」
哲司の制止も聞かず、盟は駆ける――が。
巨大な尾の一薙ぎで、周りの瓦礫ごと払われる。
「盟!」
河童の高速移動で盟を助け出し、抱き上げる。
その細い体躯を抱きしめ、ノヅチを睨めつけた。
盟の怪我は自分の責任だ。判断を間違えなければ、盟を連れて帰れたはずなのに。
「こいつッ!」
河童が再び立ち合いの姿勢をとる。
筋肉を盛り上げ、頭を低く。
投げ飛ばすにはノヅチは大きすぎる。
再び張り手を叩き込むしかない。
二度目の全力の一撃は威力も落ちる上に哲司を限界まで到達させてしまうが、ここで
手を拱いているよりはずっと良好の結果が出るはずだ。
再び河童が深緑の矢となってノヅチを貫く。
が、その巨大さを楯として、真紅のノヅチは河童の一撃を堪えた。
抵抗する卑小な人間に、ノヅチがゆっくりと迫る。
「さすがに、二度目はキツかったな」
諦めをはらんだ眼で、哲司は見た。
ノヅチの頭上に、人影が一つ飛び上がったのを。
その手に握るは一振りのつるぎ。
全てを断ち切る“ハガネ”の刃が、ノヅチの頭につき立てられた――。