遠くで自動車が走る音を耳に留めながら、絆那は哲司と向き合っていた。哲司が案内
した裏通りは、隠密行動を生業としている彼ならではと言うほどに人の気配はない。絆
那は少しだけ盟を恨んだ。哲司に対して怯えていることを相手に悟られないよう、近く
に乗り捨ててあった自転車を蹴っ飛ばす。がしゃん。倒れた自転車は絆那が予想したよ
りも大きな音を立てた。
「盟が戻ってくるまで待つかい?」
穏やかな口調も、かえって絆那に逆効果。
盟が走り去った方向から人が現れそうな気配は全くない。絆那は聴覚に集中する。今
の絆那は、足音すらも渇望していた。
「盟とあんたって、何なんだ」
気を紛らわせるためか、疑問に思っていたことを絆那は口にする。訊かれた哲司は、
絆那の質問にふっと小さく笑った。視線こそ外れたものの、絆那の緊張は緩まない。
「百鬼夜行に俺が加担してる理由か? それとも、盟が俺を裏切った理由か?」
訊きたいのはどちらだ、と哲司は迫る。哲司の言葉に、絆那は身を硬くした。盟は裏
切りという言葉がおおよそ似合うような人間ではない。動悸がじわじわと激しいものに
変わる。
兄さんになんか渡してあげない。
盟に言われた言葉が、不意に絆那の脳裏に響く。盟が兄を好いていないことは知って
いたことであったが、何故か今の絆那には重い。
きらり。
黒い何かが光を反射する映像が見え、思考を遮った。
「裏切った、ってどういうことだよ」
声の震えそうな部分を殺しながら、絆那は哲司に聞き返した。動悸はまだも速くなっ
ている。体温が上昇する。顔が紅潮しているのは自覚していたが、顔色の変化を殺すの
にはどうしたらいいのか絆那には分からなかった。
聞きたいと思う一方で、何度も黒い何かが思考を中断させる。物干し竿のような長細
いそれが、何度も絆那の視界にちらついた。
きらり。
話を聞くな、と言っているように。
今すぐ斬ってしまえ、と訴えるように。
絆那はそれらを無視し、哲司にだけその注意を集める。
:
「よく捕まる娘だよ、まったく」
予備の眼鏡のフレームを指で治しながら、骸に“お姫様抱っこ”で抱えられた小さい
体躯に視線をやる。不意打ちを盟に与えた骸は決して大柄ではなかったが、盟を抱える
もう一人の骸は二メートルを超える巨漢。五十センチ近くもある身長差ゆえに、気絶し
ている盟がなおさら小さく見える。
起き上がった骸たちの瞳孔が一斉に窄まった。既に戟の存在が玲に知れてしまってい
る中では、骸たちに生きている振りをさせる必要もない。むしろ、下手な部分に神経を
分けていることは無駄にしかならない。
「へえ、眼球まで操れるんだ」
観察をしていた玲は、七人ミサキの精度に感心したような声を上げる。人間の眼球が
急速に変化するさまは不気味でこそあったが、トビモノで生きた人間を焼き続けてきた
玲にとっては驚きの対象でさえない。
ぼおっ。
音を立て、トビモノの頭頂部から炎が湧く。
「牟田さんにやられた傷が治ってないんだろ?」
白い甲冑に入った傷を見て、戟はニヤリと口を歪めた。
「牟田さん?」
聞き覚えのない名前に、玲は首を傾げた。
「土蜘蛛憑きの人とやり合ったんだろ?」
「ああ。あのおねーさんか。まあ、ね」
誤解されてるな、と考えながら玲は返事をする。露出した両の手の包帯は主に自分が
原因となったものであって、決して土蜘蛛にこっぴどくやられたからではない。自身の
名誉のためにそれを言い出そうかとも考えたが、かえって見苦しいと判断したのでやめ
た。火傷は締め上げられた故のものだし、肩に付けられた傷は本物なのだから、別段嘘
というわけでもない。
かはあっ。
七人ミサキが息吹を放つ。死臭が、たちどころに辺りに蔓延した。
「なるほど、死体ね」
臭気に眉をしかめ、後方に飛び退きながら玲は言った。死体の臭いの知識などさっぱ
り無いが、炎で焼けばさらに異臭が広がるのではないか、という疑惑が頭をよぎる。ト
ビモノの炎は、これまで専ら生きている相手しか焼いたことがない。
まるで仄暗い色さえ持っているかのような不快な臭気からは、一歩退いた所で逃げら
れそうに無い。未だ残る火傷の痛みが、尚更に不快感を煽る。玲は観念する気持ちで身
構えた。
「焼いてみる?」
傍らにぷかぷかと浮かぶ甲冑に冗談半分に訊いてみる。
トビモノは、炎を一つ吐いてそれを返事とした。
上機嫌だな、と戦闘前にも関わらず呑気に玲は考える。同じく一般人から視認できる
物の怪であるだけに親近感でも湧いたのだろう、と結論付けた。玲個人の希望としては
もう少し上品な能力に懐いて欲しいものだったが。
二体の物の怪が放つ濁った空気と、異臭があたりを包む。
「かかれッ!」
ふりかざすとともに、五体の骸が飛び掛る。
老若男女様々であれど、各々の速度や威圧感は全く変わらない。
それは玲にとって有り難いことだった。
炎を纏ったトビモノが飛び回り、次々に弾き飛ばす。
緩急のない単調な動きでしかないのならば、トビモノの炎を切り離すまでも無い。
高温の塊を受けながらも、何事も無かったかのように骸は立ち上がる。
(傷が、無い?)
ニヤニヤと笑って傍観する戟に傷を負った様子は無い。顔にも首にも、半袖のシャツ
から伸びる腕にも。
一方の骸たちの突撃を受けた部位は無残に焼け爛れている。
死体のほうにいくら傷をつけたところで、戟にとっては痛くも痒くも無い。
対峙するトビモノは甲冑の口をあける。
こおおおおおおお。
そこからかすかに音を立てて空気が漏れる。不可解な生命力を誇る七人ミサキが、ど
うにも癇に障ったようだった。
「人間に憑き、死体に更に寄生しているのか」
眼光鋭く、玲は小声で言い放つ。
その視線は盟の殺意の篭った視線とはまた異なる冷たさを帯びる。
観察に感情を挟む隙はない。身を裂くような痛みは、観察への熱意の前には些細なこ
とに過ぎなかった。
七人ミサキの鈍器のような一撃が撃ち込まれる。
右から。左から。
時にトビモノを盾にし、玲はそれらを受け流した。
形態の損傷は攻撃を中断させるに至らない。ならば。
トビモノが放った熱戦が骸の手足を貫く。
ぼとり。
ぼとりぼとり。
肉が更に不快感を増した異臭を漂わせながら落ちる。
「へえ、やるじゃん」
脚を削ぎ落とされても、戟の笑みは揺るがない。
「ずいぶん余裕だね」
「そりゃ、まだ余力もあるし」
くい、と親指で盟を抱えた骸を指差す。もっとも優れた体格を持つ死体は、主の命を
待ち続けるがごとく微動だにしない。
「なるほどね」
玲は声だけを面白そうに震わせて答える。その余裕の面をいかにして剥ぐか、玲の好
奇心はそこに働いた。どんな時でも楽しまなければ損だ。
七人ミサキの骸の手足は脆い。
正体不明の生命力を持っているが、骸を片付けることでそれは解決できる。
物の怪を無力化してしまえば、物の怪憑きはただの人でしかない。
トビモノが人魂を放出した。
戦闘方法に似合わず好戦的なこの物の怪は、玲の考えに肯定的だった。
人魂が七人ミサキを次々に貫く。
穴だらけの死体が何度立ち上がろうと、玲は炎の手を休めない。
僅かずつ、だが確実に。
人魂は、骸を削っていく。
「おお、やるやる」
次々に倒れる七人ミサキを見ながら、戟は面白そうに手を叩く。ずれた眼鏡のフレー
ムを直しながら、玲は小さく舌打ちした。死体を少しずつ削ることも、戟を愉しませる
以上の結果をもたらさない。
「それじゃ、第二ラウンドいってみようか」
戟の愉悦の混じった声とともに、伏せていた五体が起き上がる。立ち上がる骸を見て、
玲は言葉を失った。死体には傷一つ無い。貫いた穴はおろか、焼いたはずの肌の火傷さ
え消え去っていた。
七人ミサキは倒れない。打撃ばかりで特殊な攻撃は持たないが、行使する死体は次々
に修復される。トビモノが炎を撃ち出すたびに、傷を飲み込むように皮膚が構築され、
骸は何事も無かったように立ち上がった。
(こういうのは苦手なんだけどなあ)
危機感や焦燥は湧かない。再生する物の怪への対処法を玲は知っている。ただ、それ
は彼の好む手段ではなかった。敵の放つ死の気配を前に気落ちする相棒を、トビモノは
炎力を和らげてなだめた。
トビモノが甲冑を開く。戟は初めて驚いた。無機質な外見の割に、その動作はいやに
生物の仕草のように思わせる。拳が指を開くように。口が大きく開かれるように。その
傍らの玲は数を数えるように指を折る。ひとしきり数え終えた後に血の色の発声部位を
開いた。
「今日のノルマは厳しそうだ」
「ノルマ?」
怪訝そうな顔で戟が訊き返すが、玲はそれには答えない。
ぞぶり。開いた甲冑が歯のように骸に食い込む。噛み付いたトビモノが、一体の骸を
喰い千切る。身を裂かれる痛みに、戟は声にならない叫びを上げた。
「七人ミサキの不死は確かに厄介だよ。でも、それだけだ」
ぐしゃりぐしゃり。
「そういえば、一人消えるとまた別の人を引き込むって言うよね」
次は自分を狙うのか、と些細な疑問を発するも、悶絶する戟は答えられない。
荒々しい咀嚼が戟の神経を掻き毟る。
ぐしゃり。ぐしゃりぐしゃりぐしゃりぐしゃり。ぼおっ。
一体の骸を食べ終えると、トビモノは一つ炎を上げた。
「やっぱ、死体じゃ腹は膨れないか」
諦めるような口調で、玲は言う。トビモノもそれに同意するように低く鳴いた。
:
耳を覆ってしまいたかったが、その行為は他でもない自身によって阻まれた。その手
が、腕が動かない。哲司の言葉に信憑性はない。そう言い聞かせながらも完全に否定の
できない自分も同時に存在した。
哲司が語ったのは、盟の師だった人間が百鬼夜行に殺害されたこと。盟の戦う動機は、
そのために他ならない。即ち冬樹盟の戦う理由は、絆那を敵の手に落とさせないためで
はない。
思い出しながらのように伏せ眼がちで話す哲司の姿が、絆那の内側に突き刺さった。
私は“絆那のために”戦ってる。
幼馴染が言った戦う理由。その兄の言葉が、それを覆す。
動悸は熱を持って体中を駆け巡る。だというのに、腕の先端や背中は妙に冷たい。心
臓が血液を弾き出すかのように音を立てるが、指先は悴んでいるかのように震え続けて
いた。眼がぐるぐる回る。だというのに、視線は哲司から逸らせない。
「嘘、だ」
顎を小さく振動させながら、絆那は声を絞り出した。
「嘘じゃないさ。君は気付いてないのか? 盟の過去を全く知らないだろ?」
「そっ、それだけで信じられるかッ!」
狼狽が発声の邪魔をする。全身を自律できていないことが、哲司からも見て取れた。
「君の主張にこそ根拠は無い」
さらに、その瞼が最大に開かれる。額に浮かぶ汗の一つ一つが、哲司の言葉が真実で
あると呼びかけていた。ちらつく黒い“何か”の煌きが、だんだんその姿を露わにして
いった。
震える手で、絆那はそれを掴む。ひんやりとした感触が脳髄にまで登り詰める。
ハガネはその持ち手に語る。絆那に拒絶の意思は無い。断ち切らねばならない。
穢れを振り払うように。
絆那は黒き風となって駆けた。
「あああああああああああああああああああああああああああッ!」
突進してくる絆那の姿を見、哲司は小さく溜息をつく。人通りのほとんど無い場所を
選択して正解だった。物の怪の放つ妖気が人を寄せ付けないようにしているのだろうな、
と根拠など何も無いのにそう思った。
無駄と分かっていながらも話を最後まで聞け、と哲司は眼で語りかける。まだ本題で
ある“裏切り”まで話していない。
河童が迎え撃つように姿を現し、地面を鳴らした。