哲司の攻撃が始まった。
河童が突進するとともに振り返り、背後の敵を視認する。河童が掌打を叩き込むのは
それとほぼ同時だった。風を切る音だけが洗練された聴力に届く。再び白い光を放った
のだと視覚情報より先に認識する。
葵の速度は哲司のそれを遥かに凌駕する。河童に攻撃を任せても消耗することだけだ
と哲司は理解していた。まともに戦うには、彼の位置を常に捕捉する必要がある。河童
の一撃のために、哲司は自ら前に出ねばならなかった。
河童の攻撃は止まらない。むしろ速度は徐々に速くなった。葵の回避の連続を、哲司
は一つ一つ脳に留める。身体的な負荷がかかるためか、白い光による移動は一定の距離
にしか作用しない。葵の言う“雷”は決して河童の手に負えない代物ではない。何度か
同じ光を目にする内に、哲司には瞬間移動の限界距離をおおよそ把握した。
確実に位置を知ることができるのは、聞こえる範囲でも、見える場所でもない。
河童の攻撃を単調に繰り返したのは、回避に慣れを生ませるため。河童が葵を光らせ
たと同時に哲司は駆け、腕を伸ばした。哲司の手が、葵の纏うデニムの上着を掴んだ。
触覚だけは間違えるはずが無い。
戦闘の開始以後、表情の変化に乏しかった葵が眉をひそめた。哲司はそれを見逃さな
い。河童が駆け、葵の胴を持ち上げる。投げ飛ばす、それによって生まれる美しい曲線
のイメージを哲司は抱いた。一秒にも満たない間、体重を乗せた豪快な音が耳に届くの
を待った。
耳に音は届かなかった。
音よりも早い攻撃が、河童を撃ち抜く。哲司が倒れたのは、その直ぐ後のことだ。
「惜しかったな」
二十代半ばほどの外見に割りに低いバリトンの声が、倒れた黒いコートの男に投げか
けられた。葵は上着に目をやり、言葉を出さずに固まる。
デニムの頑丈な生地が、雷に巻き込まれて焼け焦げていた。
:
人気の無い廃ビルの中、二つの人影があった。内の一つは力なくぐったりとしており、
パイプ椅子に腰掛けた姿勢にある。もう一人は、立ったままそれをじっと眺めていた。
周囲の塗装の無いコンクリートの壁や床のところどころには穴や亀裂、焦げ後が存在
していた。そこは、かつて玲と椎田が戦闘を行った場所だ。砕かれたまま放置された窓
から吹き込む風が、冷たい空気を運ぶ。朽ちた建物のためか、照明は影も形もない。懐
中電灯を骸が一つずつ所持していた。一つでは申し訳程度の明かりであるが、六つも集
まったことで明度は相手の顔色を容易に伺えるほどになった。
冬樹盟が目を覚ましたのは運ばれてから一時間ほど後のことである。目を開けてすぐ、
七人ミサキに紛れていた一人が目に入った。ニット帽こそ脱いで五分刈りの髪型である
が、最後に醜い笑みを向けたその顔ははっきりと記憶している。
「すぐに目を覚ましたんだな。よく寝るって聞いてたけど」
戟の茶化すような声に、盟は隠すことなく不快感を表す。敵意丸出しの視線を戟は満
足そうに受け止めた。ますます盟の視線に篭る敵意は強くなる。じっと寝顔を見られて
たのかと思うと、さらに全身に寒気を覚えた。
「あんた、変態でしょ」
不快感を吐き出すように、盟は言い放った。
「心外だな。むしろ紳士じゃん?」
手は出してないことのアピールがしばらく続いたが、盟はうんざりするばかりだ。兄
を連想させる軽い態度は、決して好きになれそうに無かった。
受け流すような笑みも盟には薄っぺらく見える。にやけ面を引っ叩いてやろうと思っ
たところで、ようやく後ろ手に手錠が掛けられていることを知った。座らされている簡
素なパイプ椅子が揺れ、横に倒れそうになった。背中を冷やりとさせる感覚が収まって
から、盟は戟に言葉を向ける。
「紳士ならコレ外してくれない?」
がちゃがちゃ、とわざと大袈裟な音をたてて鎖を鳴らす。音を聞く戟の上機嫌な表情
に嫌悪感を覚えるが、構わず盟は鎖を鳴らした。
「それでも充分に甘いだろ?」
多くの物の怪憑きにとって、身体の拘束は無駄に等しい。盟の場合は物の怪も憑かれ
た人間も物理的な力は脆弱という具合であったが。戟はそれを知った上で手錠のみの拘
束に留めていた。コダマの力を発揮できなくさせるだけでなく、相手の屈辱感を増す効
果を狙ってのことだ。
盟はいたずらっぽく笑い、悪友に向けるそれのように甘く睨む。
「いじわる」
発した言葉もまた、敵意を引っ込めたもの。対する戟の方が困惑した。
「哲司さんみてえな奴」
ぼそりと言った言葉を聴覚で感じ、盟は全身の毛が逆立つような感覚に襲われた。哲
司と組んで活動した物の怪憑きだから知り合いで然るべきなのであるが、それだけでは
ないと直感が騒ぐ。
思わず、盟は口を開く。今度の声もまた別だった。
「兄さんと知り合いなの?」
「知りたいか?」
意地の悪い返し方だ、と思いながら盟はぷい、と視線を逸らす。兄に対して少しでも
興味を持ちたくはなかった。もっとも知られたくない一面を知られたような気持になり、
盟は顔を赤くする。それを見る戟の嬉しそうな様を見、不快感はますます募った。
「嫌われてるって聞いてたけどさ。お兄ちゃん大好きなんじゃねえか」
「違うッ!」
間髪入れずに盟は返す。手錠が再び音を鳴らした。飛ばしたコダマが弾かれる。叩き
つけられた拍子に頬が痛んだ。
ぎり、と盟は奥歯に力をこめる。鉄を引き千切るような馬鹿力はどう背伸びしても発
揮し得ないが、繋がれたままなのも気に障った。視線が戟の醜悪な笑みを貫くが、それ
には何の力も無い。
がしと盟の頭が掴まれた。戟自身の身長は平均的だが、その手がえらく大きなものに
盟には感じられた。
「あまり調子に乗るなよ」
短く、小声が耳に届く。手で視界を遮られていたが、耳元で言われたのだと盟は理解
した。七人ミサキの一撃で意識を奪われたことを思い出し、思考が一瞬だけ漂白される。
同時にコダマを再び具現化し、身を強張らせた。
数分待ったが、強く瞑った目蓋が力を失うことは無かった。こめかみに伝わる振動は
怪力に恐怖した震えかと思ったが、そうではなかった。
震えているのは、戟の手の方だった。
「ちくしょう」
手ばかりでなく、声も震えていた。何事か確かめたくとも、盟の視界は完全に覆われ
てしまっていた。
痛みに耐えているらしいことだけは、盟にも分かった。
:
ぎゅうううううううう。脇腹を思い切り抓り上げられ、気絶していた絆那は悲鳴を上
げて飛び起きた。裏通りの路地に少年Aの悲鳴がこだまする。抓った張本人の方はと言
えば、眉一つ動かさずに耳を塞いでいた。
「何するんだバカ野郎! 死んだらどうする!」
「それくらいで死ねるなら脂肪吸引で殺人できるね」
わずかな涙目の抗議を尻目に、玲はいつも通りの笑みを浮かべた。絆那は辺りを見回
した。痛みで頭は覚醒していたが、意識を失う前が全く分からない。自分で蹴り飛ばし
た自転車がさらにボロボロになっているのを見て、ますます混乱する。哲司と何事か言
葉を交わした覚えはあったが、その内容について一切の記憶が抜け落ちていた。
いくら思考を重ねても記憶の靄は消えてくれそうに無いことを悟り、絆那は近くの友
人に頼ることにした。物の怪の察知に優れる玲ならば、何かを知っているのではないか
と期待してのことだ。もしかしたら場にいない哲司を追っ払ったのも玲なのではないか、
とさえ思えた。
「なあ、おまえが助けてくれたのか?」
期待をはらんだ絆那の問いに玲は答えない。
ばりっ。がりっ。がりがりがりっ。
何かを削り取るような奇妙な音を絆那の耳が拾う。空耳かと思ったが、何度も何度も
同じ音が異なる調子で耳を突いた。ついでに強い鉄の臭いも鼻を刺激する。あまり好き
になれそうに無い臭気を寝起きに感じ取り、絆那は顔をしかめた。
「おい」
不安に煽られたためか、少し荒々しく玲の肩を掴む。玲は動かなかった。両の手に包
帯が巻かれているのを見止め、すぐに手を離す。
反応の無さに絆那は苛立ったが、玲の顔を見た瞬間にそれらは全て吹き飛んだ。玲の
顔に表情は無い。だというのに、絆那は戦慄した。トビモノが近くにいるのだと予感し
たが、その姿は絆那の視界にはない。
「ごめん。ほんとうに、ごめん」
やっと開いた口からは、謝る言葉だけが繰り返された。
「絆那、一つ聞いていい?」
視線を横に向け、ぼそりと呟く。玲の視線が自分に向けられていることを認識した上
で、絆那は言葉も無く頷いた。何故か、咽喉が振動しなかった。
す、と玲が路地の一部分を指差す。その先に、肉の塊があった。肉の塊には小さな骨
や内臓の類と思われる物体も混じっている。血液と思しき赤い液体が、そこかしこに跳
ねていた。既に原形を留めていないその肉塊は動物のものだ。絆那は視認しなかったが、
獣毛も一緒に散らばっていた。急激な嘔吐感に押され、絆那はその場で胃の中のものを
吐き出した。
ただの動物の死体ならば、吐くほどに気分を害することは無いだろう。絆那にとって、
玲の指したものは“ただの死骸”ではなかった。それが何を意味するのか、までは分か
らなかったが。
「盟も最初はゲロゲロやってた」
気にした様子も無く、玲は言った。声にはしみじみとした穏やかさも含まれる。吐瀉
の臭気でも彼の表情は動かない。
「トビモノってさ、生き物を食べ続けないと生きられないんだ。炎を燃やせば、その分
だけトビモノは腹を減らす。トビモノと一緒に戦うってことは、常に生き物を食べ続け
なくちゃいけないってことなんだ。生きたまま、ね。死体じゃダメだった」
最後だけ苦笑混じりだったが、淡々と言葉は続けられた。吐き続ける絆那は、玲の言
葉を正しく理解することができない。ただ、玲のテノール領域の声が、酷く不気味に感
じられた。構わず玲は絆那に近づく。その包帯の巻かれた手が触れた瞬間、絆那の身が
強張った。胃の中のものは全て吐き出したというのに、またもや嘔吐感が募る。雨に打
たれたように全身が汗でびっしょりだった。
肉を裂く感触、血の温度、それらが引き起こす高揚感、全てがリアルなイメージとし
て絆那に圧し掛かる。包帯の下の玲の手は、同じく皮膚を無くした無残な肉塊と化して
いるのではないか。包帯を解いた瞬間に腐ったように崩れるのではないか。そんな妄想
すら浮かんだ。気分は悪くなる一方だった。
「俺は食うために殺し続ける」
短い言葉が、重かった。
「それでも、絆那は一緒に戦うって言える? 言ってくれる?」
今の絆那には答えるどころか、えずくことしかできない。玲にしてみれば、話を聞い
ていたのかさえ怪しい状態だった。無理のないことだったので絆那を責めることはしな
かった。彼の問いの意図を、絆那は知るはずが無い。
大きな溜息とともに、玲は周囲の物の怪の探知を始める。敵と味方を放置したままの
状態は、彼にとって好ましくない。
「割と近い。たぶん七人ミサキの奴と一緒か」
気配を拾い上げた瞬間にコダマの気配は消えた。直ぐ消えた気配を怪訝に思うが、様
子を確かめる術はない。ちょうどその時に盟が戟に頭を掴まれたのだが、玲は知る由も
無かった。
「来れないようなら待ってていいよ。盟を助けてくるだけだから」
話を聞く余裕の無かったはずの絆那がぴくりと動いた。玲は、それを見ずに歩み始め
る。
とうに日は沈んでいた。炎が、暗がりに踊った。
:
ガラスの無い窓からの炎の襲撃に、骸たちは為す術も無く吹き飛ばされた。火傷と穴
は瞬時に埋められる。懐中電灯の光が消え、僅かな間、戟は無防備になる。飛び込んで
きたトビモノの体当たりが戟を見舞った。コミカルなほどの一連の動きで、戟は床に貼
り付けられる。至近距離にいた盟の方が冷や冷やしていたのは別の話だ。
炎という新たな光源が周囲を照らす。
「今度は負けない。お腹いっぱいだしね」
骸が立ち上がるのと玲が現れたのはほぼ同時のことだ。戟よりも味方の助けに度肝を
抜かれた盟が、はっとしたように怒鳴った。
「あ、あんた来るの遅いししかも怖いし! ていうか私ごと焼く気かっ!」
一気にまくしたてた盟に対し、玲はふふんと笑う。
「ほら、敵を焼くにはまず味方からって言うし」
「言わんわー!」
喚く盟を放って、群がる骸と戟に玲は向き直った。
「どう? 不意打ちは君の専売特許じゃないんだよ。どっちかと言うと俺も得意な方」
勝ち誇るような笑みに、戟は舌打ちをした。姿勢を固定されている盟だけは、威張る
ことじゃないと思い溜息を吐く。
死臭が室内に充満した。
異臭を焼き尽くすかのように、対するトビモノは焔を上げる。
「今度は油断しない。過信もしない。見失わない」
戦闘開始以降に、意思を挟む必要は無い。徹底した感情と敵の排除。師に賜った物の
怪憑きとしての気概を、玲は声に出して反芻した。
宣言どおりの冷徹な視線は、戟ばかりでなく味方であるはずの盟の背筋も凍らせた。
「お前を、殺す」