玲の後を追った絆那が駆けつけた時には、既に戦闘は終わっていた。トビモノが不満
げにを煙を吐くのを見止めた時、絆那は何が行われていたのかを理解した。おぼろげな
がらに聞いた玲の説明が鮮明なものになる。姿さえ知らぬ逃亡した敵が負った恐怖を思
うと、絆那は同情せざるを得なかった。
 ハガネが導く通りに手錠を断ち、戒めを解く。ただの手錠など刃の物の怪にとっては
豆腐のようなものだ。ノヅチを斬ったときの昂りがこみ上げてくることも無かった。斬
る相手がいないとハガネはやる気を出さないのだろう。玲や盟に見えないように絆那は
安堵する。
「ありがと」
 自由になった手首を擦りながら、盟はパイプ椅子から立ち上がる。からりと落ちた手
錠の残骸を、ひょいと持ち上げる。
「ホント焦った。あいつ、これ焼き切ろうとするから」
 聞いた絆那は苦笑するしかない。トビモノが火力を調整できるとはいえ、目の前で火
炎放射では気分のいいものではないだろう。手が火傷しないとも限らない。玲は実行で
きなかったことが残念だったらしく、拗ねたように頬を膨らませていた。当てつけのよ
うに包帯を巻いた両手を痛がる素振りまでしてみせる。
 盟の言う不満が途切れた後、玲が口を開いた。
「隊長さんが来たみたいだよ」
 ぴしり。急激に冷却されて凍結したかのように盟が固まった。絆那だけは何のことか
さっぱり分からない。気心の知れた仲間しか場にいないこともあって、疑問を隠そうと
もせず表情に出していた。
「たいちょーさん?」
「うちらのリーダーなんだけど、何ていうか」
 盟は視線を外しながらぽつぽつと言う。
「正直に言えばいいじゃん」
 玲がそこに口を挟んだ。絆那は短く頷くしかできない。そもそも自分の上司の人柄を
言いあぐね、あまつさえマイナス面を先に報せるとはどういうことか。隊長とやらに対
する疑問はさらに深いものに変わった。盟は困った様子のまま口を開こうとしない。
「あの人、指摘がキツいんだよね。実際その通りなんだけど」
「まあ、ムカつくのは正論だからだし」
 同じ立場であると言うのに、玲の方は笑顔を浮かべていたりする。その対比のせいで、
絆那は余計に混乱させられていた。そもそも一切の情報がない。絆那は盟が怯える相手
の名前さえ知らないのだ。
「その人って、どうやって玲たちに命令してるんだ?」
「どうやって、って普通に携帯とか」
「いやそうじゃなくて。例えば相手のスカウト邪魔するなら、スカウト相手を知らんと
いけない訳だろ? それをどうやって知ってるのかなと」
 絆那の問いに対する回答は二人の分からないの一言だった。何かしらの手段で百鬼夜
行の情報をリアルタイムに得ているのだろう、と玲は短く付け加える。満足は得られな
かったが、納得はした。物の怪という人知を超えた力を持っているのだから、裏に何が
あろうが驚く気も起きない。
 絆那と玲の会話の間、盟は服を払っていた。鬼ごっこの一件では汚さぬよう気をつけ
ていたサックスカラーのハイネックのフリースだったが、七人ミサキとの戦いや拉致に
よって見事なまでに砂に塗れてしまっている。せめてアンダーウェアの黒いTシャツと
色が逆だったらよかったのに、と思う。
 帰ろうと促したい絆那であったが、二人に動く気配は無かった。
 そのまま二分ほど経過した後のことである。白い光が駆けた。前振りの無い突然のこ
とに絆那は目を瞑る。直後に目を開いた時、そこには人影が一つ増えていた。均整のと
れた長身の体躯に短く刈り込んだ髪、デニムの上下に身を包んだ風体そのものは印象的
とは言い難いが、絆那は気圧されるような錯覚を覚える。物の怪憑きとしての経験が浅
い彼でさえ、柊葵との歴然とした実力差を感じ取っていた。
「たいちょー、おつかれー」
 玲は笑いながら包帯の巻かれた手を振る。葵はデコピンを無言で玲に見舞った。
「痛っ、俺怪我人だよ?」
「怪我をしたなら大人しくしていろ。いや、まず怪我をするな」
「酷ー。たいちょー、鬼ー」
 ぶーぶーと文句を垂れるその顔面に、第二撃が見舞われた。
 感情をストレートに表している玲とは対照的に、盟の方は引きつった表情を浮かべて
いた。敵に捕えられたことを、歯に衣着せぬ物言いであるという彼に知られたくないの
であろう。現れた男の方から声がかかるまでは余計なことを口に出すまい、と絆那は決
めた。
「ハガネ憑きを味方に付けたんだな」
 抑揚の無い、平坦な声だった。葵はちらりと絆那に視線をやる。やましいことは無い
はずである絆那だったが、思わず背筋を伸ばした。心持としては、初対面の相手に刃物
を向けられたようなものだ。葵は絆那の緊張を意に介さず、玲の方を向いた。
「いったいどこから話を聞きつけて来るんだか。耳が早いというか」
 両手でオーバーなアクションをつけながら、玲が呆れたような息を吐く。玲も盟も、
絆那については連絡をした覚えはなかった。正体不明の情報ラインは味方さえも調べ上
げてしまうようだ。プライベートさえも知られているのではと思い、絆那は盟に視線を
送った。
「諦めるしかないよ。そういうものだって思うしかない」
 盟は小声で絆那に返す。引きつった声には諦めが多分に含まれていた。
「お前が奴らにスカウト受けたのもな」
「ありゃ、ホントに耳が早い。まだ誰にも言ってないのに」
 置いていかれた感があった絆那だが、思わぬ言葉に我に帰る。
「ちょっ、スカウトってどういうことだ?」
 割って入る絆那に、葵は表情を動かさない。ただ一瞥をくれてやるだけだ。説明する
つもりのなかった玲は観念したように昼間の出来事を話す。
 玲の言葉に反応したのは絆那ではなく盟の方だった。哲司の言っていた別件が玲のこ
とだったと知り、兄に対する嫌悪感を募らせる。付き合いの長い友人に裏切りを持ちか
けることは、彼女にとって許しがたいものだ。右の手で掴んだフリースの左腕に、指が
思い切り沈んだ。
「話を戻すぞ。桐生絆那」
 名乗った覚えなど無いのに名を言い当てられたことで、絆那は混乱するはめになった。
葵との対面はただでさえ心臓に悪い。助け舟を求めて視線を友にやれば、盟は不動であ
り、玲の方はわざと目を逸らした。慣れるしかないらしい居心地の悪さに、絆那は調理
前の食材の気分を垣間見た。
「おまえは戦う気はあるんだな?」
「え、あ、ああ、はい」
 短い返事にすら閊えながら、絆那は消え入りそうな声を発した。傍から見ている玲に
は二人の様子はトラとリスくらいの差を思わせる。吹き出しそうになったが、後で双方
からいい顔をされないであろうことを分かっていたので必死に堪えた。
「次からは三人一組で働け。駒は多いほうがいい」
「はーい、りょーかい」
 混乱する絆那と固まっていた盟は返事をせず、玲だけが呑気な声を上げる。駒と呼ば
れたことに不快感はあったが、言い返すことはなかった。
 無様な戦果を知られていた盟が葵のキツい指摘を受けるのは、その後のことだ。

 :

「で、しばらく葵さんはこっちにいるんですか?」
 話が一段落した後、恐る恐るといった具合に玲が問う。盟も聞きたいところであった
が、お説教の後では聞くに聞けない。こっそりと肩を下ろして嘆息したことは、場の誰
も目撃することは無かった。
「ああ。敵の捕獲にも成功したからな。色々聞きたいと思ってる」
「捕獲?」
 声に出してから、玲は眉をひそめた。時間が早すぎることから、逃亡した戟であるは
ずがない。葵の来訪を知ったのと河童の気配が消えたのがほぼ同じであったことを玲は
思い出す。
「ひょっとして、哲司さんの気配が消えたのって」
「ああ。今は連れて来たもう一人が見ている」
 絆那が気絶の後のことを理解したのと同時に、盟は表情を固くした。神出鬼没な兄が、
今は仲間の手の内にある。
「会えます? 今、兄さんに」
「無理だな。そもそも会わせる気は無い」
 即座に切り捨てる葵に、盟は言葉を失った。会うくらい別にいいではないか、と絆那
は思うが、咽喉に出かかった音を呑み込む。哲司の河童が危険であることは色濃く彼に
刻み込まれていた。盟に対して同じ対応が為されることは無いであろうが、冬樹兄妹の
事情を知らない絆那に断言はできなかった。
「隊長、質問いい?」
 葵は玲に視線をやるだけだった。返答がどうであろうと質問を飛ばす玲の性格を、彼
は理解していた。
「一通り話が済んだら哲司さんをどうする気?」
「説得はしてみるつもりだ。奴は強い」
「駄目だったら?」
 淡々とした受け答えは長くは続かなかった。答えの先を分かっているつもりであった
が、盟は何故か耳を覆いたくなる。冷たい葵の表情は、盟からの角度からすると静かな
怒りをたたえているようにも見えた。指を沈ませたフリースの袖には、更に圧力が込め
られている。
 盟の様子が変わっていることに気付き、絆那は歩み寄って肩を叩く。盟はそこでよう
やく肩の力を抜いた。
「大丈夫。ありがと」
 絆那にだけ届くほどの小声で盟が言葉を発する。笑顔での返答ではあったが、顔の血
色は驚くほどに引いていた。声も弱々しく力がない。地気恥ずかしさその他諸々の感情
が渦巻いて迷ったが、絆那はそのまま肩を抱く。盟の抵抗は無かった。
「分かっていることを聞くな。敵にしか為り得ないなら倒すだけだ」
 表現が若干柔らかかったのは、彼なりの気遣いだろうか。

 :

 ベッドとテレビが一つずつ置かれただけの簡素なホテルの一室に哲司はいた。スプリ
ングの硬いベッドは横たわっていて不快ではあったが、縛り付けられているので動くに
動けない。せめてテレビをつけていてくれたなら、まだ退屈を凌げそうなものだった。
 乳白色の壁を見、鉛色の息が零れた。壁にかけられたレザーのコートには、ものの見
事に焦げ穴が開いている。自分の身体に穴が開いているのかと冷やりとしたが、身体の
あちこちに力を込めてみて無事を確認した。河童が憑いたことによる治癒力に、今更な
がら驚いた。コートの下に着込んでいたものは脱がされなかったらしい。穴の開いた冬
物の紺のセーターは防寒具としての機能を忘れ、腹を露わにしてしまっていた。コート
と揃いのレザーのパンツが無事であったことはせめてもの救いだろうか。
「逃げようとはしないの?」
 声とともにがちゃりと音を立ててドアが開かれる。現れたのは二十代前半と思しき女
性だ。白のパンツスーツと綺麗に結わえた髪が、清潔感を前面に押し出したような印象
を与える。自分の格好とは逆方向の人間の風体を見、哲司は苦笑するしかない。生真面
目そうな顔立ちは、奈留を連想させるものだった。同時に気ばかりの身構えを解く。気
配を察知することは叶わないが、監視をしているということは手練であるということだ。
逃亡は難しいことを悟り、哲司は全身の力を抜いた。
「こんな格好で外に出る気は起きないからな」
 ちら、と下の方へと視線をやる。首まで固定されているせいで、空気にじかに触れて
いる腹部を視界に収めることはできなかった。
「そう。大人しくしててくれればこっちも助かるわ」
 哲司の想定外だった柔和な態度には、敵意は点っていなかった。感じる不気味さを押
し殺しながら、可能な限り考えを巡らせる。血の巡りが悪い。口の中が粘つく。前に出
される不快感を押し殺すのにさえ一苦労だ。
 現れた女性がなんらかの物の怪に憑かれていることは間違いない。その能力が全く分
からない。哲司の意識の覚醒を瞬時に察知したことからすれば、探索に向いた物の怪だ
ろうか。戦闘向けでないのならば、逃げることは可能だろう。廊下に人の気配は無い。
短い吸気で肺を酸素で満たす。河童が内側で仕切りを待つ。
「ヤマビコ」
 不気味な聴覚の刺激の直後、鳩尾に鉄の塊を落とされたような衝撃に襲われた。飛び
かけた意識を繋ぎ止め、哲司は衝撃の先を睨みつける。そこには八本の触手を生やした
銀色の面がふわふわと浮いていた。嘴のついた面はつるりと他に何も無く、表情という
ものが無い。
「逃がさない」
「ヤマビコ、ってお前、嘘、つくなよ……ッ」
 柔らかな割に冷静な言葉に対し、息も絶え絶えに哲司は悪態をついた。哲司も百鬼夜
行に身を置く上で、いくつかの物の怪の知識を持っている。当然のことながらヤマビコ
憑きについての知識もあった。ヤマビコは音を拾い上げて再現する力をもつ物の怪であ
る。強烈なボディーブローを叩き込むような能力を持たないはずだ。
「驚くことじゃないでしょう。あなたの妹だって攻撃の力は持たない訳だし」
 言うとおりだ、と哲司は笑みを浮かべる。音が振動であるということを利用した打撃
には不意を突かれたが、種を理解すれば納得せざるを得ない。
 わわわわわわわわわわわゎゎゎゎゎゎ。ヤマビコの鳴き声が耳を突いた。時折マイク
のハウリング音のように不自然に声が裏返る。不快に思った哲司は顔をしかめて表情で
抗議した。
「とりあえずあなたの身柄はしばらく預らせてもらう」
「無理、だろうね。うん、無理だ。無理に違いない。無理に決めた」
「何」
 女性の反応とほぼ同時の崩壊音。
 乳白色の壁が瓦解し、太い幹のような節足が姿を現す。
「信じてたよーん、奈ー留ちゃーん」
「何をしてるんだお前は」
 呆れるような声とともに、土蜘蛛を携えた奈留が場に躍り出る。
 ヤマビコが宿主である早瀬陽樹はやせようじゅの腕に止まる。
「二人相手、か」
 陽樹は表情を崩さずに声を発する。土蜘蛛の動きを封じながら哲司を牽制し続けるこ
とは不可能だ。
 ヤマビコは触手を広げた。瞬時に触手があらゆる音を拾い上げる。葵と玲たちの話は
未だ続いていた。救援は望めそうにない。陽樹は諦めたように眼を伏せた。触手が壁の
あった虚空へと伸び、宿主を大空へと躍らせる。
 五階の高さから、一人分のシルエットが舞った。
 安ホテルとはいえ、金を払わず破壊までして逃げるというのが気がかりだった。


<第二章 トビモノ 了>