ヤドリギ

第三章 ハウリング


 いわゆる秘密組織である百鬼夜行にはいくつかの隠れ家が存在する。絶対数の少ない
物の怪憑きに効率よく接触し、仲間に引き込むためだ。冬樹哲司の現在の住まいはその
隠れ家の中のひとつだった。古家を連想させる巨大な規模のそれは、むしろ屋敷という
呼び名の方が近い。
 町の中心から少し離れた場所に位置する屋敷には謎が多かった。近隣の人間がその家
の住人を見たことは無い。だというのに、その屋敷は廃れることもなく、また塀の内の
庭園も管理されている様相を保っている。不気味な屋敷には数々の噂があった。病気の
主が引き篭もっているのだというもの。どこぞの金持ちの別荘なのだとかいうもの。果
ては祟られたオバケ屋敷なのだというものまであった。呪われた住人が外に出ることも
叶わず敷地内で永遠に生き続けている、というものだ。
 そのオバケ屋敷の八畳ほどの客室が彼の領域である。本来ならばもっと大きな部屋も
望めたが、無駄にスペースを作る必要もないと断った。和風の部屋に似つかわしくない
新調したレザーのコートに袖を通し、長い髪をかき上げる。玲の襲撃から逃げ帰った戟
は未だ痛みにうなされる日々であるが、彼の傷は完治していた。物の怪憑きの再生力は
個々の物の怪に依存する。肉弾戦を得意とする河童の再生力は他の物の怪よりも大きく
優れていた。腕をぐるぐると回し、不調がないことを確かめる。
 鴬張りの廊下に出ると、やや近視がちな眼はぼやけた姿を捉える。見慣れない姿なの
は戟の代わりの人材だからだろう。挨拶の一つでもしようか、と哲司はのそのそと近付
いて行く。
「もう少し、季節感というものを考えたらどうかね」
 先に声をかけたのは相手だった。哲司が捉えたのは三十後半の小男が顔をしかめてい
る様子だ。本人自慢のきっちりとしたミラノ仕立てのスーツに身を包み、最近少し寂し
くなってきた頭を少し撫ぜていた。
 哲司は表に出さずに気を重くした。まずいのに出会った、と嘆息したいのが正直な所
であったが、そうすれば小言が飛んでくるのは目に見えている。季節が初夏に差しかか
ろうとしている中、見るだけでも暑苦しい冬物のコートは精神衛生の上で決して良いと
は言えない。当の哲司もそれを解っているが、季節に合わせた服装を纏うつもりは毛頭
無かった。
「仕方ないじゃないっすか。俺の場合はこうなんだと諦めてくださいよ。なんだったら
昼間は引き篭もって夜だけ働きますよ?」
 年齢だけは目上の人間の大っぴらな嫌悪感を、哲司は愛想笑いで受け流す。若い身で
ありながら高い地位をもつ黒コートの男に対して、市井隆いちいりゅうは良い感情を持っていなかっ
た。
 戦闘力で劣るだけならまだしも、年中レザーを着ている哲司のファッションセンスが
余計に彼の嫌悪感を煽っている。フィレンツェだったらゲイと思われるぞ、と説教を幾
度となく試みたが、舟を漕がせるに終わってしまった。もしや力ない自分を嘲笑ってい
るのではないか。そういった被害妄想じみた弱気な空想が尚更に嫌悪感を募らせる。焦
りから態度は辛辣なものと化し、二人は互いに苦手とする状態となっていた。
「で、市井さん、俺らは何をすればいいんでしょ?」
「む?」
 感情を廃し、哲司は仕事の話に移ることにした。相手の感情はさておき、哲司本人は
隆の能力を決して悪いものとは思っていない。
「ハガネもトビモノも駄目。じゃ別にスカウトの必要はないんじゃ」
 二件もの勧誘を駄目にした一因だというのに、哲司には悪びれた様子は無い。隆は拳
の握りをやや深くする。感情を表に出さぬよう、大きく息を吸い込んだ。
「柊葵が目撃されたとなれば、事態はまた別物なのだよ」
 もったいぶった物言いだったが、哲司には大方のことは飲み込めた。首魁自らが直接
構成員に接触したということは、敵には何かしらの行動があるはずだ。隆の派遣はそれ
を考えに入れた上での戦力の投入ということなのだろう。仕事を終えたはずの奈留も未
だ屋敷に留まっていた。戟を含めれば四人もの物の怪憑きを一箇所に置くことになるが、
葵と戦った哲司には十分に納得のできる話だ。
 対する隆の方は、頭の中でこの場の会話の算段を幾通りも考えていた。新たに派遣さ
れたという関係上、この場の会話の流れ次第で自分が四人もの物の怪憑きを率いるとい
う図式を成立させることができる。それも自分が良く思っていない相手を自分の下にお
いてだ。それを思えば嫌が応にも隆は昂らざるを得ない。にやつきを必死で抑え、咳払
いを一つした。
「そういう訳で、君には」
「ああっと、やっぱりストップ」
 哲司は隆の言葉を遮る。
「奴らの中にヤマビコがいた。そういう話はなるべくメールか筆談でしましょうか」
 言って、哲司はニヤリと笑う。対する隆は苦々しく重い息を吐いた。
 抜け毛の原因がまた一つ増えそうだった。

 :

 日が落ち、視界のすべてに橙のフィルターがかかる頃、寄宿舎近くにふらふらと彷徨
う影が一つあった。着込んだ安物のトレーニングウェアは土に汚れきり、所々破れてさ
えしてしまっている。足取りは帰る場所である寄宿舎の方に向かっていたが、入り口の
方向を逸れていく。裏手にある溝川のほうへとそれは向かっていた。
 桐生絆那は憔悴していた。
 百鬼夜行との対立を決めたが、自身に憑いた物の怪に頼った戦い方だけでは間に合わ
ない。そのため教育という名のついた愉快なお勉強会が繰り広げられることになった。
勉強会のはずなのに何故かボロボロになる辺りが何とも愉快、とは玲の弁である。現在
の絆那にとっては学校の時間さえも体力の回復に充てられる時間だ。
 ハガネの物の怪には他の物の怪のような身体がない。よって絆那が強くなるには自身
を鍛えあげる以外の方法は無い。絆那には物の怪と対等に渡り合える実力を身に付ける
義務がある。特訓を始めて十数日。痛みに対する抵抗はだいぶ弱くなったが、ほぼ毎日
訪れる嘔吐感には未だに慣れそうにない。日が落ちるまで身体を苛め抜かれるのが今の
日常だ。昼間の時間が日に日に長くなっていく時期であることが恨めしい。気温の上昇
も更に加わるだろう。この先、現在以上の苦しみを味わうのかと思うと絆那の心持ちは
暗くなる一方だ。
「おつかれ」
 今や日課の溝川との対面の時間を終えた絆那に声をかけたのは盟だった。何かを包ん
だライトグリーンのタオルを片手に、つかつかと距離を狭める。新調したばかりの紺の
ブレザーが汗と泥まみれのトレーニングウェアに並んだ。汗まみれの臭いを感じ取った
が、盟は不快には思わない。彼女はコダマでもっと酷い臭いの記憶さえ嗅ぎ取ったこと
もある。
「あぁ」
 絆那は消え入りそうな言葉にならない声を返事とする。吐くところを見られたかもし
れない、と気にする気力さえ起こらなかった。盟はタオルに包んでいたペットボトルを
差し出す。烏龍茶のラベルが付いていたが、中身は透明だった。
「口、濯ぎなさいな」
 出されたボトルを取り、絆那はそれを逆にして水を口に含む。直後、咽喉が大きく何
度も動いた。口内と咽喉の不快感はあったが、水分摂取の欲求が大きく勝っていた。予
想のできていたことだったが、盟は苦笑するしかない。ペットボトルの中身はものの数
秒で空気だけになった。
「無様なおにーちゃんの姿は風音には見せらんないね」
「努力してる姿こそが美しいんだ」
 盟の言葉に対し、絆那は小さくぼそりと返す。冗談に対して言い返すだけの気力があ
ることに盟は驚いた。風音が絡むと途端に反応が良くなる。知っていたはずの弄り材料
を再発見し、盟は絆那に知られぬよういたずらっぽい表情を浮かべる。
 絆那の指導は葵が自ら行っていた。友人として情のある二人よりも効率的だというの
がその最たる理由だ。それに加えコダマ憑きの盟には持久力がなく、玲にはトビモノの
空腹という足枷がある。人員に余裕のない葵の一派はボスが出張らねばならなかった。
「やっぱり、けっこう辛い?」
 盟は空になったボトルを絆那の手から取り、それを見ながらぽつりと言う。葵の教育
が始まった頃は水を飲む余裕すら無かった。体力的な成長を感じ、絆那は表に出さず悦
に浸る。もしくは、ただの慣れだろうか。そんな考えが浮かんだ瞬間、打ち消すように
声に出した。
「いや」
「へえ、余裕なんだ。もっと厳しくしてもらう?」
 絆那は空のボトルを奪い返し、こつんと盟の頭を叩く。
「けっこうじゃなくて、めちゃくちゃ辛いんだ」
 余計なことは言わないでくれ、と言わんばかりの絆那の真剣な表情に、盟は思わず噴
出した。
「はいはい、口周りと汗拭きな」
「ん、さんきゅ」
 タオルを取り、絆那はそれに顔を押し付けた。洗い立てであるらしいタオルの柔らか
さは、疲れた心身を丸くさせた。知らない洗剤の匂いだったが、違和感は無い。むしろ
心地よくさえ感じる。清涼感で心置きなく肺を満たした。
 盟が洗ったのだろうか、と顔を埋めながら疑問を浮かべる。睡眠時間を削ってまで盟
が他の家事をする姿は想像し難い。洗濯機の前で目を擦る姿が浮かぶ。もしかしたら洗
濯機にもたれかかって寝ているのかもしれない。そう考えると、微笑ましさを通り越し
て滑稽の領域だった。
「いいんだよ、やめても」
 盟はか細い声をぽつりと出す。タオルの感触に全神経を集中していた絆那は、間の抜
けた声をあげた。聞こえていなかったことに安堵し、盟は唇の端を少し上げる。照れ隠
しついでに、隣のトレーニングウェアの汚れの少ない濃紺の生地の部分を突いた。そこ
は脇腹だった。急に敏感な部位を襲撃され、絆那は奇声を上げて悶える。とりあえず、
まだ元気ではあるようだ。傍らの幼馴染の様子を見、盟はそう思うことにした。
 反撃しようとした絆那がよろけるのを見、すぐに判断を撤回した。

 :

 松葉杖にもたれながら、馬苗戟はよろよろと廊下の板を踏みしめていた。
 照明の無い廊下は暗く長い。鴬張りの足音は自身の軋みのようにも思えた。誰にも聞
こえないと分かっていながら、音を潜めて戟は舌を打つ。
 取り付いた骸ごと捕食するトビモノによって、七つに分かたれた手足は既に残り三つ
にまで減少していた。不死身に近い再生力を誇る七人ミサキであったが、その不死が崩
された時の耐久性は逆に極端に低い。戟へのフィードバックも厳しいものだ。ほぼ半身
が麻痺しているかと思えば、思い出したように皮膚を剥がれるような激痛を訴える。麻
痺も痛みも全く改善される様子は無い。排泄も満足に出来ずに寝床や部屋を酷く汚した
のは一度や二度に留まらない。喰われた故に再生力が失われているのではないか、と思
うと無性に怖くなり、同時に腹が立った。回復を待つだけの身は彼に不安と不快を与え
続ける。安静にしていることもできず、習慣のように戟は屋敷の中をうろうろと歩き回
るようになっていた。昼に比べると、夜の空気は暗く冷たい。その冷たさを感じられる
ことが一種の安堵であると同時に、恐怖でもあった。
 新たに何者か物の怪憑きが派遣されたらしいということは既に聞いている。それが意
味する所を、彼は理解していた。このまま回復の見所が無ければ、師の期待を裏切るど
ころの話ではない。現在は雇われの人間が世話に当たってくれているが、切り捨てられ
ればそれも無くなるだろう。自分の糞便に塗れ衰弱していく姿を想像すると、感覚のな
い身に薄ら寒いものが走った。
 怖いと感じることはほかにもあった。敬愛する師である哲司は、彼の敗北の件に関し
て何も口を出していない。失望されたのではないか、といやでも頭は悪い方へと傾いて
いく。
「畜生がッ」
 掻き毟られるほどに不快な気分の中、毒づいた言葉だけが吐き出される。鬱憤を外に
排出してしまいたかったが、身体が言うことを聞かなかった。杖が床を滑る。倒れると
自覚はしていたが、手を付くことさえできなかった。冷たく硬い床の感触を想像し、戟
は目蓋を堅く閉じる。
 衝撃は無かった。麻痺のために痛みや衝撃さえも解らなくなったのかと思った。他の
生きている感覚が床の固さを脳に伝えない。
「怪我人はウロウロするものじゃない」
 落ち着いた声が戟の耳に届く。細い腕一本に支えられていたのだと理解したのは、闇
に慣れた目を開いて奈留の顔を視認してからのことだった。
 ショートカット好きを公言する戟であるが、立場が上の奈留に対してもそれは例外で
はない。表情が乏しいきらいはあるが、整った顔立ちを下手に崩すよりはマシだと彼は
考えていた。その容姿に加え、百鬼夜行随一とも言われている土蜘蛛の力もある。奈留
は戟にとっての憧れそのものだった。
 戟の表情は隠し切れない痛みのために苦々しさを浮かべたままだ。奈留は気にした風
でもなく戟を立たせ、倒れた杖を持たせてやる。憧れの象徴からの気遣いは、戟を内心
感激させた。
 そのために、戟は奈留の気だるげな様子に気付くことはなかった。
「部屋で寝ていろ。治ったら、お前にも仕事がある」
「は、い」
 短い返事も時間をかけねば発声できなかったが、答えることは出来た。ボロボロにさ
れた自信が、ほんの少しだけ戻ってきたような気がした。奈留は気休めを言うような性
格ではないと記憶している。つまり、まだ戟にも役目があるということだ。身体は痺れ
を抱えたままだったが、血液が巡っていくような感覚を感じ取っていた。
 今日は言う通りに大人しく眠れそうだ。見る夢は、さしずめトビモノ憑きを引き裂く
夢だろうか。
 その場で大人しくなってしまった戟を運ぶのは奈留の役目になった。