数日振りの休日は絆那にとって天よりの恵みだった。強い決心で始めたはずの葵の教
育だったが、今や見事に打ち砕かれてしまっていた。ハガネで強化された肉体は倒れる
ことを許してもくれない。気ばかり滅入っていく毎日が一時だけでも途切れることは、
絆那にとって大歓迎の事態だ。
 特に趣味がある訳でもない絆那は、愛しの妹ともに百円ショップへと赴いていた。久
久の風音との外出によって、枯れ果てた心身が潤っていくように感じる。以前ならば習
慣のように雑貨や食料品などの買い物に同行していた。菓子類の詰まったビニール袋の
僅かな重みに懐かしささえ抱く。
「お兄ちゃん、こっちー」
 筆記用品のコーナーの前で先を歩いていた風音が振り返る。長い髪とともに、服の襟
元のピンクのコサージュが絆那の目に止まった。風音の全てを把握しているつもりでは
ないが、少なくともそれは絆那の記憶には無いものだ。
「それ、どうしたんだ?」
 見た目の割に軽いビニール袋を持ちながら、人差し指の先をコサージュに向ける。
 言われた風音は、誤魔化すように小さく笑った。

 :

 広い敷地を持つ屋敷には、石の配置に細かく気を配られた枯山水の庭園があった。よ
く管理された庭は歴史を持たない割に古都の寺院を想起させる。見る人間によっては深
い感慨を抱くであろうそれも、牟田奈留の心には何も与えない。彼女は庭園が首領の道
楽で造られたものだと知っているためだ。屋敷の縁側に腰掛け、彼女は一人佇む。視線
は庭を向いてはいたが、見据えるものは何も無い。
 柊葵の一派の動向を探るのが奈留の第一の役目だった。限定される条件はあるが、土
蜘蛛憑きの探知能力は玲のそれに匹敵する。屋敷の庭に自身の物の怪を潜らせ、土蜘蛛
を通して収拾できる全ての情報に集中する。更に黒い瞳を伏せ、肉体の方の感覚を可能
な限り遮断する。
 蜘蛛の触覚に全てを委ねる。さながら、巣に罹る餌を待つように。
 コダマ憑きとハガネ憑きの気配は直ぐに拾うことができた。奈留の二人が行動を供に
しているという予想は外れていた。各個撃破を狙うのならば現状は狙い目だ。ふと、奈
留は眉をひそめた。葵の気配はおろか、玲や陽樹と思しき気配を奈留は全く拾うことが
できない。ここのところ毎日ずっと同じ様子だ。
 奈留は罠を疑った。玲の探知能力は広く鋭い。下手に手を出せば敵の戦力を集中させ
てしまうことだろう。土蜘蛛の力を疑うつもりは無いが、葵の正体不明の物の怪は哲司
の河童を討ち取っている。トビモノの火力も無視することはできない。勝算の低い戦い
は彼女の望む所ではなかった。
 ふと、玲との僅かな遣り取りを奈留は思い出す。捨て身の攻撃とはいえ、トビモノの
炎は土蜘蛛が硬化した肌を焼いた。防御に優れた土蜘蛛でなかったなら、火傷どころか
掴んだ手が液化してしまっていた。トビモノ自身も炎に強いのであろうが、先の戦いで
はその身を焼くほどの炎を発していた。一緒に燃えてもらう、と躊躇無く言い放った玲
の姿は戦慄を奈留に与える。
「牟田君、首尾はどうかね」
 不意に肩に手を乗せられ、集中が途切れる。土蜘蛛は奈留にだけ分かるように低く呻
いた。
「現状だけ、説明させていただきます」
 背後の隆に振り向きもせず、短く奈留は言った。奈留の声はトーンがやや低い。表情
の少ないアルトの声は、平坦になると急に不機嫌であるかのような印象を与える。何気
なく声をかけただけだった隆もその例に漏れなかった。奈留の肩に置いた手を返事の直
後に引っ込める。
 奈留はヤマビコの危険は無いと判断した。索敵の報告を聞き、隆は頬と眼を吊り上げ
る。敵がそれぞれ分断されているのであれば、それを叩かない道理は無い。間を置かず
彼はそう訴えた。楽天的な考えに、奈留はわずかに嘆息したい気分になる。
「トビモノ憑きとヤマビコ憑きが相手にいることをお忘れですか」
「む、ああ、覚えている。だが仮に見つかったとしても、冬樹の河童と君の土蜘蛛がそ
の程度の物の怪なんぞに後れを取るのかね?」
「確実に勝てるとは言えません」
 奈留は自分の判断を正直に口にした。葵の一派は物の怪の持つ能力を最大限に生かし
て攻撃に転じてくる。本来は記憶を読むだけのコダマや、音を再現するだけのヤマビコ
がその際たる例だ。敵の攻撃に対してある程度の想定はできるが、確実な状態は有り得
ない。
「ふん、随分と弱気なものだな」
 隆からの返事は鼻で笑いながらのものだった。反論をしようかとも思ったが、声は出
なかった。隆の言い分に頷く所もあったためだ。弱気は敵に恐れを感じている証拠だと
奈留は考える。指の熱を確かめるように、ゆっくりと拳を握った。再生したばかりの皮
膚が疼いたような錯覚が意識を揺らす。
「わかりました。そこまで仰るのなら」
 数泊置いて、奈留は力強く言い放った。地中の土蜘蛛も主の好戦的な返答に歓喜の声
を上げる。
 土蜘蛛憑きに恐怖は許されない。

 :

 かの鬼ごっこ現場である雑木林にて、冬樹盟は一人佇む。春物の赤いハーフコートが
木屑で汚れるのを気にするでもなく、背を樹に押し付け寄りかかっていた。佇んでいる
のは待ちぼうけているためだ。待ち人の到着を早く掴めるよう、聴覚に神経を集中させ
ていた。そこで服が樹に擦れる音を拾う。自分の無頓着振りを初めて自覚した。運が悪
ければハーフコートはしっかりと汚れてしまっていることだろう。思わず誰に対してで
もなく苦笑いを浮かべてみる。それができる内ならば、まだ服装に気を付けていられる
と思ったからだ。
 来訪者の足音を聞き取り、盟はさっと表情を変えた。少女の顔を裏返し、物の怪憑き
の戦士としての仮面とする。
「律儀だねえ、先に来てるなんてさ」
 いつもと変わらない黒いコートを纏い、待ち人は笑顔で現れた。待ち合わせは十五分
前には到着しておくことを信条とする盟は無言をその返事とする。
「それとも、愛しのお兄ちゃんに会うのが待ちきれなかったのか?」
 ふざけるな。死ね。盟は仮面の下で毒づいた。
 盟の電話に哲司からの連絡が入ったのは、夜中、日付が変わる頃だった。寝ることを
三度の飯より好む盟がすぐに気付くはずも無い。彼女が哲司からの誘いに応じたのは、
そういったところの義理も含まれている。妙な所で律儀な性格は、自覚している故にこ
の先治りそうにない代物だった。
「で、急に呼び出した訳は何?」
 哲司のふざけた台詞が一段落したところで盟は切り出す。会話の主導権を握っておか
ないと、話がどんな方向へ飛んでいくのか分かったものではない。
「ノリが悪いぞ、盟」
「兄さんと漫談をしに来たつもりは無いんだけど」
 釘を刺された哲司は急に笑みを消した。互いに性格を掴んでいるだけに切り替えが早
い。対する盟も哲司の態度の変化には反応を示さなかった。下手に言葉を加えれば会話
の時間が無駄に長引くことは目に見えている。切り出そうとする哲司より、盟が口を開
く方が先だった。
「そっちに罠のつもりはないみたいね」
 やや肩の力を抜き、盟は警戒の色を薄くした。そう言いながらも既に背後の樹に仕込
んでいたコダマを消すことはしない。直接攻撃を得意とする河童は盟の苦手とする相手
だが、戦闘が起こった場合にむざむざ負けてやるつもりも無かった。
「お前も、玲君でも連れて来てるのかと思ってたぞ」
 互いに物の怪を感知する能力は不得手な所だが、自分の周りを一切掴めないほど鈍い
感覚でもない。短い透明の触手を懸命に伸ばした結果、周囲に認められたのは互いの存
在だけだ。逃げる手段は両者とも考えていたが、互いに性格を知り尽くしている二人は
それを使う可能性が低いことも分かっている。
「戦うつもりは無いよ」
「何回そういう嘘ついたんだか」
「いや今回マジ。これホント。お兄ちゃん嘘つかない」
「これまで散々嘘ついてて信用できるわけ無いでしょ。ていうか、その前に何でカタコ
トなの」
 盟のテンションの低いツッコミに哲司の方が溜息をこぼした。全く進展しない会話は
慣れっこであるので、盟の態度に変化はない。
「まあ、いくつか訊きたいことがあるんだけどな」
「柊さんのこと? 絆那? それとも玲?」
 思いつく限りの名前を挙げ、盟は睨めつけるように哲司を凝視する。哲司は笑みを浮
かべて視線を受け流した。
「その中で一番近いのは柊葵のことだな。いや玲君か」
 頭を軽く掻きながら、哲司はぼそりと発言する。盟が答えるはずのないことは彼は百
も承知のことだ。どう切り出したものか、と普段使わない脳をフル回転させる。うまい
言葉は当然見つからなかった。
 盟はゆっくりと背後のコダマを仕舞い込む。哲司の態度から、戦闘の可能性は殆ど無
いないものだと盟は察した。物の怪の力を使っている状態は、盟に多大な負担を与え続
ける。余計な力を使いたくは無かった。
「別に居場所を聞こうとかって訳じゃないさ」
 哲司が一歩踏み出す、その直後のことだった。
 影が躍り、二人の間を駆け抜ける。赤い毛並みをもった姿は犬のそれに酷似していた。
額にあたる部分に人間の目の形をした眼を持ち、大型犬よりも二回りほども大きく、剣
のような牙が除いていたことを除けば。奇妙な姿であったが、物の怪だと二人は同時に
理解する。
 犬が苦手な盟は一瞬だけたじろぐ。直ぐに硬直した身に喝をいれ、震える咽喉に唾液
を通す。
「兄さん、やっぱりッ!」
 叫びと供に仕舞い込んだコダマが飛び出し、構えた盟の右手に飛び乗る。
「知らん、俺じゃない」
 静かに言いながらも河童がその姿を現した。盟からすればその行動は答えに相違ない。
 翠の弾丸と化したコダマが赤い獣に突進する。現れた河童は動くことはなかった。赤
い獣の一挙手一投足を逃すまいと両手をついて構える。高く破裂する音が鳴り響く。コ
ダマが弾かれた。獣が盟に向き直った直後、河童が張り手を叩き込む。次の打撃音は低
く重いものだった。獣が低い悲鳴とともに吹っ飛ぶ。腕を伸ばした河童の姿が盟の視界
に入る。
「何の、つもり?」
 左肩を押さえ、荒い呼吸を交えながら盟は哲司に言い放つ。闖入した物の怪への河童
の攻撃は盟にとって不可解なことだった。
「身の潔白の証明、だな」
 つかつかと哲司は歩みを再開した。盟は身構えるが、すぐに無駄なことだと緊張を解
く。具現化されたままの河童は哲司の後ろで待機したまま動かない。河童と距離をとる
のであれば、自ずとコダマの攻撃を避けることは困難になる。盟は戦闘をするつもりは
ないという言葉を信じてみることにした。
「何なの、あの物の怪は」
「俺に訊くな。知らんっつーのに」
 声の調子は鋭いままの盟に対し、哲司は沈んだ声色で答える。さらに疑われて心底悲
しい、とアピールするかのように表情を歪めた。盟からの返答を待たず、哲司はさらに
盟との距離を縮めた。
「で、話を戻すけど」
 ぐるるるるるるるるるるるるるるるる。哲司の背後で唸り声が響いた。と哲司は舌打
ちとともに振り返った。待機していた河童が哲司の下へと動き、赤い獣への迎撃体勢を
とる。
「邪魔をするな」
 声とともに踏み込みのない一撃が飛ぶ。速度を重視した攻撃は威力こそ小さいものの、
相手に対しての警告として十分な意味を持っていた。獣の動きを止め、姿を消すように
腕のジェスチャーで促す。さらに河童は拳を地に着き、膝を曲げ、頭を下げた。巨大な
物の怪にさえ致命傷を与える必殺の一撃の姿勢だ。対峙する赤い獣は気迫を感じ取った
ように一歩下がる。
「話が済めばいくらでも相手してやるさ」
 片目を瞑り、哲司は高めの声を獣にかけた。実力の程は掴めないが、耐久力は悪くな
い。哲司が獣との戦いを想像して楽しんでいるのは明らかだった。普段は隠している哲
司の嗜虐的な趣味が、ほんの少しだけ顔を覗かせる。幼少の頃から一緒だった盟ですら
滅多に見たことのない部分だ。
「できれば、こっちの方を先にして欲しいな」
 獣と反対側、盟の背後から女性の声がした。思わず二人は声の方を向く。その姿を見、
二人は同時に呼吸を止め、硬直した。その顔は二人が知っているものだ。猫っ毛気味な
ベリーショートだった髪が腰ほどにまで伸びるという有り得ない変貌を遂げていたが、
忘れるはずがない。特に、仲間でありながらその命を奪った哲司の方は。
 ノヅチ憑き、梶取識の姿がそこにあった。
 顔に自ら刻んだ傷は未だ盟の記憶に新しい。纏った白のハイネックシャツは体中に巻
いていた包帯を想起させる。河童の一撃をその身に受けて死んだはずの識は、冬樹兄妹
を見て薄く微笑を浮かべる。恨みで半ば意識を失ったような最後の姿の影は微塵もない。
最期の時に失っていた冷静さを完全に取り戻していることは、直ぐに見て取れた。
「あれ? でもそうすると仲良くお話しできなくなっちゃうのか。残念」
 一人で納得したように喋り続け、ころころと表情を変えて笑いで締める。人指し指で
顔の傷跡をなぞる。背後の赤い獣は再び低い唸り声を上げた。
「ノヅチは消えたのに、なんで」
 哲司は動揺しながらも声を発した。物の怪のダメージは憑いた者へと還る。ノヅチは
ハガネに切り裂かれ、その命を終えた。さらに識はその前に他でもない河童の一撃を受
け、命を落としていたはずだ。識が生存していること自体、本来ならばありえない。
「うん。消えちゃった。だから、この子が今の友達。おいでー」
 呼びかけとともに、赤い獣は瞬時に識の下へと駆けた。
ヤマイヌっていうんだ。たぶんノヅチよりも強いよ、この子」
 宿主に褒められて嬉しかったのか、犲は高らかにひとつ吼えた。名前に含まれた犬と
いう言葉に、盟は思わず怯えを浮かべそうになる。弾かれた時の肩の痛みがいやにズキ
ズキと響いてくる錯覚さえした。
 す、と哲司が一歩前に出る。河童は犲との対峙を愉しむかのように構えた。
「まずお兄ちゃんの方から? 別に二人一緒でもいいんだよ?」
 猫を思わせる瞳が輝く。新たな力を試してみたい、そう言わんばかりの表情だ。玩具
を手に入れた子供のような弾んだ声に対し、哲司は無言で河童を繰り出す。緑の巨体が
疾駆する。赤い毛並みが緩やかに舞う。三度目の打撃を犲は避けるでもなくその身で受
けた。吹っ飛ぶ度、犲は嘲笑うかのように立ち上がる。識と犲が遊んでいることは明ら
かだった。
 盟はコダマを駆け巡らせ、識に有効そうな記憶を探し回る。枝を折る記憶だけでさえ、
手指をへし折られる痛みを与える。
「んじゃ、まずこっち」
 犲が巨躯に似合わぬ速度で地面を蹴る。次に脚が地面を着いた時、その眼前には小さ
な物の怪がいた。コダマは一歩下がり、近くの樹に隠れようとする。犲が爪を横薙ぎに
振るう。その背後の樹が音を立てて倒れた。残った根にコダマが飛び込む。識にたった
今切り裂いた爪の記憶を打ち込もうと盟が駆けようとする。
 がくり。脚に込めた力が突然抜けた。視点が大きく下がる。急に失われたかのように
脚は言うことを聞かなかった。痛みが脳を刺激した。指を這わせると、ぬるりとした感
触があった。盟は表情に疑問を浮かべたまま犲の方に視線をやる。犲はコダマの隠れた
根に牙を突き立てていた。脚に楔を打ち込まれたコダマが根の中でもがく。もがくほど、
脚の傷口はじわじわと広がる。
「あはっ。当たったみたいね」
 盟の様子を見、識が面白そうに笑う。更に背後に迫っていた河童が掴みかかるのを身
をよじって避けた。
 根の中のコダマを自分の元へ戻し、近くの樹を支えに盟はよろよろと立ち上がった。
犲は河童の打撃をものともせず、その爪や牙はそれだけで驚異的な殺傷力を誇る。使い
手である識は哲司にも盟にも恨みを抱いている。逃がしてはくれそうにない。痛みが思
考を阻害しようと盟の神経を絶えず刺激する。ジーンズの中の腿はさぞかし悲惨なこと
になっていることだろう。今、さすがに中の状態を視界に置く勇気はなかった。
 識を倒すには、識本人に河童の一撃を叩き込むしかないだろう。気は乗らないが、兄
の力を借りる他ない。盟の力でできることは、そのための隙を作ることだ。脚の痛みが
考えを中断させる。残ったのは、敵に対する怒りの感情だった。
 傷痕が残ったら許さない。冷たい空気が再び掌に宿った。