緑の弾丸が再び駆けた。樹々を掻い潜り、何度も犲に体当たりを打ちかます。脚を貫
通した痛みは判断力を奪う代わりに、盟の犬への嫌悪を奪った。コダマは樹に潜る手管
を用い、次々に樹々を通り抜ける。犲が煩わしそうに爪を振るうが、それは近くの樹を
切り裂くに留まる。飛び散る木っ端一つ一つさえもコダマの隠れ場所だ。
 林というフィールドはコダマ憑きの独壇場だ。樹は武器であり、盾であり、罠であり、
砦でさえある。相手にとっての障害物の全てが自分に味方する。時には樹の中に潜り、
また別の時には潜らずに足場として飛び跳ねる。犲と組み合う河童さえ足蹴にしてコダ
マはさらに高く跳ねた。河童の張り手ほどの威力はないが、それも連続で叩き込まれれ
ば大きな打撃となる。
「コダマ、次ッ!」
 盟は腕を大きく振り上げ、識へと向けた。縦横無尽な弾丸は、犲を打ち据えながらも
その使い手の方へと一つの目を向けた。けけけけけ。了解した、とでも答えるかのよう
にコダマは離れた枝に飛びつく。
「あはは、すごいすごい。コダマって面白いねー」
 標的である識の方は手を叩いて声を弾ませていた。お気に入りのペットが芸を覚えた
かのごとく喜ぶ姿はさらに子供らしい。巨躯を誇る犲さえもたじろがせる弾丸に狙われ
ても、彼女の様子は揺るぎもしない。
 記憶の貼り付けは盟が触れない限り起こり得ない。脚を貫かれて疾駆を封じられた盟
では、識に触れられる筈がなかった。よしんば近づいたとしても、犲の牙が盛大なお出
迎えをしてくれることだろう。コダマの体当たりだけが盟の持ちうる攻撃手段だ。識も
それを分かっていた。
「もっとだよ、犲」
 識は静かに犲に指令を下した。その視線の先にあるのは当の犲ではなく盟の傷口だ。
 犲の力を得て以来、識の嗅覚は異常なまでに発達していた。あらゆる種類の匂いを嗅
ぎ分け、人間には拾うことができない微弱なものでさえも拾い上げる。食べ物や花々の
匂いはおろか、今では人間一人一人の違いさえ彼女は判断できる。万物の臭気は彼女の
不快感を煽り続けた。異常な嗅覚は慣れるまでに彼女を何度も吐かせ、身を掻き毟らせ、
鼻を自ら潰させた。気が遠くなるような痛みも、嗅覚がよこす不快感に比べれば何十倍
も何百倍もましだと思えた。ノヅチを遥かに凌ぐ犲の再生力が、あざ笑うかのように小
さな鼻を元通りに再生する。
 新たに知った匂いの中で、識にとって唯一喜ばしかったことは血の匂いを深く知るこ
とができたことだ。辛苦が放つ真紅の芳香は彼女の脳髄にこれ以上にない満足感をもた
らした。
「もっと血を流させて。もっともっともっともっともっと」
 ねだるような言葉とともに、くいと識が指を折った。犲は盟に向けて地を鳴らす。盟
は無駄だと悟りながらも腕で身をかばった。犲の牙が腕ごと頭を狙う。直後、それにそ
ぐわない打撃音が鳴り響いた。河童が横から長い腕を伸ばしていた。赤い獣は呻きなが
らごろごろと転がる。
「邪魔、しないでほしいな」
 言葉の割りに識の語調は穏やかだ。彼女はもがく相手を捻じ伏せることを好む。哲司
の邪魔さえ、識には娯楽という料理のスパイスにしかならない。
「お前を殺したのは俺だろう?」
 何度か犲の爪に裂かれた哲司が頬を吊り上げた。くぁっくぁっ。河童もまた鳥のよう
な鳴き声をあげる。
「妹の盟ちゃんの方が、なんかいい匂いなんだよねー。なーんかお兄ちゃんの冬樹の方
は冷え切ってる感じって言うかさあ」
 いたずらっぽい視線を盟に投げかけながら、識は哲司に向かって言葉を投げる。哲司
にはもう興味がないといわんばかりの態度だった。
「なら、おいしいものは後にとっとけよ、ひとりっこ」
「あ、そういう考え方もあるね。さすがお兄ちゃんだ」
 感心した、とでも言うように識は哲司に向き直る。犲もまた河童と向き合うように位
置を変えた。
「あ、それとも気を悪くした? 別に冬樹の匂いがダメだとかじゃないからね?」
 饒舌にしゃべり続ける識に対し、哲司は不快感を得ていた。自分を棚上げにした感情
の働きだが、彼はそれに気付かない。
「うるさい」
「え?」
 短い苛立ちとともに哲司は河童を突撃させる。頭の大きい不恰好な二メートル弱の魔
人が赤い獣に飛び掛る。獣は牙をむく。噛み砕こうと顎が動く瞬間、鋭く長い牙を河童
の両手が掴んだ。下手投げの要領で河童は犲の巨躯を投げ飛ばす。宙を舞う犲を目で追
い、河童はさらに立会いの姿勢をとった。犲が地面に叩きつけられる瞬間を狙い、必殺
の一撃を準備する。
「しゃァッ!」
 哲司が言葉にならない叫びの合図を送るとともに、河童は地を蹴った。
 深緑の矢が再び識の物の怪に迫る。識の表情に初めて変化が生じた。腹から搾り出し
た声が大気を震わせる。
「犲ッ!」
 河童よりも速く地面に着地し、犲は両の脚で地を踏みしめた。全身の赤い体毛が逆立
ち、ほのかに紅色に発光する。深緑の魔人はその長い腕で紅の獣を打ち抜いた。河童の
手によって識の命は今度こそ掻き消える。そのはずだった。
「あー、危なかった」
 犲はたじろぎもせず、地を踏みしめたまま微動だにしていない。信じ難い光景を前に、
哲司はよろめいた。全力のためか、全身が汗に塗れていた。識は一つだけ安堵の息を吐
くと、何事もなかったかのように哲司に向けて歩み始める。二メートル以上の距離。腕
を伸ばせば届く距離。手を少し動かすだけで触れられる距離。識が背伸びをすれば、唇
同士が触れる距離。
「ね? ノヅチより強いって言ったでしょ?」
 吐息ごと届いた声に、感情はなかった。哲司は額に浮いた汗を意識した。それは全身
全霊の一撃を放ったゆえのものだ。決して識に恐怖したゆえのものではない。識の瞳に
哲司の顔が映る。固まった自分の顔を見、哲司は思わず一歩下がる。識は間を置かずに
一歩哲司に近づいた。
 識は指を哲司の頬に伸ばした。指先が汗に触れるが、それを意には介さない。恋人に
するかのような愛撫が、哲司をさらに緊張させる。女性の柔らかさを帯びた手だったが、
哲司には白骨で撫でられているように思えた。識は緊張した皮膚を解きほぐすように何
度も指を這わせる。
「匂いだけじゃないんだ。冷たいの」
 数分間の愛撫を終えると、つまらないものでも見るかのように識は言葉を発した。
「せっかく盟ちゃんと似た、いい匂いなのにね」
 ぐるるるるるるるるるるるるるるる。犲は喉を鳴らすように唸る。哲司からの指示を
待ち続けるかのように対峙する河童は立ち尽くしていた。識は硬直した哲司の手をとり、
指を顔の傷痕に導く。乾いた感触が哲司の指に伝わる。異質な感触に対し、哲司は彫像
のように緊張を保ったままだった。
「ん、冷たい。これはこれで気持ちいいかも」
 擦り付けるように何度も傷跡を撫でさせる。識はふと手を止めた。哲司の手の甲には
一筋の傷が走っている。識の顔に血の化粧が塗られることはなかったが、純白のシャツ
には滴った血が染みを作っていた。
「あーあ、汚しちゃった」
 口を尖らせてはいるが、声に怒張はない。手をとり、まじまじと傷を観察した。派手
な出血が視界の中心に据えられる。放つ強烈な鉄の匂いは、識を釘付けにするのに十分
だった。徐々に顔が傷との距離を狭める。触れるか触れないか、という距離で鼻を止め
た。鼻息が傷口に触れる。哲司は、そこでようやくびくりと動いた。
「……ん」
 唇が、傷に触れる。裂けた肉の間に舌が侵入する。じゅるじゅると音を立てて識は哲
司の手の甲を吸った。舌には唾液が多分に含まれているのだろう。出血の量よりも遥か
に水気の音が多い。
 じゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅる。
 母乳を必死に吸う赤子のごとく、一心不乱に血を啜る。びりびりとした痛覚とともに
異物感が哲司を襲った。手の甲から浸入したそれが腕を伝う。肘を通る。肩を上る。脊
椎を縦に貫通し、脳髄にまで響く。その異物感に不快は含まれていなかった。浮き上が
るような錯覚に、両の膝を崩しそうになる。
 じゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅ
るじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅるじゅる。
 とうに出血は止まっていておかしくない。それでもせびるように識は舌を躍らせる。
期待に応えるように、血は後からどんどんと湧いてくるようだった。止まらない舌の動
きが、その何よりの証だ。哲司は識の変化に気付かなかった。匂いを嗅ぐに留まってい
た小さい鼻息は荒くなり、感情の灯らない瞳には潤みが生じる。上気した頬は、哲司の
それとは対照的なほどに紅を含んでいる。
 不意に識は哲司の手から顔と手を離す。支えのなくなった腕がだらりと垂れた。頭を
埋めようとするほどに鼻先が黒いコートの胸板に近づく。犲の爪が裂いた河童の傷を、
識は嗅覚を頼りに探そうとしていた。皮の匂いは好みではなかったが、その内側に眠る
香りを探り当てることが識には楽しみだった。脇の辺りのわずかな鉄の匂いを鼻が感知
し、識は意識に瞳を輝かせる。抵抗のない哲司のコートのボタンに、無邪気な指がかけ
られた。
 恋人たちの情事、あるいは捕食と被食にすら見える行為が、識と哲司の思考すること
を放棄させる。
 だから、二人は気付かなかった。
 脚を引きずった盟が、犲が砕いた木っ端を手に背後に迫っていることに。

 :

「狗神憑き?」
 岩に手をかけ、身を持ち上げながら玲が言葉を発する。視線の先には相変わらずの上
下ともにデニム姿の葵の姿があった。不必要な言葉を発しない彼は、玲の疑問符に対し
て一切の返答をよこさない。
 岩ばかりが目に付く山間に、彼らはいた。変わり映えの無い無機質な物体ばかりが視
界に収まる。数時間は徒歩に時間を費やしているというのに、その光景には一向に変化
が見出せない。山歩きには向かない学生服を纏ったままの玲は、額の汗を袖で拭いなが
ら重々しく息を吐いた。
 いい加減にゴールの見えない徒歩に飽いた玲が、寡黙な葵に目的地について尋ねた。
その答えが、狗神憑き関連する場所というものである。
「血継で生じる特殊な物の怪憑きのことですよ」
 背後から声をかけたのは同じく風景にそぐわぬスーツ姿の陽樹だ。へえ、と感心した
ように玲は相槌を打つ。
「陽樹さんは知ってるんだ?」
 自分よりも年上であろう女性に対し、玲は友人にするかのように気軽な言葉遣いで話
しかける。陽樹はええ、と丁寧な相槌を打った。
「聞いたこと、ありませんか?」
 言いながら、陽樹は玲がしたように身体を持ち上げる。玲は手を貸そうと思ったが、
陽樹にはその必要はなかった。女性が自分よりあっさりと上ったことで軽いショックを
受ける。
「えーと、なんか狗の化物に取り憑かれて奇人変人になったとか、周りに災いをもたら
すようになったとか、そんなんだっけ?」
「ええ、大雑把に言えばそうですね」
「で、その情報がなんで必要なのさ」
 先頭を歩く葵は小さく溜息をついた。徒歩に気が滅入っているのは彼も同じだ。説明
などという煩わしい行為に頭を裂きたくなかった。玲の知的好奇心は嫌いではないが、
それは自分の精神に余裕がある場合のことだ。
 陽樹はそんな葵の精神状態を理解していた。いらついているような足音を、彼女はと
うに把握している。
「狗と狐、似てると思いません? 動物的にも話的にも」
「あー、なるほど」
 玲は大きく頷いた。
 次の瞬間、トビモノとヤマビコが宙に出現する。玲が妖気を感じ取るのと不振な音を
陽樹が聞き取るのは同時のことだった。葵もまた戦闘態勢をとる。
「敵ですね。野良、でしょうか」
「奴らの縄張りだからな。俺たちは本来お断りの客だ」
「数は十、十五、いや二十はいるかな、もっとかも」
 ぐるるるるるるるるるるる。ぐるるるるるるる。ぐるるるるるるるるるる。四方八方
その他あらゆる方向から唸り声が響く。群れに囲まれている。三人は同時に悟った。そ
れまで気配を完全に殺し切っていた野生の手管は、歴戦の物の怪憑きからしても見事と
言う他ない。
 犲の群れはその眼光を招かれざる客に向けていた。絶対的に不利な状況だったが、三
人の様子に怯えは無かった。トビモノは炎を上げ、ヤマビコは高らかに吼える。長った
らしい徒歩によって溜まりに溜まったフラストレーションの発散の機会を、一行は素直
に喜んだ。
「余計な力を使うな。数体仕留めれば逃げる」
 葵は短く二人に言い放つ。言いながら、思惑は別なベクトルを向いている。それを理
解している玲と陽樹は顔を合わせて笑った。
 眩く白い光が葵のもとに降り立つ。それが開戦の合図だった。
 二度目の発光は水平に飛んだ。犲の群れの一角を剛直な白色が薙ぎ倒す。続くトビモ
ノは群れに向かって人魂を降らせた。向かってくる犲はヤマビコの触手が打ち据える。
 怯むのは群れの方だった。数の利は群れ側にある。肉体の強さも物の怪の方が遥かに
勝る。一方で減り続けているのは犲の数ばかりだ。唸りながら犲たちは敵たちを睨めつ
ける。貧弱な人間どもは一向に疲れの様子さえ見せない。他よりも一回り大きな犲が高
く吼えた。
 群れのリーダーが白光に飲み込まれたのは次の瞬間だった。

 :

「あはは、逃がしちゃった」
 犲の背でぐったりしながら、識は呟く。漏れる笑いにも力はない。
 盟の一撃とともに識は動きを止められた。その大きすぎる間隙は二人を逃げさせるの
に十分な時間を与えた。
「もう痛いのは怖くない、ってわかってるんだけどな」
 力ない笑いをたたえながら、二人が去った方向を見やる。余力はあったが、識に追う
つもりはない。派手に残った顔の傷痕や血で汚れた白い服がいやでも目を引くことは分
かっている。百鬼夜行の人間まで敵に回した以上、敵の数はさらに増えるだろう。行動
に軽率は許されない。
 舌に残った鉄の余韻を感じながら、梶取識は眠りに落ちた。

<第三章 ハウリング 了>