冬樹盟が最初に気が付いたのは枕の感触だった。瞼は開いたはずだったが、視界には
何の変化もない。暗い場所にいるのか、視覚が機能していないのかは分からない。自分
の状態を追求するつもりも無い。それ以上は思考が機能しなかった。
「目、覚めたんだな」
聞き覚えのある声が耳に届く。こそばゆさを伴ったような懐かしい感覚が身を包んだ。
盟は再び目を閉じる。視界にはやはり変化がなかった。
「寝てろ」
「……ん」
頷く代わりに小さく声を出す。仰向けの姿勢だというのに、指や爪先に至るまで全身
が重かった。返事さえもが気だるさを生じさせる。
額に乗せられた掌は、ひどく冷たくて心地よかった。
ヤドリギ
第四章 童の夢
絆那はひどく不安定な気分に陥っていた。同室の玲は身内の用事があるという話から
学校を休んでおり、訓練を課す葵からの呼び出しもまた無い。絆那に付いているはずの
盟は行方不明という具合だ。いくらか寮の人間にも尋ねてみたが、盟は部屋にも戻って
いないらしい。
風音との買い物を楽しんでから、三日ほどの時間が過ぎていた。コサージュの出所は
気にはなったが、今やそれどころではない。
盟は百鬼夜行の手に落ちたのではないか。絆那はまずそう考えた。仮にそうだとして
も、何かしらの救出行動を起こすことはできない。敵は常に攻め込んでくる側であり、
絆那は敵の潜む場所を知らない。
そもそも、敵の手に落ちたことさえ想像に過ぎないのだ。絆那にできることは信じて
待つことだけだった。かつてノヅチに飲み込まれたときでさえ、盟は自分のペースを冷
静に保っていた。
「ねー、桐生くんってば」
頭を抱えている絆那は声のした方を向く。ショートボブの髪型の女生徒が、わずかに
眉をひそませながら絆那の顔を覗き込むようにしていた。
「やっとこっち向いた」
何度か呼びかけを無視してしまったようだ。絆那は苦笑しながら頭を下げる。
「ああごめん。何? 伊美、さん」
さして親しくないクラスメイトからの突然の声に、少し言葉が閊えた。伊美の方は気
にした風でもなく言葉の続きを繋ぐ。
「盟がどこ行ったか、知らないの?」
「俺のほうが聞きたいよそれ」
「携帯とかさ、何度かかけたんだけど出ないんだよ」
言葉を聞き、絆那は思わず目を見開いた。百鬼夜行の仕業ならば物の怪と無関係の伊
美からの連絡と違い、絆那からの連絡には応じるかもしれない。当然の処置が三日もの
間抜け落ちていたことで自分に苛立ちを感じたが、すぐに顔を上げる。
「ありがとう伊美さん、すっかり忘れてたっ!」
絆那は全力で駆け出した。後ろで戸惑うように伊美が何事か話していたが、ハガネで
強化された肉体はそれを拾わない。伊美の視点からは絆那の背中は既に小さい。
絆那は校舎裏の日陰へと駆け込んだ。周りに誰もいないことを確認し、盟の携帯電話
に連絡を入れ、繋がるのを待つ。友人からの連絡にも応じないとなれば盟本人が出る可
能性は低いことだろう。場合によっては繋がらない方が好ましい。
一回目のコール音が響くまでの間隔がひどく長い。地団太を踏むような心持で絆那は
自分の携帯電話を握り締める。
るるるるるるる。一回目のコール音が鳴った。繋がった。盟は最低でも携帯の電波が
届く場所にいる。二回目のコールの途中で相手が出た。声は盟のものではなかった。
「もしも〜し、絆那君か〜い?」
聞き覚えのある声が、絆那の全身を緊張させる。絆那の脳内に浮かぶのは、想定の一
つではあったが想像したくない相手だ。
「冬樹、哲司?」
「おにーさん年上を呼び捨てするのは感心しないぞ?」
「なんで、あんたが盟の電話に」
「そりゃ、盟が寝てるから起こさないようにってな。いやー、この携帯がまだ動くとは
思わなかった。けっこう派手に暴れたんだけど、けっこう丈夫なんだな、これ」
マイペースな哲司の台詞に、絆那は思わず声を荒げる。
「あんた、まさか盟をっ!」
「誤解だっての。なんか別の奴が来たんだっての。んで怪我したから仕方なく連れて来
たんだっての」
はあ、と電子化されたため息が届く。頭に血が上ったり、混乱させられたりで絆那の
頭はくらくらした。思わず昂ぶってしまった自分を静め、情報を引き出すことに集中す
べく頭を巡らせる。絆那が知り得たことは盟の携帯電話が哲司の手にあるということだ
けだ。
「盟、怪我したってどういうことだよ」
「お、心配が最初? おにーさんとしては好印象だよそういうの」
茶化すような合いの手が入るが、それは耳に入れないことにする。哲司が持っている
情報を引き出したかったが、盟の怪我とやらが気になった。
「何て言うかな。でっかい犬に噛まれて腿に穴が開いた」
「はあっ?」
思わず裏返った声が上がる。哲司の話す内容は絆那には信じ難いものだった。何せ盟
も常人をはるかに凌駕する物の怪憑きだ。すぐに哲司がでまかせを言ったのだろうだろ
うと絆那は考え直す。盟は哲司と話す際の態度はあしらうようなものだった。その時の
光景を思い出し、絆那は深呼吸する。
携帯電話を握る指にじわりと汗が浮かぶ。日陰であるというのに、体温は徐々に上昇
しているようだった。額に浮いた雫を空いた方の袖でごしごしと擦る。
唾を飲み込み、抑え目の口調で声を出した。
「俺からの電話に出たって事は、話す気はあるんだな?」
「んー、ああ。一応ね。伝えたいことがある」
「伝えたい、こと?」
「こっちの新手はもう君が一人だということを掴んでる。だから、なるべく人が近くに
いない場所にいてくれると助かる。人様に迷惑をかけてもいいなら話は別……って所」
「何、だって?」
「あれ、電波悪かった? まあいいか。大したことじゃないし。それと、あと一つ。中
途半端に敵の言葉を信じるのはおにーさんはお勧めしないよ」
絆那は身を堅くした。言葉を発しようとする前に、一方的に電話は途切れる。自分の
携帯電話を乱暴にポケットに仕舞い込み、絆那は踵を返した。自覚の無い汗がもう一度
額に浮く。鼓動はさらに速くなっていた。最後の忠告は絆那の頭には入っていない。既
に絆那自身が狙われてしまっている。盟の行方は知れたが、その心配をしている場合で
はない。
絆那は再度辺りを見回した。周囲に人間の気配は無かった。現状にとりあえずの安堵
を抱き、緊張を解く。
哲司の思惑には、気付かなかった。
その上空、絆那が視線をやらなかった先に物の怪の姿があった。それに憑かれた市井
隆もまたその背にいる。
彼は高い場所が好きだった。視力の制限さえなければ、もしくは物の怪に魅入られな
ければ、パイロットを目指していたことだろう。自分に憑いた物の怪が飛行する能力を
持っていたことは彼にとって幸運なことだった。また、隆に憑いた物の怪は憑依者に対
してひどく好意的な性格をしていた。二十年近くにもなる付き合いではあるが、彼の生
活に支障を来したことは一度としてない。
「お友達の心配、か。冬樹君にも困ったものだ」
笑みを浮かべながら、隆は言った。会話の詳細は聞き取れなかったが、おおよそのこ
とは絆那の様子から予想がついた。哲司の行動は組織に対する裏切りに他ならない。そ
れは即ち、隆にとっての好ましい事態だ。このままハガネ憑きに襲い掛かっても負ける
気はしなかったが、嫌っている哲司の失態を報告したいという欲求もまた大きかった。
どちらに傾くかも分からない天秤は隆を悩ませる。気がついたときには、地上の絆那
の姿はそこには無かった。
「ふふ。今回は見逃してやろう。今回はな」
薄く負け惜しみじみた笑みを浮かべ、隆は風に乗った。
:
盟が目を覚ましたのは日が落ちる少し前のことだった。寮の自室とは似ても似つかな
い和室に戸惑いを覚えるが、壁にかかった黒いコートでおおよその事態を理解する。横
には、盟が着ていたハーフコートもかかっていた。周囲に人間の気配は無い。一人、哲
司の部屋に残されているようだった。
不意に、生活習慣が頭をよぎる。玲に言われた寝起きのうがいの習慣は盟にもしっか
りと根付いていた。口腔を雑菌だらけで置いておくつもりはない。上体を起こし、立ち
上がろうとする。かくん。脚に力が入らなかった。痛みは無かったが、識に貫かれた右
の脚は未だ再生していないらしい。
「って!」
そこで布団の中を覗き込み、下半身に目をやる。感触から包帯を巻かれているのは理
解できたが、履き慣れたデニムの感触は脚に無かった。布団の中に見えたのは、明らか
にオーバーサイズのグレーのスウェットパンツだ。盟は顔を赤らめ、わずかに震える。
怪我の手当てのためとはいえ、寝ている間に脱がされていたのかと思うと、悪寒と羞恥
が身体を駆け巡った。部屋の主であろう人間に文句の一つも言ってやりたい反面、顔を
合わせたくないという感情も巻き起こる
敵の手中にありながら、逃亡しようという気概は湧かなかった。部屋の外も分からな
い上に右脚が動かない以上、試みが無駄に終わることは目に見えている。敵側もそのこ
とを分かっているからこそ一人にしておいたのだろう。盟を捕獲していることを百鬼夜
行が知らないという場合もあるが、盟はその考えをすぐに捨てた。哲司がいくら変人と
はいえ、敵を捕らえたことを秘匿するとは考えられない。
力の入る方の脚を頼りに、壁に手をついて立ち上がった。噛み砕かれた脚の他に目立
つ傷は無いようだ。もしくは、治ったのだろうか。ゆっくりと身体のあらゆる部分に意
識を集中させては安心する。
布団から引き戸まで到達するのにも数分をかけ、ようやく盟は引き戸に手をかけた。
開けた瞬間、盟が見たのは部屋に戻ってきた哲司だった。ほんの数秒、二人は思考を
停止して硬直する。
「あ、あー……おはよう」
「お、おはよう」
なぜか、口からは時間にそぐわない挨拶が出ていた。
:
何事もなく、冬樹哲司は廊下を歩いていた。二人分の重みに床は普段よりも低く呻く。
哲司の背には盟が負ぶさっていた。
「人質の癖にずいぶん世話の焼けること」
ため息交じりの兄の抗議だったが、背中の妹はしがみついて離れない。哲司からすれ
ばたいしたことの無い握力だったが、肩には五指がしっかりと組み付いている。
「人質は大事にするもんでしょ。違う?」
「違ってれば背負ってません」
哲司が盟の行動を逃亡だと予想した次の瞬間、盟からは洗面所に連れて行けという言
葉が飛び出した。相対する哲司は計り知れないほどに脱力した。出しかけた河童も、哲
司の中で転んでいた。
哲司はぽつりと口を開いた。
「盟って、ずいぶん軽いんだな」
言われた盟の方は瞬間きょとんとする。そのすぐ後に、わずかに笑みを浮かべながら
声を発した。
「へへ、そーでしょ」
盟の気分は僅かに舞い上がった。目の前の首に腕を回し、肩に顎を乗せようかとも考
えた。考えた直後に口の中の粘つきを思い出し、すぐに顎を引く。背負う哲司は嬉しげ
な盟に対し、暗い考えしか持てなかった。背負って初めて理解したが、盟の真に異常な
点は睡眠時間ではない。盟の体型は小柄な上に華奢なものだが、実際の体重はその外見
を更に下回っている。
「もっと飯食え。そんなんだから貧相なんだ」
「……うっさい黙れ」
ぎゅううううううう。片手を肩から離し、脇腹を思い切り抓った。哲司は思わず手を
離しそうになる。背中のわがままな人質はしっかりとしがみついて離れそうに無かった
が。
擦るに擦れない脇腹が痛んだが、哲司は誤魔化すように咳払いをした。怒った妹の気
を紛らわせるべく、浮かんだ疑問をぶつけてみる。
「おまえ、腹減って死にそうになったりとかは無いのか」
「は?」
急に真面目になった哲司の声に、盟は少し困惑する。肩を掴む指の力を緩めた。粘つ
きごと唾を飲んでしまいそうになり、すぐに息を吸ってごまかした。哲司の質問の内容
を反芻し、普段の生活を振り返る。
「ない、かな。慣れてるからかも」
盟の声に自信は無かった。睡眠欲だけが抜き出ている生活の中では、食欲についてな
ど考えたことも無い。
たった数秒であったが、背負う哲司は言葉を選ぶように黙りこくった。短い沈黙は盟
に言いようの無い感覚を与える。慣れで食欲を抑えられるほど人間の身体は効率的には
できていない。例え人知を超えた力を持つ物の怪憑きであろうとその例外ではない。盟
の変質は睡眠だと本人さえも思っていたのだが、哲司はそれに疑問を抱いた。
「盟、コダマをどれだけ使った」
「え、っと、知ってるだろうけど、戦うとき以外にもほぼ、毎日」
哲司の無意識な鋭い語気に気圧され、閊え閊えで盟は答える。敵らしい人間が周囲に
現れても直ぐに知れるよう、玲と組んでからは殆ど毎晩コダマで周囲を探っていた。力
を使う一回辺りの時間は短くとも、総合的な使用時間は莫大なものになる。容姿には異
常が現れていないが、異常が現れていないことがそもそもの異常だ。もし同じような生
活を続けるならば、盟の身がどうなるか分かったものではない。
「盟。敵味方とかじゃなく、兄貴として言わせてもらう。もう、コダマは使うな」
「やだ」
一瞬の間も置かずに盟は否定の意思を示す。哲司の言葉に信用を置くつもりがない点
に変わりはなかった。兄としてと念を押されても、それは決して揺らぐことはない。
「コダマは危険だ。お前も危ない。少なくとも、俺よりは」
いつものおちゃらけた気配は哲司の言葉に含まれていない。兄の肩に乗せられた妹の
手からは、既に力はほとんど抜けていた。盟からの返答を待たずに、哲司はさらに言葉
を続ける。
「死ぬかも、しれないぞ」
言い切った哲司は、背中を振り返らなかった。肩を通して、再び指に力が込められて
いることだけは分かっていた。
物の怪に憑かれた人間は人知を超える力を手に入れる。その過ぎた力を行使した代償
に、何かを少しずつ奪われていく。
まるで人間から離れていくように。
妄想に過ぎない、と哲司は自嘲のために表には出さず笑った。