最近お兄ちゃんが構ってくれない。
風音が漏らした一言は桐生兄妹の周囲に波紋を呼んだ。ついに病的なシスコンに回復
への兆しが見え始めたという噂が飛び交い、兄の方はついに血の繋がっていない異性に
目を向けられるようになったとまで言われている始末だ。
もちろん実際はそんなことはない。絆那の禁欲的な生活は哲司からの言葉に従った結
果のものであり、最愛の妹だけは決して戦いに巻き込むまいとする意思の現れである。
桐生絆那は精神的に参っていた。
敵は人質を持ち、自分の状態を掴んでいる。頼る味方はない。相棒である内なる物の
怪だけは、やたらに待ち焦がれてさえいた。滅入る気分はひたすらに葵と玲が早く戻る
のを願うばかりだ。
雑談ついでに玲のような探知能力があれば、とぼやいたこともあった。当の玲に言わ
せれば、広い探知能力は逆に不便であるらしいが。
怯え続ける心にも嫌気は差したが、何度叱咤しても心は立ち上がろうとはしない。絆
那は自分と親友二人との立場の違いを改めて思い知らされた。盟は血を分けた兄との戦
闘も辞さず、玲は物の怪を維持するために敵の命を奪い続けなければならない。自己の
防衛ついでに百鬼夜行を止めたいという絆那が戦う理由は、二人に比べるとあまりに浅
い。
哲司からは盟の電話を通じて何度か連絡がもたらされた。通話が来るたびわずかに期
待し、通話口からの声に落胆させられる見事に繰り返しだ。盟と直接話したいと要求し
たこともあるが、哲司はそれをはぐらかし続けた。一度として盟と声を交わしたことは
ない。電話だけが哲司のもとにあるのではないか。そんな疑念が浮かんでも不思議は無
いはずなのだが、追い詰められている絆那にその発想は無い。
今日もまた絆那はロードワークを繰り返す。葵からの言い付けは無いが、身体を動か
していないと気が紛れない。
自身の周囲から冬樹盟の失踪の噂が消失していたことに、彼も気付くことはなかった。
:
仄暗い自分の領域から離れ、戟はまたもや鴬張りを踏みしめていた。身体を動かした
いと強く思う反面、外に出る気力はない。鉛よりもなお重い全身では、だだっ広い屋敷
を一回りするのに数時間を要する。自身の感覚で所要時間を数えてみてはいるが、回復
の兆しがないことを彼に告げるだけの結果に終わっていた。数秒ずつの縮まりはただの
慣れにしか過ぎないだろう。
「てやっ」
「あぅっ」
急に背中を小突かれ、戟は頭から派手に床に突っ込んだ。身をよじる動きが床をぎし
ぎしと鳴らせる。
「何のつも……あんたはっ」
抗議の声が途中で驚愕のそれに上書きされる。戟が見たのは梶取識の姿だった。幻か
とも思ったが、背中を押された感触は本物だ。妄想が触覚にまで至るほど彼は狂っても
いない。
「無駄なことしてるんだなーって思ったからねー」
赤くなった戟の額を見、悪びれもせず識は笑みを織り交ぜた返答をする。
「あ、あんた、死んだんじゃ」
名前がとっさに浮かばず、二人称で濁す。引きつる戟の表情には構わず、識はにこや
かに返答をした。
「そうなんだよね。わたしも死んだと思ってた。てか、冬樹から聞いてないんだ」
「哲司さん、から?」
哲司は仲間内に対しても識の生存については打ち明けていなかった。かつての仲間を
討たせたくなかったこともあるが、識が哲司以外の百鬼夜行の構成員に接触するとは考
えていなかったためでもある。識が百鬼夜行の施設に乗り込んできたことは、哲司の計
算外の出来事だった。
疑問が次々に積まれていく一方の戟は、どう返答したものか全く分からない。至近距
離で脳を刺激する額の痛みすら彼の意識には届いていなかった。
戟がなんとかして台詞を捻り出そうと口を開こうとした所で、視界に納まっていた識
の顔が移動した。しゃがみこみ、できるだけ戟に近い目線を作ろうとする。
「わたしと、来ない?」
幼児に話しかけるようなのったりとした声だったが、内容は単刀直入だった。台詞を
考えていたはずの戟の目は限界まで円形に近くなり、傷痕の残る識の顔を見返す。顔を
合わせた回数は少なかったが、識の姿に変異が現れていることは戟にも見て取れた。多
少ざんばらだったベリーショートの髪はいまや目元を完全に覆っている。顔を合わせた
回数は少なく、顔には傷痕が残っており、髪は伸びている。それだけの条件の上で戟は
識を識として認識した。その事実がいっそう戟の恐怖を掻き立てる。
戟の返事を待たず、識はその手を取って引っ張りあげた。本人にすら重荷と思える戟
の身体はいとも簡単に持ち上がる。自分よりも小柄な人間の思わぬ怪力に、戟は思わず
小さな悲鳴を漏らす。
「ここにいても無駄だよ。きっと治らない」
右の手を握り、背にもう片方の手を添え、識は諭すような穏やかな口調で言った。対
する戟は唾を飲む。彼に識の言葉の信憑性を疑う余裕はなかった。微かに残る感覚が訴
える僅かな肌寒さも、戟の動悸を速める潤滑油にしかならない。
「もとに、もどれるのか」
「確実とは言えないよ。でも、たぶんね」
気遣ってくれた奈留の顔がふと脳裏に浮かぶ。彼女は戟にもまだ役割があると言って
いた。治った身体で彼女の隣で期待に応えられたら、さぞかし爽快なことだろう。
「ここで腐って捨てられるか。それとも」
言い終わる前に、戟の身体が跳ねる。急襲する河童の一撃を察知した識が宙に投げ上
げた。戟の身は天井近くの空中で犲が受け止める。
「冬樹たちを敵に回してでも生き残るか、って説明はいらないみたいね」
上体を下げた低い姿勢から河童を睨め上げ、識はにやついた。猫を思わせる笑みを浮
かべたまま踏み込み、河童の顎に掌を叩きつける。さらに踏み込んだ足に力を込め、大
きく飛び退いた。
「どっちがいい? 死ぬか、殺されるか」
僅かな戦意の交差だけで識は高揚していた。弾んだ声が呆然とする戟にかけられる。
識の言葉が途切れるよりも先に、河童はさらに掌底を叩き込む。俊敏な犲憑きはそれ
をことごとく回避する。犲は背の上の荷物を落とさぬよう微動だにしなかった。
河童がその犲を狙わないのは背負われた戟を気遣ってのことだろうか。識が犲に近づ
こうとすれば、河童は速度を上げて攻撃を仕掛ける。戟は互いにとっての人質となって
いた。
「選ぶ時間はないよ。答えて。今」
のったりとした言葉に鋭さが加えられた。強化された神経は人間の身が物の怪に及ば
ないことをより深く理解していた。犲が河童の一撃に耐え切る耐久力を持つといっても、
識の方は人間であることに代わりはない。河童を相手に長らく持ちこたえることは不可
能だ。戟の返事に待たされるようであれば、捨て置くのも仕方がない。
足音、識の声、河童の放つ風切り音。全ての聴覚信号が全ての鈍った戟を急かす。
自分の指に脈を感じ、戟は力強く声を出した。
「俺を、連れて行ってくれ……!」
:
走ることは嫌いではなかった。余計な不安感を頭から追い払うためには、嫌いな行為
などはするべきではない。その判断のもとランニングが開始され、五分間の時間が過ぎ
ようとしていた。
下方向に向いていた視線がふと上を向く。汗に塗れたトレーニングウェアの前に、夏
用の仕立て服が立ち塞がっていた。絆那は一度だけ頭を振る。涼しげな表情を浮かべた
男は、ただ絆那の視線の先にいるだけだ。立ち塞がるなどという物騒な動詞の似合う位
置関係ではない。
数歩先の男は懐から出した煙草を咥え、火をつける。走ってくる絆那に気付いている
であろうが、男に避けるつもりはないようだった。小さく舌打ちをし、絆那は少しずつ
走行の方向を右側に逸らしていく。
「トレーニングかい? 部活動か何か?」
横切ろうとした瞬間、絆那に声がかけられた。
「ええ、まあ」
足を止め、絆那は男の問いに答えた。厄介なものにつかまった、と絆那は表に出さず
気分を暗くする。息は切れていなかった。物の怪に憑かれたことによる変異に加え、本
人の自覚は殆どないものの日々のトレーニングは着実に絆那の中で生きていた。
「持久力と瞬発力は別物だよ。がむしゃらなトレーニングは駄目だ」
「はあ」
学生時代を思い出したのか、それともそういった研究を営んでいるのだろうか。そん
なことを考える絆那に出せるのは、気のない返事だけだ。トレーニング談義が始まる前
にうまく会話を切り上げねばならない。
続く言葉は、絆那の予想していたものとは別物だった。
「もっとも、そのおかげで私も助かるのだがね」
紳士的だった市井隆の顔が醜く歪む。ざわり。近くの樹が揺れる僅かな音が絆那の鼓
膜を打つ。絆那はようやくそこで気付けた。周りに、人間はいない。
――なるべく人が近くにいない場所にいてくれると助かる。
哲司の言葉の意味を、絆那はやっと理解する。なぜそんな忠告を残したのかまでは分
からなかったが。
「百鬼夜行っ!?」
「察しの通り。ならばすぐに始めさせて貰う」
音もなく足元から立ち上る白く長い“何か”。それが隆を中心に螺旋を描く。
「行くぞ、一反木綿よ」
美しき純白の布の姿をした物の怪が、絆那の目の前に舞った。
黒い刃は、獲物の出現に憑依者の精神を激しく打ち鳴らす。絆那にそれを拒否する理
由はなかった。抵抗せねば、自分がやられるばかりだ。
:
犲が背の戟を荒々しく投げ、河童に飛び掛る。投げ出された戟の身は俊敏な識が受け
止めた。河童が爪を腕で止め、犲の顎に頭突きを打ちかます。犲は悶絶するが、識の方
にはさしたる変化もない。
抱き留められた戟は小さな声で識に問いかける。
「平気、なのか?」
通常、物の怪憑きは自身に憑いた物の怪と感覚を共有する。いくら物の怪に憑かれた
ことで身体が強化されてるとはいえ、顎を強打されてまともに立っていられるはずがな
い。
「だいじょーぶ」
識は戟の方に視線をやり、微かに笑みを浮かべた。視線にもぐらつきはない。嘘が混
じっているとは思えなかった。
「でも、ちょっと手伝ってくれるとうれしいなー。つか手伝えー」
今の哲司は犲の力を少なからず理解している。他の構成員が救援として現れる可能性
が無いとも言い切れなかった。識にとっては厄介な状況だ。急に手伝えと言われ、戟は
目を白黒させた。頭をフル回転させてみるが、不完全な七人ミサキが河童の足止めにな
れるとは思えない。
考えは否定的だったが、行動はそれに反していた。三体の躯が河童を取り囲む。味方
の乱心に河童は少しだけ首を傾げた。不気味な姿かたちであるが、愛らしく見えなくも
ない河童の動作に識は思わず笑みを漏らす。
三方向から同時に飛び掛る七人ミサキを河童がすり足じみた高速移動で避ける。犲は
そこに向けて爪を振るった。河童の腕が裂かれ、緑色の体液が散る。思わぬ一撃に河童
は動きを止めた。識はその隙を見逃さない。
「こいつはいただいてくよーっ」
暗い廊下の先に向けて叫び、戟を抱えたまま識は犲に飛び乗る。
戟の脳裏に奈留の言葉が浮かんだ。ここで逃げれば、もう二度と彼女の隣で戦えるこ
とは無いだろう。指の震えはきっと七人ミサキが欠けたためではない。
言葉、声、匂い、全てを切り裂く。本人と遠く離れた心の中だからこそ、できた。
犲は、地を蹴った。
:
先に仕掛けたのは隆の方だ。一反木綿の巻きついた腕を絆那に向けて振り下ろす。絆
那は後ろに向けて地面を蹴ってそれを避けた。慣性に従って拳はコンクリートの地面に
叩きつけられる。コンクリートの方が亀裂とともに悲鳴を上げた。隆の体格には特別鍛
えているようなそれではない。絆那はコンクリートの地面に目をやり、汗を垂らした。
「何を仕込んでるんだ、とでも言いたそうだね」
対する隆の声は得意げなものだ。
「一反木綿は所謂“気”を発散させることができるのだよ」
しゅるしゅるしゅるしゅるしゅる。腕に巻かれた物の怪は自動的に解け、再び隆の周
りをふわふわと漂う。
「今のはその“気”を拳に乗せたわけ――――む」
言い終わるよりも先に絆那がハガネを構え突進した。黒い刃の導きが白い布に向けら
れるが、柔軟さに富んだ一反木綿はするりと刃の通り道から逸れる。
「話を聞かんというのはいかんな」
再び一反木綿の巻かれた一撃が見舞われる。左の腕でそれを受け止める。ハガネの加
護があるとはいえ、コンクリートをも砕く一撃に骨が鈍い音を鳴らした。隆は次々に拳
を繰り出す。その度、低い打撃音が響く。遅い繰る拳から頭を左腕で買い続ける。鳩尾
に叩き込まれた一撃に、絆那の口から胃液が漏れた。たまらずひたすらハガネを振り回
し、敵との距離をとった。
「はっ、はっ、はっ」
息を荒げ、頭を下げて一反木綿ごと隆を睨めつける。再び一反木綿は隆の手を離れて
いた。ハガネは催促するように絆那を急かすが、絆那の方は応えられそうにない。
漆黒の柄を握り直し、絆那は正眼にハガネを構えた。隆の攻撃手段は一反木綿の補助
を得た打撃によるものだ。物の怪と一体となった攻撃しかないのであれば、距離のある
状態ではリーチの差があるだけ絆那の方に利がある。
荒れる呼吸を息吹で諫め、絆那は前に出ている右の膝を少し曲げた。骨は痛んだよう
だったが、出血はない。ハガネは肉体の修理にも奔走しているようだ。ハガネ憑きは自
らの肉体で戦う分、その強化や治癒が著しい。痺れる左腕を一撫でし、絆那は再び隆に
向き直った。隆が絆那に疾駆する。気を発散させてしまう一反木綿は長期の戦闘に向か
ない。余裕ぶってハガネ憑きの回復を待っていたのでは逆に命取りとなってしまう。繰
り出されるブローを絆那はハガネを楯にして逸らした。逆に自らの左の拳を隆の鳩尾に
叩き込んだ。高級な生地のシャツにいびつな皺が走る。骨から脳髄に危険信号が渡るよ
り、瞬間的な痛みが奔るより、絆那の意思の方が速かった。慣性の理が腕を引くという
選択を不可能にする。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!」
絆那は拳を振りぬいた。吹っ飛ばされる隆の姿がスロー再生のようにゆっくりと視界
に映る。左腕の痛みは頭に無かった。
一反木綿が再び腕から解けていく。ハガネが絆那の腕を引いた。導きのままの逆袈裟
の動きが一反木綿を襲う。空中へ逃げるよりも、ハガネの方が速い。純白の物の怪が上
下に両断された。力なく、一反木綿の下半身がぽたりと落ちる。残った上半身が宿主の
気を吸引すべく隆のもとへ飛ぶ。
背を向けた物の怪に向け、絆那はさらに跳躍した。桐生絆那の形をした風が吹く。後
頭部らしき部位をハガネが一撃で貫く。ノヅチがそうであったように、模型が解体され
ていくように一反木綿の姿が消滅していく。絆那はやっと敵の撃退を理解した。
一息ついてから、隆のことを思い出した。物の怪の傷は憑依者にも与えられる。一反
木綿が消滅したとなれば、隆の命もまた消えてしまっているだろう。
はじめて、ひとを殺めた。
その意識が重く絆那にのしかかる。ハガネを持つ手が、どんな極寒でも有り得ないよ
うな速度で振動した。火の粉を払うのは絆那の役目ではない、と言っていた玲の言葉が
思い出される。隆の吹っ飛んだ方向に目をやることさえ躊躇われた。身体が横に真っ二
つになった上に頭に刀を突き立てられた死体など、考えるだけでも気分の良いものでは
ない。
絆那の足元に四つの亀裂が走った。足元がぐらつき、よろける。そこから姿を現した
のは巨大な土蜘蛛だ。
「一人で戦えるまでに成長したか」
土蜘蛛の背から長身の女性がふわりと飛び降りる。土蜘蛛憑き、牟田奈留。玲から聞
いていた恐るべき物の怪憑きを絆那は思い出した。玲でさえ苦戦し、逃走した相手だ。
自分が勝てるとは思えなかった。それでも、逃げられるはずのない相手だ。人を殺した
手に力をこめ、ハガネを再び握り締める。
「安心しろ。今お前と戦うつもりはない」
奈留の口調はやはり平坦だった。絆那の反応を無かったが、奈留はかまわず言葉を続
けた。
「先に、彼を救助させてもらう」
奈留が視線を向けた先には仰向けで倒れる隆の姿があった。頭に穴が開いてるわけで
もなければ、横に真っ二つになっている訳でもない。まだ生存が確かめられたわけでは
ないが、絆那は少しだけ胸をなでおろす。
「変わった物の怪だな。物の怪だけを斬るとは」
奈留が薄く笑うと、再び大地が揺れた。二度目の不意打ちに、絆那は思わず転んでし
まう。顔を上げた絆那の視界には、巨大な土蜘蛛も、百鬼夜行の物の怪憑きの姿も無い。
かくん。筋肉が急に機能を失ったかのように膝が折れる。満足したのか平穏なハガネ
を杖に、絆那はその場にへたり込んだ。
腫れ上がった腕が骨折していると気付いたのは、それからしばらくしてからの話だ。