桐生絆那が酸欠になるほど走りぬく頃、別の場所で市井隆は言葉を失っていた。土蜘
蛛に連れられて意識を取り戻したのは少し前のことだ。
目覚めてすぐ、隆は一反木綿の最期を思い出した。慌てて切られたであろう部分を手
で確かめるが、肉付きのよい腹には傷痕一つ無い。腿を上げるのも、膝を曲げるのも、
足の親指を上下させるのも造作も無い。腹から下、爪先に至るまで下半身には全く異常
は見受けられない。物の怪の力に目覚めて間もないはずの若造に敗北したことは、悪い
夢だったのだろう。
「満足かい?」
背後からかけられた声に、隆はびくりと反応した。声は男のものだった。慈しむよう
な、優しい声色だった。
隆はようやく自分の置かれている状況の変異に気がつく。腰が二十センチも沈もうと
いう柔らかなソファに横たえられていたのだが、そんな家具は屋敷には存在していない
はずだと思い当たった。
不安定なソファの表面に手をつき、上体を起こす。様子を見ていたかのように、同じ
方向からの声が続いた。
「君の話を聞きたくてね。奈留に無理を言って連れて来てもらった」
声の方向へと頭を向けるが、隆は声の主を視認できなかった。すぐ向かいに人間がい
ることも分かる。それが声を発していることも分かる。だが、声を発する本人の姿かた
ちだけが一向に情報として認識されない。
まるで、幽霊のようだ。
意識がそう判断を下した時、ざわつく背中はよりいっそう騒ぎ出した。目の前にいる
人間に敵意が無いことは理解していたが、ともすれば逃げ出してしまいたくなる。隆は、
その不気味さを知っていた。
「まだ落ちつかないかい? ……困ったな。もう三日も待ち通しなのに」
隆の怯えを見透かすような視線で、対する声は少しだけ変化を見せる。呆れをはらん
でいるようだ。言葉の割には声色に困った様子は無かった。
「とりあえず、君の物の怪を少し見せてもらえないか?」
相手の言葉を認識隆は相手に対する脳をフル回転させる。安堵したばかりの全身が、
今度は全く反対の反応を示した。無精髭付きの頬が醜悪なまでに引きつる。相手の言葉
を理解している。実行をせねばならないことも分かっている。隆は相手の言葉に従うこ
とは出来ない。宙を漂う一反木綿は、彼の中のどこにもいないのだ。掻き毟るように全
身に意識を駆け巡らせる。意識の信号は皮膚を潜り、骨を走り、指先や爪先、毛先に届
いては往復を繰り返した。
身体の中にはいない、ならば、外にでも浮いているのだろうか。繋がっていた心を通
じ、必死に相棒へと呼びかける。返信はない。顔に熱が集中する。声に出して一反木綿
の名を何度も何度も呼んだ。やはり、返答はなかった。
頭に血が昇ってきているのを自覚しながら、隆は叫ぶ。
「これは、これは、まだ、夢の続きなんだ!」
意識を失っている間に何度も拭われた汗が再びぽたりと落ちる。冷房を少し強くしよ
うか、という相手からの声を、隆は認識していなかった。ただ夢なのだと繰り返し、高
らかに笑うばかりだ。
悪い夢だから、傍らの相棒はどこにもいない。
悪い夢だから、知っているはずの彼の顔も確認できない。
声の主は、音ではなく溜息を吐いた。文字通り話にもならない。
奈留から絆那のハガネの力については聞き及んでいる。憑依者に傷を還すことなく物
の怪だけを切り裂く、という特質は彼にとって興味深いものだった。桐生絆那の物の怪
は、彼の知るハガネとは明らかに異なる。
ぱたん、と待つ間に何度も読み返したハードカバーの本を閉じる。特異なハガネの能
力は、目の前の惨めな姿によって立証された。
「市井君」
「はははは――――、は」
笑い続ける隆は、声の主からの呼びかけにようやく気付いた。視認できなかった相手
の姿が、今度ははっきりと認識できる。目の前にいるのは、均整の取れた体格に、未だ
少年のような幼げを残した青年だ。
姿を視認するとほぼ同時に、反射的に隆は飛び退いた。怖い夢ではあるが、怖い体験
は十分に堪能した。これ以上の恐怖を感じたくは無かった。強気に出ることも出来るは
ずだが、夢の中でさえ声の主に勝てる光景は浮かばない。自己の無意識が弾き出した結
論に、隆は腹を立てることは無かった。どんな物の怪憑きですら、彼に勝つことは不可
能なのだ。
怖い。ただそれだけが隆の意識を支配した。皺だらけになってしまった自慢のスーツ
がさらにくしゃくしゃになっても、隆はその事実に構わない。本能が鳴らし続ける警鐘
のもと、彼は声の主に背を向けて走り出す。敵意のないはずの手の動きとともに、隆は
転んだ。転んだおかげで、彼はまた一つ恐怖を得た。左肩から先が、完全に消滅してい
た。黒ずんだいびつな塊が音も無く足元に落ちていた。隆が視線をやるとともに、それ
は色の無い粒子となって形を失う。
悲鳴はなかった。咽喉も既にぼろぼろと崩れてしまっていた。
市井隆は、まぶたを閉じるよう意識に呼びかける。これだけ怖い夢を見たのだから、
明日の夢はきっと楽しい夢だろう。
「君はよく働いてくれた」
彼は小さくぽつりと言った。声は、隆の耳には届いていなかった。市井隆だった形は、
既に男の目の前には欠片も存在していなかった。
こつこつと大理石の床に足音をたて、残った男は身長以上の巨大な窓を開放する。
かつて空に惹かれた男だったものは風に溶けた。
「逢いたいな。彼らに。また」
:
「盟ちゃん痛いよー」
「うるさい黙れ。傷見せるな」
冬樹兄妹の部屋は不満で溢れていた。片手に包帯を握り、これ見よがしに袖を捲る哲
司に対し、盟は気だるげであるがぴしゃりと言い放った。彼女が着ているのは裾にレー
スをあしらったエスニック柄のワンピースだ。平素の運動のしやすさを重視する服装と
は、明らかに異なっていた。服装の違いも、思想に変化をきたすことは無かった。兄の
言わんとすることは理解していたが、その要望に応えてやるつもりは彼女には無い。
「放っておけば直るでしょ」
「いや、これ治りが遅いんだよ何故か」
「そりゃもう年ってことでしょ」
「酷ッ! 盟ちゃん酷い! お兄ちゃんショック!」
「ていうか気持ち悪いからそのキャラ止めてくれない?」
終わりそうに無い漫談に盟は溜息をついた。犲が襲撃してきたという話を哲司から聞
いてから、既に三日が経っている。その間も盟はほとんど百鬼夜行の隠れ家での生活を
余儀なくされていた。
捕虜、もしくは人質であるという立場だったが、盟の生活はほとんど不便の無いもの
だった。屋敷の人間の監視がついている点と屋敷の敷地外に出られない点を除けば、束
縛はほとんど無かった。食事は三食とも用意されたし、衣服はどこから調達したのか分
からないが手渡されている。仲間の情報について自白を強要されたわけでも、痛めつけ
られたわけでもない。報復の一つでも待ち受けていて良さそうなものだが、そういった
ものは唯一つの例外を除けばただの一つも無かった。
一つの例外とは、一反木綿の餌とされたことだ。屋敷の生活の際、隆は哲司の目を盗
み、脚の動かぬ盟の気を空腹の一反木綿に吸収させた。未だ脚が不自由なのはそれが原
因なのだろう。
嫌なことを思い出した。盟は拳を深く握り、奥歯をぐっと噛み締める。
:
「か、はっ」
首を掴まれ、背を床に押し付けられる。吸収される酸素量が極端に減少し、盟の意識
が自ずと空気を吸う方へと集中する。口は閉じず、無我夢中の両手は酸素を遮断する原
因を取り除こうと必死にもがく。圧迫する指を掴もうとするも、張り付いたかのように
首を絞める手は離れない。
涎や涙で意識が完全にぼやけた頃、ようやく肺に酸素が渡った。手が離されたらしい。
反射的に盟は肺いっぱいに空気を取り入れた。少しむせた。隆が呼吸と服装を整えて
いる姿が見えたのは、ほんの少し時間が経ってからだ。
「なんの、つもり」
瞬きをし、肩で息をしながら盟は言った。敵意を向けられるのは覚悟していたが、哲
司どころか奈留からも殺すつもりはないと聞いたばかりだ。そんな盟に対し、隆は短く
言い放った。
「いい気になるなよ」
憎悪の篭った視線が捕らえているのは、盟ではなく兄の哲司だ。当の盟はそんなこと
を知るはずも無く、できるだけの負の感情を込めて睨み返した。利き腕を支えに身を起
こし、不自由なままの脚を引きずりながら隆から距離をとる。屋敷の他の住人に比べて
一人大きく年上な目の前の男は、自分にとってかなり危険だ。
螺旋を描きながら、一反木綿が盟を覆うように漂った。迎撃しようとコダマを召喚し
ようとしたところで、掌に集まろうとした冷たい空気はぎこちなく消え去る。コダマの
力を使い続ければ死ぬかもしれない。哲司からの警告が、盟の動きを止めさせた。
「ふん」
鼻で笑うような声とともに、一反木綿が盟の体を締め付ける。もがく力は、たちどこ
ろに布の物の怪に抑制された。ただ締め付けられているだけなのに、急激に全身の力は
消失してゆく。
「く、ふ……ぅ」
絞り出そうとした声も、吐息となって掻き消えた。通常の人間よりも盛んに流れる物
の怪憑きの気は一反木綿にとってはご馳走だ。漁るように捕獲した盟の気を発散させて
は、僅かも漏らさぬように拾い続ける。際限なく弛緩し続ける身体さえもがいつか物理
的にも霧散するのではないかと盟には思えた。
「焦るなよ一反木綿、殺してしまっては後が大変だぞ」
愉快そうに隆が自分に憑いた物の怪に話しかける。その様子を認識していたが、盟は
発された声を言葉として認識していなかった。盟に分かったのは、声とともに物の怪の
食事が緩やかになったことだけだ。緩やかになっても食事そのものが止められたわけで
はない。少しずつ食われていく感覚は、真綿で首を絞められるようでかえって不快なも
のだった。
布の一端が盟の顔を這った。一度目の動きで涙や唾液が拭われ、同じ動きが拭ったも
のを顔中に塗りたくった。唾液や涙はすぐに気化した。不満であるらしい一反木綿は虚
ろな半開きの口に侵入し、新たな湿りに身の端を浸す。悔しさはあったが、噛み付く力
は顎に伝わらなかった。純白の物の怪に唾液の濁りが染み渡る。舌の輪郭をなぞり、口
腔の壁をねっとりと優しく叩く。
視界が白く染まり、次に黒くなっていく。緩やかではあったが、意識を保つ力さえ一
反木綿は吸い取ろうとしていた。見下す表情に向けて、最後に盟は視線で叫んだ。
あんたなんか兄さんの足元にも及ばない。
:
ふるふるとかぶりを振り、苦い記憶を頭から追い出そうとする。葵や玲ならばまだ納
得の出来ることなのだが、なぜ兄が出てきたのだろうか。強いことは認めているが、例
として挙げるには相応しくないような気がした。忘れたいと思えば思うほど、記憶の中
で最も苦く感じる部分だけがこびり付いて離れない。
気を紛らわせようと周囲を見回す。松葉杖のほかに視界に入ったのは、和装の部屋に
不釣合いなほど巨大なクローゼットと、いじけて包帯を自分で巻こうとしている兄の背
中だ。やはり一人ではうまく巻けないらしい。失敗して巻き直していた。黙って部屋を
出るにもきまりが悪い。記憶を掻き消すのに必死な現状では、眠りに落ちることも難し
いだろう。そもそもコダマを使うのを制されて以降、異常な睡眠欲はほとんど表に表れ
ていない。
覚悟を決め、盟はどんよりと濁った気分のまま、重々しく口を開く。
「あーもうっ。腕出せ、腕」
気分転換の無い部屋は、やはり不自由かもしれなかった。
:
本日もまた日が落ちる頃にトレーニングを終え、絆那は憩いの自室へと戻った。汗ま
みれのトレーニングウェアにも、もう慣れっこだ。腕の骨折や全身の打撲は二日ほどで
治ってしまっていた。改めて魔人と化してしまった自分に驚嘆を抱く。
食事も終え、あとは眠って体力の回復を図るばかり、そのはずだった。ドアがこつこ
つと高い音でノックされた。絆那が短く返事をすると、入り口が開かれた。
「お兄ちゃん、聞きたいことがあるんだけど」
不意に絆那の部屋に訪れた風音は、開口一番そんなことを言った。思い当たる節があ
り過ぎるだけに、絆那は視線を別の場所へ泳がせた。玲のように言い訳が上手いこと思
い浮かぶはずも無く、絆那にできることは口篭るほか無い。
長い黒髪を揺らし、さらに風音は詰め寄った。
「な、なんだ?」
「最近、何か隠してること無い?」
ベッドに腰掛けていた絆那に、ずいと顔を近づける。向かい合った視線が直後に別の
方向へと向けられたのを風音は見逃さなかった。自分に正直に妹を溺愛してきた絆那に
とって、風音への嘘というものは命がけの戦いよりも困難なものだ。脈拍が激烈に加速
しているのは、決して訓練によるものではないだろう。
風音は何事か言おうと口を開いては閉じる。何を話したらよいものか聞きあぐねてい
るのだと、絆那からも見て取れた。
「別に隠し立てするようなことはないぞ?」
何か風音が言うことを見つけるよりも先に、絆那は早口で言い放った。
「だって、変だよ。最近」
それだけを言い、口を尖らせる。その愛らしい仕草ごと平素の絆那であれば抱き締め
てしまっているところであるが、今の絆那にそうする気は起きなかった。
絆那は抱えているものを全て吐き出してしまいたい欲求に駆られる。正直に吐露して
しまえば、兄思いの妹は優しい言葉の一つもかけてくれるだろう。敵の襲来や味方の帰
還を待つばかりの辛い日々も、それでなんとか耐え抜けるような気がした。そんな甘い
妄想を打ち崩したのは、他でもない風音の台詞だった。
「盟がいなくなったことと、関係あるの?」
脳が揺さぶられたような錯覚を絆那は受ける。意識の中で冬樹盟という味方の存在が
除外されていたことに、全く疑いを持っていなかった。理由を思い返すと同時に、今度
は疑問が湧く。一反木綿憑きに襲われた日の辺りから、ぷっつりと周りの盟に関する噂
や詮索も消失してしまっている。別段新しい噂話が生まれたわけでもない。どんなに眠
かろうと律儀に登校する生徒が一人消息を断てば、それなりに大事になるだろう。
下降する目線が追うのは自分の靴下のつま先だった。丁度ほつれが見え始めていた。
「ねえってば」
返事をせがむ風音に対し、絆那は苦笑交じりに返答した。
「なんでもない。ちょっと疲れてたみたいだ。盟のことは関係ないよ」
動揺の割に自分でも驚くほど自然に出た嘘だった。数秒前にボロボロの言葉を出した
だけに、自然さはよりいっそう強調される。風音にも疑う様子はなかった。培っていな
いはずの計算だが、その対処は冷静なものだ。
「何で急に盟のことを」
絆那の声は落ち着いたものだった。話題を限定すれば、そこから話の転換点が見つか
るかもしれないと思えたからだ。
「てっちゃんに会ったんだもん。ちょうど、この間」
風音からの返事は、絆那の心臓に再び急激な運動をさせた。聞きなれない呼び名では
あったが、それが誰を指し示すのかなど考えるまでも無い。
「暑くなってきたのに真っ黒い長袖のシャツ着ててびっくりした」
「でね、全身真っ黒なんだよー。コートも黒いって言ってたし」
「でも髪は盟と同じ色なの。きれいな茶髪。やっぱ遺伝なんだねー」
ささやかな笑みが生んだ続きの言葉が絆那の懐疑の裏づけとなる。季節感をまとめて
どつき倒したような黒尽くめの奇異な格好の男など、他に思い当たらない。哲司は間違
いなく風音と接触している。迂闊だった。絆那が間をおいて思考を再開させ、最初に弾
き出したのがその言葉だ。
それ以上に、改まった意識に腑に落ちない点があった。風音と哲司は以前からの知り
合いであるらしい。口ぶりは絆那もそれを知っていて当然というようなものだ。
「なんで、お前が哲司さんのことを知って」
微かな絆那の疑問に対し、風音の表情ははきょとんとしたものに変わる。
「え? だって昔一緒に遊んだりしたでしょ」
あっけらかんと言った風音の言葉は、今度は体温の上昇を沈静化させた。盟と幼馴染
なのだから、その兄と知り合っていておかしくは無いはずだ。その結論に疑問の付け入
る余地は無い。絆那は何度もそう言い聞かせた。自分の過去の記憶に幼い哲司の姿が無
いことは、追求しないことにした。同時に、あるべき姿が一つ無いことにも気付かない
ふりをした。
神楽玲が帰ってきたのは、その日の深夜のことだった。