玲が絆那のもとに戻ったことを、土蜘蛛はすぐに拾い上げた。奈留には玲たちの行方
が知れなかった訳など見当もつかないが、どうでも良いことだった。仮に絆那を囮とし
た罠だったとしても、それには既に隆が餌食となっている。それも、餌の方にに返り討
ちに遭うという結末でだ。
既に桐生絆那の戦闘力は軽視できるものではない。牟田奈留は迷うことなく判断を下
した。隆は純粋な戦闘員ではないが、覚醒したての物の怪憑きに敗れるほど弱くも無い。
潜伏を続ける土蜘蛛が戦いたがっているが、奈留はそれを無視した。玲が絆那のもとに
戻った以上、好戦的な相棒の思うがままにさせていては隆と同じ結末を迎えるだけだ。
自分に憑いた土蜘蛛を特別好いている訳ではないが、むざむざと斬らせてやる道理もな
い。
思うところはもう一つあった。哲司から伝えられているヤマビコ憑きの存在だ。近頃
になって哲司が捕らえてきた盟のせいで、哲司の部屋は何かとやたら騒がしい。ただ騒
がしいだけならばまだしも、栄養のつく食事やら衣類の調達までも哲司は奈留に任せて
いた。戟が消息不明になって負担が減ったのは事実だが、捕虜である盟の世話が追加さ
れているので負担量の変化はほとんど無い。断り切れず引き受けている自分が物悲しい
と同時に、分かっててやっているであろう哲司が腹立たしかった。奈留が戦闘に対して
乗り気になれないのは、そういったことも一因であったりする。
「奈ー留ちゃーん」
間延びした声色で名を呼ぶのは、始末が悪い黒尽くめの同僚だ。間を置かずお茶が切
れたと子供のような我侭が飛んでくる。本日も退屈な索敵していた土蜘蛛を引かせ、縁
側に座り込んでいた奈留は重い腰を上げた。
月は雲の後ろにある。明日の天気は崩れるだろうか。奈留は、そんなことを気にした。
:
深夜のやや肌寒い空気は室内にも侵入していた。季節の変わり目は昼と夜の温度差が
激しい。絆那は洗ったばかりのジャージの上着を着用していた。
「んじゃ、乗り込もうか。これから」
「はあ?」
事の顛末を聞いた玲の一言はそれだった。予想もしていなかった玲の言葉に、絆那は
口を開けっ放しにしてしまう。
まず、場所の特定が不可能だ。一反木綿との戦いの直後、土蜘蛛が現れた穴を既に絆
那は調べていた。当然のことだが、途中で道は潰されていた。問題はそれだけに留まら
ない。敵地に乗り込むにはあまりに強行軍であり、帰ってきたばかりの玲が疲労してい
るかもしれないことが絆那の懸念だった。
二人で文字通りの暗中模索をするには条件が悪すぎる。
「向こうだけこっちの場所知ってるのなんて不公平だもんね」
「まさか、お前探知できるのか?」
「無理。遠すぎ」
絆那がふと抱いた希望は、一秒にも足りない時間で粉砕された。なまじ期待が高まっ
ていただけに、絆那はがっくりと肩を落とす。
何事か言いたげな絆那を尻目に、玲は携帯電話を取り出した。他から力を借りるのは
不本意だったが、やられっ放しは彼の好むところではない。二つの不本意を秤にかけた
結果、プライドを捨てることにした。一度の負けくらいならば彼の楽しめる内に入るが、
逆転の方がよほど楽しめる。
何も説明せずに携帯電話を操作する玲に、絆那は時間も忘れて掴みかかった。
「おい、説明しろよ」
「声、もうちょっとボリューム下げなよ」
「何を……っ!」
バランスを崩しながら、玲は隣の部屋を指し示すように壁を指差した。壁にかかった
時計の針は二つとも限りなく上に近い方向を向いている。未だ眠りについていない学生
は多くいるだろうが、それは騒いでいい理由にはならない。絆那は言いかけたまま口を
つぐんだ。
どうにも気が立ち易くなっているようだと絆那は感じた。黒い輝きが脳裏を掠めたが、
盟が攫われているからだとすぐに結論付ける。ベッドに腰を下ろし、冷静さを欠くなと
何度も自分に言い聞かせた。
一般的には非常識な時間帯であったのだが、相手はさして間を置かず応じた。トーン
を下げた玲の声が二言三言ほど続き、通話は切られた。相手から必要な情報を得られた
らしい。次に玲は絆那に視線を向けた。
「ちょっと遠いみたいだけど、どうする?」
携帯電話をしまいながらの玲の語調はやや挑戦的なものだった。刃の相棒も期待する
ように煌く。絆那の答えは、聞くまでも無い。心強い仲間の帰還のためだろうか、敵に
対する怯えは消えていた。
数分と待たず、窓から二つの人間の形をした風が飛び出した。風は冷たい空気を切り
裂き、人にあらざる速度で駆け抜ける。最大限に発揮した物の怪憑きとしての能力は知
覚をも拡張させた。最大速の中では空気の壁が視認され、またその視覚情報は冷たさを
帯びていた。触覚と視覚が混同したかのように絆那は感じる。不謹慎ながら、面白いと
さえ感じた。ついでに隣を走る玲に少しだけ嫉妬を抱いた。何せ隣の友人は絆那に戦わ
せまいという配慮があったとはいえ、この面白い世界を内緒にしていたのだ。誰に見止
められることもあるまい、と黒い刃を絆那は呼び出した。刃の形のぶんだけ、さらに切
り裂く風が広がる。隣の意地悪な友人は渋った表情をしているだろう。困らせることも
どこか心地良かった。
桐生絆那は物の怪の力に魅入られていた。冬樹盟を助けるのだということは、この時
だけは彼の頭から抜け落ちていた。
月の隠れた夜は、人間を二人隠すのに十分すぎるほどに暗い。意思と姿を持った風は、
許されるがままに駆け抜ける。
二回りほど大きな異形がその行く手を遮ったのは、その少し後のことだ。
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やたら寝つきのいい盟が眠りについた頃、土蜘蛛を介して奈留は二つの物の怪憑きの
気配を感じ取った。動きに迷いは無い。真っ直ぐに屋敷に向かってきているのがすぐに
理解できた。
自分だけが持っていて益になる情報でもない。奈留は土蜘蛛を潜ませた庭から離れ、
哲司のもとへと向かった。
「冬樹、敵がこちらに向かっている」
「あ、やっぱり」
自分に多大な原因があると自覚した上でへらへらと笑う哲司に、奈留は視線だけで抗
議をした。説教の一つでもかましてやりたいところだが、それで治るような性格でない
のは既に思い知っていることだ。溜息も出尽くしている。
「で、その敵は? 絆那君と玲君かな」
視線の棘を意に介さず、哲司はのったりと奈留に問いかけた。冷茶が注がれたグラス
を口の方向へ傾け、こくりと一口小さく飲み込む。
「ああ。どうやらこちらの“音”を拾われたようだ」
奈留は哲司の部屋の方向に軽く視線を移す。盟が味方に補足されることを狙った上で
屋敷で騒いだのかと思ったが、すぐにその考えは捨てた。屋敷の中で五月蝿かったのは
むしろ哲司の方だ。ヤマビコ憑きに見つかったのは哲司が原因となっている可能性が大
きいだろう。今指摘したところでどうにかなるものでもない。
土蜘蛛を地中から引き、奈留は再び庭に出た。地中より異形の土蜘蛛が姿を現す。奇
襲をかけるのであれば、今すぐにでも実行可能だ。
「迎撃に向かうぞ」
「なんでよ? もう場所は知れてるし向こうの目的は盟だぞ?」
「この場所を戦場にしたくない」
土蜘蛛の力で地中から向かおうとする奈留の肩を哲司は掴んだ。
「向こうに玲君がいることを忘れるな」
哲司の声からはふざけた語調は抜け切っていた。
駆け出そうとした奈留は思わず動きを止める。土蜘蛛の力を使って地中から奇襲をか
けようとしても、玲の感知能力にすぐ気取られてしまうだろう。下手に動けば悟られる
ということは既に分かりきっていることだ。
「それに、だ。もう一度言うが玲君たちは盟を取り戻しにやって来る。極論すれば俺た
ちと戦わずに逃げ回っても良い訳だ。盟を奪えば良いだけなんだからな」
奪還を主な目的としている以上、その対象から離れることは得策ではない。他に屋敷
の守りを固める役割の人間でもいれば別だが、屋敷には物の怪憑きは二人しかいない。
対する敵の実働部隊も二人だが、柊葵やヤマビコ憑きが動かないという保障もない。様
子を伺っているうちに、いつの間にか不利に追い込まれていた状態だ。
奈留は奥歯を噛み締めた。敵を待ち受けることなど、思ってもいないことだった。百
鬼夜行の首領本人から屋敷を預かっている身としては、敵を侵入させることは許せるこ
とでは無い。哲司が敵である妹を連れてくるなどということをしなければ悔しい思いを
しなくても済んだと思うと、余計に腹が立った。
「悪かったな。俺のせいで見つかったみたいで」
見透かしたかのように、哲司は謝罪の言葉を口にした。目をやれば、哲司は爪が白く
なるほどに空いている方の拳を固めていた。哲司本人も状況が芳しくないことは把握し
ていた。
「別に。お前はそういう奴だ」
声のトーンを落とし、落ち着いた声で奈留は答えた。そう言った途端に哲司の表情は
明るくなる。何度目か分からないような遣り取りだったが、不思議と奈留に不快感は無
かった。
「ありがとな、奈留ちゃん」
拳の硬さが取れていないことには、奈留は気付かなかった。
そこで奈留の指がピクリと動いた。指は硬直して動こうとしない。土蜘蛛の探査網に
新たな気配がかかった。
柊葵だろうかと瞬時に疑うが、それにしては向かう方向がおかしい。こちらの手勢を
知らないとはいえ、屋敷に向かう方が効率的なはずだ。だというのに、新たな気配は疾
走する二人の方へと移動していた。
「どうした? 奈留ちゃん」
「新しい気配だ。数は二つ」
「柊葵か?」
「いや、片方は馬苗のものだ」
「何だと?」
解けたと思われていた哲司の緊張が復活した。もう一つの新しい気配の正体として思
い当たる人間は他にいない。奈留には識が生きていることを知らない。戟が攫われた際
の侵入者の正体は掴めなかったと哲司は伝えていた。
「加勢だろうか」
「それはないな。片方は戟なんだろ?」
ぽつりと言葉にする奈留に対し、哲司は即答した。戟は哲司から物の怪憑きの戦闘訓
練を施されたこともある。百鬼夜行に対して弓引くことは有り得ないと哲司が考えても
おかしくはない。
「随分と信用してるんだな」
「まーね。俺が教育したんだぜ?」
奈留の言葉は続かなかった。おかしい点は見当たらないはずなのだが、どこか違和感
めいたものが付き纏っている。宙に泳がせていた視線を哲司の方へと戻すが、奈留は違
和感の正体を掴めなかった。
哲司は包帯の上から腕を擦った。犲の爪に裂かれた傷は未だ再生の兆しを見せていな
い。脚を貫かれた盟の傷が塞がっていることと比べ、明らかに治癒が遅い。
痛みはあるが、戦闘に支障を来すほどではない。捲っていた袖を戻し、拳をようやく
脱力させる。
「冬樹」
「んー」
返事をしようとした哲司の頬を無機質な槍が掠めた。床を突き破った土蜘蛛の足だ。
「何のつもりかな?」
「お前は何を隠している」
柔和な笑みに対するのは、穴を開けるような視線と口調だった。
屋敷を預かっている奈留が床に穴を開けることは、生真面目な性格からすれば考えに
くいことだ。非常事態であることを察し、哲司は表面だけの笑みを消し去った。
「隠す? なんのことだ」
哲司の問い返しに対する答えは土蜘蛛の二本目の足だ。今度は哲司の腹の手前で止め
られた。
「普段からふざけ通すお前が、馬苗の話になると急にふざけるのを止める」
「弟子の心配をして悪いかい? っと、三本目は勘弁しろって。怖ぇ」
臆さず、哲司は飄々と答える。まともな防御もなく土蜘蛛の打撃を受ければ怪我で済
まない。奈留の行為がこれ以上に無い警告であることは哲司も理解していた。下手な嘘
や退く態度も逆効果になるだろう。それでも、哲司には犲のことを打ち明けるつもりは
なかった。識との決着は自分ひとりで着けるつもりだった。犲に一度は敗れたが、それ
で河童が劣っているなどとは微塵にも思っていない。
そんな哲司の意向は構わず、土蜘蛛は横薙ぎに一本目の脚を払った。頭を強打し、哲
司は床に叩きつけられた。
抵抗は一切無かった。受身も取らず倒れた哲司は伏したまま動かない。
「こーいう話は後にしろって。状況分かってる? 一人で戦う気か?」
哲司は姿勢を変えずに言葉を発した。発声に濁りは無い。土蜘蛛が加減したこともあ
り、ダメージそのものは大きくは無いようだった。哲司の言うことの方が正論だと奈留
も分かっていたが、納得はしていない。文句に対しては一切の返事をしなかった。
奈留を支配しているのは苛立ちだ。目の前の河童憑きの男と関わる度に調子が崩され
る。冷徹なる自制の心に、綻びが生じているのが自分でも理解できていた。ただの戦闘
員としての奈留であったなら、物の怪をやられ半身が不随となった同僚を気遣ったりな
どしない。捕虜の衣食の世話をしたりもしない。余計な心労がかかっている原因は全て
目の前の黒尽くめの男にある。
土蜘蛛憑きの牟田奈留は百鬼夜行の幹部だ。それは土蜘蛛という強力な物の怪による
ものもあったが、冷徹にして残酷な性格が買われたためだった。奈留は幾度となく物の
怪憑きの命を奪った。仲間であるはずの周囲からも恐怖を知らない娘と恐れられ、それ
を自覚し、土蜘蛛を駆った。奈留本人も仲間との馴れ合いを好まなかった。寄ってくる
人間はいたが、そういった人間は彼女にとってむしろ煩わしい部類だ。哲司は寄ってく
る割に自分を明かさないのだから、奈留にとって心の底から歓迎したくない相手だ。指
令が下っているのでなければ、組んで動くなど決してない。
内心は眼を伏せることで隠した。奈留は、ぽつりと言った。
「戦闘はできるか?」
「頭とかズキズキするけど、なんとか」
「そう、か」
哲司は頭を撫ぜた。こぶを指で見つけ眉をしかめる。受身を取らなかったのが災いし
たのか、背中も痛んでいた。哲司は軽く呻いた。
「悪かった」
奈留は踵を返した。哲司からの返事を聞いてから、頭を冷やすべく庭に向かう。土蜘
蛛も地中でそれに続いた。
馴れ合いは好まないところであるが、仲違いはもっと嫌いだった。