風の流れを塞き止めたのは、真紅の身体を持つ猛獣だった。光源は古びた街灯一つだ
けの暗い道だったが、その物の怪はそれ自体が光を放っているかのように絆那たちの視
界に鮮やかな赤を誇っていた。
「ん、一応、はじめまして。かな」
 言いながら、犲の背から長い髪を揺らしながら識が飛び降りた。かつてノヅチが二人
に襲い掛かったことはあったが、絆那や玲には識本人との面識はない。顔に残った傷痕
に思わず注目してしまい、次に絆那は目を逸らした。
 絆那は既に具現化していたハガネを構え、玲はトビモノを空に浮かべる。警戒する絆
那を尻目に、玲は一歩前に出た。
「あんた、狗神憑きって奴?」
「何それ」
「親のどっちかが物の怪憑きだったりしてないか?」
「さあ? 忘れちゃった」
 一人蚊帳の外に置かれた絆那は、僅かに左脚を後ろに下げた。相対する相手に敵意は
無い様子だったが、相手が百鬼夜行の人間でないと保障されたわけではない。
「薄情者だな」
 純白の身体が不定形の紅蓮を帯びた。絆那が相手を計りかねているのを玲は把握して
いたが、それに付き合うつもりは彼にはない。行く手を阻むものは何であろうと蹴散ら
すつもりだった。
 トビモノの火炎放射が犲を襲う。犲は垂直に飛び上がりそれを回避した。間を置かず
空中の獲物に二度目の炎を見舞う。
「おい、玲!」
「こいつ、前のノヅチ憑きだよ」
 諌めようとする絆那に対して、玲は短く言い放った。言われた絆那は、一拍遅れてか
ら戸惑いを浮かべる。
「なんで、だって、物の怪って憑いた人間と繋がってるんだろっ?」
 玲の言葉に向かい、絆那は有り得るはずがないと主張した。かつて自分たちを襲った
ノヅチはハガネの刃によって消滅した。ならば、それに憑かれていた人間が生きている
はずが無い。そもそも止めを刺すより前、ノヅチ憑きの人間は哲司が殺したのだと絆那
は盟から聞いている。
 哲司が仮に仕留め損ねていたとしても、ハガネがノヅチを切り裂くところを絆那は最
も近くで目撃している。ノヅチ憑きが生きているはずが無い。
「それに、あの物の怪はノヅチとは全然違う!」
「俺はさっきまでのプチ旅行の間にあれと戦った。あれは人に憑く物の怪じゃない」
 質問に対する答えになっていない。絆那を無視するかのように、玲は視線を犲から逸
らそうとはしなかった。
「それ、どういう」
 言葉は飛来に遮られた。犲は炎を纏ったまま落下し、玲に向けて爪を振り下ろす。玲
はトビモノの甲冑で爪を防いだ。甲高い金属音が響き、犲は大幅なステップで主の下へ
と戻る。
「あやや、残念。仕返ししたかったのに」
 妖犬の体毛の焦げを撫でつつ、識は子供のような笑みを二人に向けた。
「ノヅチに比べると不意打ちは苦手なんだよね。縮まないし」
 犲は特大の炎に焼かれたはずだった。だというのに、感覚を共有しているはずの識は
眉一つ動かさない。
「ま、あれはあれで便利だったってことだね」
 犲は全身に水を浴びた犬のようにぶるぶると体毛を震わせた。火の粉らしい緋色の粒
子が空に舞う。妖の獣は主に対する気遣いを持ち合わせてはいないようだった。火の粉
が至近距離で飛び散っても、識は全く動じない。
「追跡やら奇襲やら色々やられたからね」
 先手の攻撃を防がれた玲だったが、その声色は穏やかなものだった。
 絆那と玲のことは全く気にかけていない様子で、識は犲を撫で回す。犲の毛並みの中
にトビモノの火が潜んでいることを考えてのことだろう。トビモノは温度の概念を超越
したような炎さえも生成する。犲が知覚しないような炎を仕込んでおくことも可能なこ
とだろう。
 玲は表情に出さずに心の内で舌を打った。最初の攻撃で炎を仕込んだりはしなかった
が、手の内の一つが相手に知られているのは好ましくない。
「ところでさ、君たち誤解してるよね。間違いなく」
「誤解?」
「今のわたしは百鬼夜行じゃないんだよ。裏切って抜けてきちゃった。あ、もちろん信
じてくれるとは思えないけどねー」
 いたずらが成功したかのような笑みとともに、識はあっさりと言い放った。玲はおろ
か絆那も自身の物の怪の姿を消そうとはしない。彼女の言葉通り、敵の言葉を信じるつ
もりなど欠片も無かった。
 刃の物の怪が次は自分の番だと絆那を急かす。両手で握り直すことで主は獰猛な刃を
制した。哲司との戦いの時のように暴れ回るのは絆那の望まないところだ。
「じゃあアンタは何の用で俺たちに近付いたんだ」
 沈黙は短かった。玲はトビモノの炎を消火させて識に問いかける。
「んー、交渉かな」
「断る」
「早いなおい!」
 ツッコミが飛んだのは絆那の方からだった。
「おー、ナイスツッコミ」
 識が絆那に向けて親指を立てる。敵に褒められてもあまり嬉しくなかった。
「こっちは急いでるんだ。話を聞いてやるつもりもないね」
 識と絆那の遣り取りは無視することに決めたらしい。玲は冷静だった。識はオーバー
リアクション気味に肩を落とすと、溜息混じりに呟く。
「ただちょろっとハガネで斬ってほしいだけなのになあ」
「よし絆那、あいつ斬っちゃえ」
「は? え?」
 間髪を入れない玲からの声に絆那はしどろもどろになる。識の言葉の意味をそのまま
受け取っていいものか判断に困っていた。
「あ、違うよー。斬ってほしいのはわたしじゃなくて」
 弾んだ声でにぱっと笑う。絆那はいつの間にか犲が姿を消していることに気が付いた。
 数秒の後、犲が再び飛来した。その背には、また別の人間が乗せられている。
「こいつの物の怪」
 玲の表情に初めて変化が現れた。顔をしかめ、必死に犲の背にしがみつく男を睨み付
ける。
 犲の背に乗っていたのは七人ミサキ憑きの馬苗戟だった。識と同じような白い服を着
用していたが、識のような異質さは彼に無い。頬のこけた顔はむしろ玲の姿に怯えを浮
かべている。
「そっちのトビモノ憑きは知ってるんだっけ。憐れだよねー」
 同意を求めるような話しぶりだったが、玲はそれに答えない。戟に不自由の烙印を押
したのは他でもない玲だ。識の狙いが分からない玲は、何も話そうとはしなかった。
 絆那は言葉を発さない。自分の鼓動が速くなるのを感じていた。ノヅチを殺されたは
ずの識は生きている。一反木綿を切り裂かれた男も、命までは奪われなかった。その後
に現れた土蜘蛛憑きは、ハガネを物の怪だけを斬る物の怪と言っていた。
 識は目の前のやつれた男を物の怪から解放してやろうとしているのではないか。絆那
は何事か話している玲を無視し、黒い刃を携えて玲と識の間に入り込んだ。
「そいつの物の怪を、出してくれ」
「肝心のハガネ憑きの方はやる気みたいだけど?」
 識の視線は玲に向く。玲は拗ねたように勝手にしろと言葉にした。
 戟と識がいくらか言葉を交わした後、三体の骸が絆那の前に立った。物の怪が複数で
あることに絆那は内心驚いたが、斬るということには変わりは無い。玲は呆れたように
視線を外した。絆那に七人ミサキのことを伝えるのを忘れたのだろうか、と記憶を反芻
する。
 音ならぬ音を絆那は聞いた。それは相対する人間の姿をした物の怪が発しているのだ
と理解する。これから斬り捨てられることに対する嘆きだろうか。人間の姿をしている
上に無抵抗なだけに僅かに感傷が生じる。黒の妖刀は主の無駄な感情に気付いたかのご
とく煌いた。刃の形の影が、ちらちらと絆那の視界に移る。
 空気以外のものを切り裂けることを、ハガネは喜んでいた。
 眼球に更に血が通うのを絆那は感じていた。絆那は握力でハガネを制する。狂戦士と
化す舞台ではない。
 ハガネのもたらす衝動には波がある。大きな時は抑えるどころか抗うことで手一杯に
なるが、波が小さな時はさほどでもない。切り裂くことに飢えているらしいハガネの欲
求が肥大化しようとするのに必死で耐え、爪が白くなるほどに強く柄を握り締めた。
「で、交渉ってことはこっちにも何か利益はあるんだよな?」
 思い出したかのように玲は口を開いた。ただハガネの力を披露するだけならば、それ
は時間の無駄でしかない。
「相手側の情報でもいる? いま二人しかいないけどねー」
 自分側の要求以外は頭に無かったらしい。識からの提案は明らかな思いつきだった。
「いらん、間に合ってる」
 玲は眼鏡のずれを指で直しながら即答した。二人しかいないという点は初耳の情報だ
が、それは黙っていることにした。数が二人となれば正体にも予想はつく。視界に細く
黒い異物が入り込んでいる。何かと思ったら、レンズに抜けた睫毛が付着していた。一
度眼鏡を外し、レンズに息を吹きかける。睫毛は綺麗に飛び去った。
「そうだな、じゃあ俺たちに二度と関わるな。これで」
「やだ」
 識も即答した。同時にぷいっと横を向く。容姿や気配に異形らしさが加わっても、識
の仕草は子供っぽいままだ。玲はトビモノを自分から離した。
 玲の網は識の気配を拾い上げている。数歩ほどで触れられるほど近くに存在する濃厚
な気配は、数々の異形の気配を知っている玲にとっても、尚異質なものだった。常に空
腹を訴えているはずのトビモノの食指も動かないようだ。玲の周りを浮遊する姿は、異
なる食文化に戸惑うリアクションを思わせた。
 気配から識を測っていた玲に向け、識は何事か呟いた。強化された聴覚でも聞き取れ
ない言葉に、何のことかと玲は向き直る。視線の先に識の姿は無かった。巨大な獣だけ
が大人しく座り込んでいた。
「やっぱり、変わった匂い」
 声は耳のすぐ後ろからだった。穏やかなくせに恐怖を与えるほど冷たい。玲は振り向
かずに驚嘆した。肩に白い掌が乗せられているのに、更に遅れて気がつく。玲の感覚は
識を捉えていたはずだが、識は玲の背後にいる。彼女は瞬間移動を行ったか、人間の知
覚よりも速く動いたことになる。感覚が鋭くなっているという点においては、強弱はあ
れど条件はあれど同じだ。後者の可能性は考えられない。
 停止してしまいそうになる思考を無理に働かせ、玲はトビモノの口を開かせた。
 識は純白の甲冑の奥に広がる闇に怯まんでいない。肩から伝わる掌からは何の変化も
感じられなかった。固まったのは玲の方だ。
 彼女は既に死んでいて、今後ろに立っているのは亡霊ではないのか。玲の思考が揺ら
ぐ。湿り気を帯びた小さな呼吸が耳に届いているのに気付き、疑問は打ち消された。全
身の感覚を正常化させるべく勤めると、心の波紋は次第に小さくなる。背後の犲憑きは
丸きり未知の存在だが、言い換えれば新たな知識の宝庫だ。考え方を改めると、今度は
好奇心が湧いた。玲は振り向き、思いついた相手側の条件を提示する。
「あんたのことを聞きたい」
「あ、おねーさんに興味津々?」
「その物の怪、どうやって手に入れたのか聞きたいだけだ」
 からかい口調の識の言葉を、玲はばっさりと切り捨てた。
 一方の絆那は、未だハガネとのにらめっこを続けていた。よぷやく今しがた手の中の
相棒が鎮まった所だ。
 顔をハガネから七人ミサキに向ける。視界の隅に怯えをたたえる戟の姿があるが、絆
那はそれを見なかったことにした。物の怪を斬られれば憑いた相手にも傷を与える。物
の怪に斬られればどうなるかは、当の本人がもっともよく知るところだろう。
「いくぞ」
 短く、絆那は宣言した。反応は鈍いが、ハガネは承諾したかのように金属音を鳴らす。
 踏み込む。初撃は音も無かった。絆那から見て向かって左の骸が逆袈裟の形に真っ二
つになる。七人ミサキの治癒力も、全てを切り裂くハガネが無効化する。
 犲の背の戟が甲高い悲鳴を上げた。切断と停止した再生が恐怖をもたらした。痛みが
無いことには、未だ彼は気付いていない。悲鳴を無視し、今度は隣の骸に向けてハガネ
を振り下ろす。抵抗もない七人ミサキが縦に断たれる。
「やッ、やめろぉッ!」
 犲の背から叫びが上がるとともに、最後の一体が拳を振り上げた。人間の形をしてい
ながら鈍器に匹敵する威力を誇る拳を、絆那はハガネの刃で受け止めた。たとえ人間の
姿と言えども只ならない攻撃力を持つことを、絆那は一反木綿との戦いで学んだ。叩き
つけた手の方が刃の形に裂かれる。
 手首まで裂かれた拳からは、赤黒い体液が力なく流れた。もし人間だったならば、血
が盛大に吹き出る。斬ったのは異形であることを認め、絆那は心置きなく刃を振るって
いいのだと再確認した。足元に倒れている切り裂いた骸たちも、未だ痙攣しているかの
ように不恰好に運動する。まだ止めを刺すには至っていない。臓物ごと切断しても、縦
に裂かれても七人ミサキを死に至らしめることはできない。ならば、

 細切れにしてやる。

 思考の雫が落ちると同時に、絆那の刃は自由になった。
 頭に刃をぶち込んでも、骸たちは運動を停止しない。それどころか、攻撃をしてきた
相手に向かって反撃を試みようとする。的としての機能しか持たない物の怪は、ハガネ
のフラストレーションの発散に都合のいい相手だった。七人ミサキはもともと素早い物
の怪ではない。加え、今は不完全な状態でさらに動きを鈍らせている。神速の刃と鈍重
な骸とでは、絶対的な速度の壁があった。
 風切り音、そのたび躯の傷は増えた。振り下ろされる一撃を避け、その脚で倒れた一
体を踏みつける。踏まれた一体が足を掴んだが、絆那がハガネを振るうと腕と胴の結合
が切り離された。縦に真っ二つに割られた一体と拳を失った一体が同時に襲い掛かる。
絆那は自分の身を軸に、刃で円を描いた。躯たちの傷は薄皮ほどの浅さに留まるが、牽
制としての役割は十分に果たす。二体の死体が動きを止めるのとほぼ同時に、足の下の
躯を蹴って絆那は跳躍した。落下の慣性のまま、絆那は刃を別の一体に突き立てた。
 黒刃の軌跡が一つ増えるごとに七人ミサキの体積が小さくなる。本能に任せた動きは
獣さながらだ。純粋な破壊という点からすれば無駄が多いが、それは人間を超える速度
が補う。ハガネはただひたすらに主の斬撃のみを求め続けた。
「すごいね、あの子。なんていうかバーサーカー?」
 傍観者に徹している識の声は弾んでいた。
「主にあんたのせいだけどね」
 絆那のハガネが覚醒したのはノヅチによるものだ。冷めた意見を突き刺すように投げ
かけるが、識は気にしていないようだった。
 声は冷静だが、玲の表情は険しい。絆那の戦い方はわざと戦いを引き延ばしているか
のようだ。嗜虐的な戦い方は気性の穏やかな絆那らしくないし、弱った七人ミサキの生
命力にハガネの攻撃力が後れを取るとは考えにくい。
「楽しそうだねー」
 玲は戦慄した。識もまた同じ印象を抱いている。
 削られていく七人ミサキに向かって、戟は涙交じりで喚く。もし彼が冷静さを失って
いなければ、自身の変化に気付いていたかもしれない。不随となっていた脚への神経伝
達は正常化され、全身の皮膚も犲の毛並みの感触を違わず伝えている。頬のこけていた
顔に血色が戻ったことを、識はささやかな視線で確認する。
「もういいかな、もったいないけど。戻れー」
 識が呼びかけると、犲は一啼きして識のもとへと跳ぶ。突然のことに戟は驚き、七人
ミサキへの集中を途切れさせた。同時に七人ミサキの気配が消失する。あらゆる部分を
切り刻まれた躯は、すでに原形を留めない肉の塊だった。
「終わったか。それじゃこっちの要求に応えてもらうよ」
「そんなに聞きたい?」
「怒るよ」
 茶化す識に向け、玲はトビモノの口を開かせた。見返りがなかったのなら、今までの
絆那の大暴れはまったくの時間の無駄と化す。
「はいはい、積極的だねー」
 事の始まりはハガネがノヅチを仕留めたときにある。ノヅチが消滅したのと識が息を
吹き返したのは、ほぼ同時のことだ。自分の蘇生は理解していたが、実際に目覚めたの
は病院のベッドの上だった。世間的に原因不明とされたノヅチの破壊行動の被害者の一
人として救助されたのだろう。識は目が覚めると直ぐに逃亡した。憑依していた物の怪
は失っていた。驚異的な治癒力や強化された感覚も完全に鳴りを潜めていた。顔の傷痕
が残ったのは、ノヅチの消失のためだろう。
 犲が現れたのは、助けを請いに屋敷に戻る最中でのことだ。物の怪であるということ
以外の認識はまったく起きなかった。ただ、識はその場で力を求めた。
「その結果がこれ。簡単でしょ」
 玲は一分足らずの間考え込んだ。
 絆那のハガネという例外中の例外のせいで答えが出てこない。犲のことをよく知る訳
でもない。知るのは、犲が人に憑く物の怪でないということだけだ。後天的に憑く物の
怪ではないのならば、やはり目の前の敵は狗神憑きというものなのだろうか。
「じゃ、またねー」
 思考に身を費やす玲を現実に戻したのは、識の言葉だった。
「ちょっ、おい!」
 玲が制止しようとするが、犲は識と失神している戟を乗せ、再び闇へと跳躍した。
 正気に戻った絆那だけは、全く言葉を発さなかった。