Nighthawk
緩やかに歩いて行こう、夜はまだ永い。 私の為の、夜と言う名の永き路を。 街灯の明かりが、至極緩やかに歩く男を照らしていた。規則的に等間隔に並べられた街灯の下から離れる度に、男は揺らめき、闇に溶ける。そして次の瞬間には、街灯が照らし得る場所へと滑り込んでいるのだ。この果てし無く、限りなく無意味に、短調に繰り返される作業の中、同時に痩せた男の影は伸び縮みを繰り返す。だが男は光でも、影でもない。闇に紛れ、光を仰ぎ、陽炎の如く、真夜中の陽炎と化して、石畳の路を滑ってゆく。 男は穏やかな顔をしている。微笑にも似た静かな表情に、僅かな悲哀を湛えて。その端麗な姿には翳りを帯び、憂鬱そうな、暗澹とした表情をも隠し持っていた。暗闇は彼を優しく包み込んでいるが、同時に彼から温もりを奪っているのだ。彼は沈んだきり、浮かびあがる事は無い。そして、闇から脱け出す事も出来ない。 男と擦れ違う数少ない人々は、彼を見て驚愕し、彼の希薄な存在感に思わず胸を打たれ、そして彼の表情に安堵と畏怖を感じた。彼と言う存在はまるでその場に存在していないようで、それでも確かに、彼は其処に在る。彷徨う亡霊が如く不可思議に見えるのは、偏に彼の容姿なのであろう。蒼白く―使い古された表現で言うと『たった今墓穴から這い出てきた』ような肌と、一切の色素が抜け落ちたような白髪。薄い青色をした眼と、長い睫毛、薄い唇。季節とは不釣合いな薄い、白いシャツが上半身を強調し、黒いズボンは腰から下を闇に紛れさせている。シャツ裾がはためき、揺らめくと、途端彼の輪郭はぼやけ、闇に溶けて無くなってしまいそうになった。 ふと、男は歩調を緩めた。伏せがちだった眼を上げ、前方を見つめている。街灯が並べられた夜道は永遠に続くかに思われた。一瞬、深淵の縁に脚をかけているような錯覚に襲われ、彼は柔和な顔を曇らせた。それほどまでに深く、永く続く悠久の闇の中から、一体何が姿を現す?悪魔か、はたまた死神か。もし死神だとしたら、彼は狩られる運命にあるのだろうか。彼は、この永遠に続くかと思われる夜の『徘徊』に終止符を打つ事になるのだろうか…? しかし現実は違ったようだ。事実は虚実とは異なり、現実と幻想が似て非なるものであるように。暗がりから駆けて来るのは、一つの人影だった。街灯の一つが照らし出すその影は男のそれよりもやや小柄で、華奢なように見受けられた。その走り方は外敵に追われる獲物、と言った様子だ。人影の後ろから、更に二、三の人影が走ってくる。 縋るような調子で、人影は助けを請う。男は戸惑いながらも人影を覗う。人影の正体は、少女だった。見た所、十四、五だろうか。黒目がちな瞳が微かに潤み、月明りに煌いている。訳は追々話すと少女は言った。男は再び追跡者を見遣ると、頷き、少女と共に暗黒が待ち受ける路地裏へと滑やかに堕ちていった。 黴臭い路地を―溝にも似た水溜りを踏み付けながら―抜けて。二つの影は月明りさえも及ばない場所に辿り付いた。有るのは唯、漆黒の闇ばかり。時折、何処からか滴る水音が断続的に聞こえてくる以外は、二人の呼吸音しかしなかった―鼠達の、かさかさと這い回る音も含めて。 三種類の音が奇妙な旋律を奏でている。其処は洞窟のような排水溝―下水道の入口だった。足元には汚水が細い路を作り、暗闇へとその流れを向けている。その臭気が辺りを漂い、鼻を突いた。鼻孔を通り抜ける風は、決して心地の良いものではなかった。 振り返ると、少女は不安げな面持ちで男を見つめていた。その眼が、捕らえられた獲物のような眼ではなかった事は、暗澹とした状況での唯一の幸いと言えよう。声に出さずとも、男には少女の疑問が手に取るように分かった。何処へ行くのかと、訊ねているのだ。それに重ねて、男は微笑んで頷いた。分かっていると言った表情で。取り敢えず、自分の家へ行こう。男は大体、こんな意味の事を言った。少女はそれに応えて頷き返し、再び歩き出した男の背を追った。 道すがら、男は少女の名を訊ねた。少女は周囲を警戒しながらも、自分を指差して『ミク』と答えた。そして問い返す。貴方は?と。歩調を緩めつつ、男も答え返す。『ゲーテ』。彼は立ち止まった。傍らには錆びかけた鉄階段が上方へと延びている。ちらりと『ミク』と名乗る少女を見遣ると、ゲーテは階段を昇り始めた。踏み締める度に軋む階段は剣呑で、二人が段に脚をかける度に奏でられる不快な二重奏は、星一つ見えない夜空へと一つずつ吸い込まれてゆく。階段を五階分程昇り切ると、最早足元に何も見えなくなっていた。階下は風が澱んでいたが、ここでは少し強いくらいに吹き付けてくる。真横には鉄製の扉が佇んでいた。男は扉の横の、周囲の枠組が錆びたスキャナのようなモノに手を宛てた。途端、小さな電子音が切れ切れに聞こえ、重そうな鉄扉がギシギシと金属同士の擦り合わせられる音を響かせながら開いた。その騒音さえも静寂へと呑み込まれて、後ろの方は消え入るような音になってしまった。 扉の中へ入ると、チカチカと電燈が瞬いた。二人の背後では鉄扉が、開いた時と同じ音を立てながら閉まった。頭上の電燈が完全に燈るまで数秒かかり、その間ミクは分厚い扉にしっかりと背中を密着させていた。灯りが安定すると、彼女は自分の居る部屋の全貌を見渡す事が出来た。扉や階段と同じような素材で造られている机と椅子、ベッド。床は鉄張りではなく木材で、壁は剥き出しのコンクリートだった。奥には、御世辞にも大きいとは言い難い、ほんの『御飾り』程度の填め殺しの窓。そして正面には、ゲーテが微笑を湛えて立っている。鮮明な灯りに照らされた彼の姿を見たとき、ミクは言うに言われぬ、奇々怪々たる感覚に襲われた。恐怖とは、少し違う。かと言って安堵とは非なる感覚。心拍が高まり、心音は部屋中に響き渡りそうだった。 部屋の中央付近に佇むゲーテの姿は、この世のありとあらゆるものとは異なっているように見えた。虚ろに、淋しげに。希薄に、揺らめく陽炎のような…。 膠着した、冷え冷えとした空気を打ち破るように、ゲーテはミクに椅子を勧めた。手入れのされていないキャスターは金属音を立ててミクの前へと滑ってきた。ミクの小さな身体は半ば揺らめくようにして、合皮張りの椅子へ吸い込まれた。ミクは眩暈を覚え、額に手を宛がった。外気に冷え切った手が心地良い。僅かな間を置いて、自分の手ではない手が自分の左手へ重ねられているのを感じ、ミクは少し驚いてその手の主を見上げた。其処には視線を合わせる為に屈んだゲーテが、心配そうな顔で彼女を見つめていた。大丈夫かと言う問いかけに、今度はミクが微笑み返した。 小さな愾を吐いて両手を膝の上に揃え、ミクはゲーテに向き直った。その仕草から何かを汲み取ったのか、ゲーテは追われていた理由を訊いた。君は何者なのか、とも。ミクは姿勢を正し、真剣な顔で先ず匿ってくれた事に対しての礼を言い、それから、至極丁寧な―洗練された―言葉遣いで、自分の身分を告げた。『リヴン皇国皇女』。それが彼女の『肩書き』だった。リヴン皇国とは、現在、世界で最も勢力盛んな、且つ、世界最大の国である。そして二人の足元も―其処から何万キロも、リヴンの治める土地だった。それを聞いて一瞬戸惑った表情を見せたものの、ゲーテは小さく頷いた。何の疑問も懐かずに受け入れてしまうゲーテに少々驚かされながらも、ミクは告白を続けた。 彼女の言った事を纏めると、こうだった。国民の知らぬ間に、リヴンは衰退の一途を辿り始め、現在破綻の危機を向かえていて、それを感付いたリヴンに次ぐ第二の勢力である某国は、刺客を放ちリヴン皇帝―つまり、ミクの父親―の暗殺に成功した。刺客はミクの命をも狙ったが、数人の近衛兵に護られて命辛々逃げ出してきた。しかし、先程ゲーテに会うまでに兵達は尽く殺害され、結局ミク一人になってしまった。 語り終える頃には、ミクの声は震えていた。今まで必死に堪えてきたものが、今の告白で一気に流れ出てしまったようだ。ゲーテは咽び泣くミクの背中を摩ってやり、休息を勧めた。今は、悩むのは止そう、と。ミクは震えながら頷き、整然としたベッドに就いた。と、彼女は顔を上げた。自分がここで寝てしまっては、ゲーテの寝る場所が無くなるではないか、と心配しているのだ。 ゲーテは自嘲気味に言った。眠れないんだ。 ビルの谷間から眩い朝日が差し込み、明り取りの窓が漸く機能を果たし始めた。暗闇の中では認識出来なかったが、如何やら曇り硝子になっているようだ。差し込む日差しが柔らかい。ゲーテは陽光に照らし出された白髪を掻き上げ、脚を組み直した。空虚な視線が宙を泳いでいる。結局、座ったまま一夜を過ごしたようだ。傍らのベッドでは、ミクが静かな寝息を立てている。仮にも『皇女様』がこんな粗末なベッドで寝られるのかと少々心配していたのだが、割と強かな性格をしているのかもしれない。或いは、心労が祟っていたのか…。 壁にかかった時計の液晶画面が、薄緑の文字のぼやけた輪郭を映し出している。だが今のゲーテにとって、時間など『如何でも良いコト』に過ぎなかった。時間は自分で如何にか出来るものではないし、どれだけの時間が過ぎようが、何度太陽が昇ろうが、彼が変わる訳でもない。彼が、眠れる訳でもない。只刻々と、時間が過ぎてゆく。そもそもこの男の中では、時間という概念自体が酷く希薄なものなのだろう。 そして時計は、午前六時と言う、この世界での或る一定の期間を区切る節の一つを示した。小さな、しかし不愉快な電子音が部屋中に響き渡る。ゲーテは時計に手を伸ばし、耳障りな叫び声を上げる機械を止めた。だがその騒音は、『お姫さま』の眠りを妨げるには充分過ぎたらしい。ミクは上体を起こして辺りを見廻している。視線がゲーテのそれと絡み合ったとき、彼女は漸く事態を把握した。ゲーテは挨拶代わりに表情を緩ませた。慌てて衣服を整えたミクは小さく頭を下げ、もう一度昨晩の礼を言った。 ミクが身支度を終えるまで、ゲーテは階段の踊場に出ていた。地上から遥かに離れた其処には、清々しく冷たい突風が吹き付けている。階下は朝靄で翳み、錆び付いた鉄板一枚を隔てて、脚の下は奈落とも言って良いほどだ。凭れた手摺は積年の錆で今にも崩れそうに軋み、常人ならば気の遠くなりそうな場所だった。ゲーテは顔色一つ変えずに空を眺めていた。『死』への恐怖など、微塵も感じていそうもない面持ちで。彼は、昨晩から今日にかけての事を考えていた。単調な生活―果たして生活と言えるかどうかすらも分からない、只生きているだけの『時』に、今初めて変化の波を見付けたのだ。今はまだ、如何言う形で訪れたのかは分からないが、確実に、変化は訪れている。無意味だった自分が、初めて意味を持った。ゲーテは静かな興奮を覚えていた。『誰かの為に』 ドアがギシギシと音を立てて開いた。振り返るとミクが、少々大き過ぎるゲーテのシャツを着て立っていた。ドアの開き方が不規則な所為か、思ったより速く開き過ぎて戸惑っているようだ。そんなミクの横を擦り抜けると、今だ自分の体温の残っている椅子に腰掛けた。これからの事を考えようと言うと、呆然と佇んでいたミクはハッとした様子でドアの前から戻ってきた。 何かが崩れるような音がして、私は眼を見開いた。 私が伝えたい事を上手く表現するには、如何やら主観の方が適しているようだ。何故ならこれは私自身の、私自身の狂気と変貌を描いているのだから。私自身の事が客観で理解できるのであれば、それに越した事は無いが。何れにしろ現実には不可能な事なのだ。私でさえ、私の事がよく理解出来ていないと言うのに、客観で私の内面を理解できる筈が無いだろう。私自身に起こった事を私自身が語るのは、至極自然な事に違いあるまい? まず言うべき事は、私の精神は酷く低調で、沈み切っていたと言う事だ。それもその筈、生まれながらに孤独で、身寄りもなく、知り合いもいない。少なくとも私には『誰かの為』に何かを成す余裕は無かった。何かを成すべき相手も居なかったのだから、当然の事だろう。私の孤独を語る相手も無く、『私自身理解出来ていない私自身を理解してくれる』相手など、居る筈も無かった。私は常に孤独であり、それが当然、それが自然、それ以外の路は有り得なかった。勿論他人の路など知る由も無く、他人との接触も殆どと言って良いほど無かった。もしかしたら、私はこの世界に私一人しか居ないものだと思っていたのかもしれない。そうすれば、『孤独』と言う言葉は途端に意味を失う。そう思い込む事で、私は自分を慰めていたのではないだろうか。私は段々と冷えていった。 時々私は、自分が何の為に生きているのかを知りたがった。生きる事は苦痛以外の何物でもなく、その先に有る死さえも、苦痛以外何も齎さない物だった。或いは、『死』は生の前に有る絶望とでも思っていたのかもしれなかった。私は成長するに連れ、世の中を学び取っていった。人々の荒んだ心。狂気、畏怖、苦痛。皮肉な事に、私の『孤独』の外には絶望が満ち溢れていた。私は益々孤独から逃げる術を喪い、孤独に埋もれていった。孤独の檻に呑まれて。私は独り、『知られぬまま』。 いつからだろう、私は眠れなくなってしまった。横になって目を瞑っても、睡魔が襲ってくる事は無くなったのだ。『意識している』時間が増え、孤独を感じる時間が倍近く増えたのだが、別段、苦痛でもなかった。既に私は孤独に慣れてしまっていた。そのときまで―いつからかは定かではない。尤も、そんな時間の概念が私に在ったとすれば―夜は私にとって、常人と同じく一日の終り、休息の時間でしかなかった。自然に瞼が重くなり、同時に夜の闇が、深い睡眠へと誘うのだ。只それだけ、それだけの筈だった。しかしそれはいとも簡単に覆されてしまった。恐らく、私自身それと気付かぬ内に。夜は昼と同じ、単なる時間の経過と化してしまったのだ。後悔しているような口振りだが、実際は何の苦痛にもなっていない。只々、『時間が増えた』だけだった。 或る日、私は宵闇の世界に歩を進めてみた。徐々に徐々に、闇が光を呑みこんでゆく様は、あたかも私自身の姿を投影しているかのようだった。私が、何か大切なモノ―この時点では何か分からなかった―を喪ってゆく様を。眼の前に在る、不可侵の存在にも思える強大な夕陽が、やがて月明りと星々の輝きが跳梁する夜の真闇に蝕まれ、喰い散らかされてゆく…。私は感動しながらも、やはり感動出来なかった。そもそも、私は感情の起伏に乏しいのかもしれない。特に哀しいとも思わなかった。 暗闇を徘徊する快感を覚えた私は、途方も無い悦びと幸福感に狩られ、自然に顔を笑顔に引き攣らせていた。それは偽りの仮面でも、自己への誤魔化しでも無かったかのように思われた。『最高の笑み』と言う程ではなかったが、私の顔は確かに微笑していた。私自身、その笑顔を見た事は終ぞ無かったが。『周り』の反応に就いては、言うまでもない。 夜には何も無かったが、奇妙な充実感だけは有った。それは時に月明りであり、寒々しい夜雨となって私に降り注いだ。暫らくすると、私にとっての夜は、私そのものになっていたように見受けられた。そんな、結局『単調になってしまった時間を送るだけの時間』が続く中、私は彼女に出会った。 縋るような黒い瞳の事は、鮮明に記憶に焼き付いている。何故か私は、彼女を護るべく行動していた。『護る行動』など、取った事が無かったと言うのに、不思議と私は、彼女を護る術を知っていた。暗がりに姿を消し去る術も。何処を如何通って来たのか、私達はきちんと私の部屋に辿り付いていた。私は別に、不思議には思っていなかった。代わり映えの無い、冷淡な突風が吹き抜けていた。 『何かが崩れるような音』は、私の中で鳴り響いた音ではなく、私の外で、確実に起こった音だった。真赤な液体を吹き出しながら、人形のような物が仰け反るようにして倒れた。その『人形』が、膝から崩れ落ちる音だったのだろうか。数秒の間を置いて、私は『人形』が人形でない事に気付いた。びくりびくりと不気味に痙攣しているそれは、正しく人間だったモノだったのだ。私は顔に違和感を覚え、右手で顔を探ろうとして―気付いた。私の右手には血糊でぬらぬらと煌く金属槐が握られていた。私はそれが何か分かっていた。分かった上で、別段驚きもしなかった。仕方なく左手で顔を探ってみる事にした。 私の顔は凍り付いていた。 それから何処を如何通ったか、ゲーテは結局、自分の部屋に辿り付いていた。後ろには、息を切らしたミクが肩で呼吸をしている。ゲーテの右手には相変わらず血糊のこびり付いた刃物が握られていた。彼は振り返らなかったが、ミクが追っ手を心配して後方を覗っているのが分かった。 部屋に入るなり、ミクはゲーテに抱き付いた。それは物悲しい震えを伴う、不安から来た抱擁だった。小刻みに震える腕は些かキツいくらいゲーテの胴に巻き付き、背中ではミクが嗚咽を漏らしていた。背骨に熱い感覚が生じ、ゲーテは瞬時に、少女が泣く理由を読み取った。 それは、懺悔だった。後悔と自責の念が入り混じり、自分でも終始のつかなくなってしまった、虚しい懺悔。ゲーテは今も尚右手に握り締めた鋭利な刃物で、ミクを狙った刺客を惨殺したのだ。刺客はナイフで真直ぐに首を貫かれ、間を置かずして息絶えてしまった。呆然とその場に立ち竦む二人を余所に、刺客だった物体は血飛沫を上げながら崩れ落ちた。 ごめんなさい。開口一番に、ミクは言った。如何やら、『自分の所為で手を汚させてしまった』と詫びているらしい。語頭から語尾までが全て震えていたが、ゲーテは微動だにしなかった。ゲーテの頭から主観が吹き飛び、代わりに酷く冷酷な客観視が、彼の精神を支配した。正当防衛…?…少女を護った…?…けれど人殺し…?…命を絶った…?…人殺しに快感を…?…偽善者…?…機械…?殺人鬼…?…何……??? ゲーテは何故か後悔してはいなかった。罪悪も感じていなかった。達成感も、刺客に対する憎悪も、悲哀も、軽蔑も、何も、感じてはいなかった。只異様に昂ぶる鼓動と、弾力の有る肉を貫いたときのナイフの感覚が、妙に鮮明に、右手に余韻を残していた。ゲーテは驚く程無表情な今の自分を見ても、恐らくは驚かないに違いない。能面のように凍て付いた顔を、むしろ自然と受け入れるかもしれなかった。自分の背中に縋り泣きじゃくる少女に、何と声をかけるべきか。冷静に、しかし混乱し切った精神を落ち着ける為、今はそれだけを考える事にした。だがゲーテは、こんなときにかけるべき台詞を知らなかった。 血糊のこびり付いた右手が妙に重く感じられるのは、金属槐を握っているからなのか。それだけが理由とは、如何しても思えなかった。私は、後悔していないと言い切れる。滴り落ちる血液も、零れる涙も、右手の余韻も、何もかも。私はやるべき事をやったのだ。後悔はしない。だが何故だろう。背中で震えるミクの存在が、哀しくて堪らない。私は泣いた事が無いが、哀しみを感じた事は…やはり無かった。 瞳は虚ろに、宙を彷徨っている。私の身体を締め付けているミクの腕を解こうかとも思ったが、止めた。半ば乾いた血液の付着した刃物を持ったまま、私は只『愕然と』していた。軽い眩暈を覚え、私は漸くミクの腕を擦り抜けた。ミクが大きな眼に一杯の涙を溜めて私を見上げている。私の顔は微笑んでいるようだった。 私はナイフを床に放り出し、血の付いていない左手で自分より頭二つ分程背の低いミクを抱き寄せた。全く、無意識の行動だった。それは衝動だったのかもしれない。 自分の存在する訳を、彼女に求めたのではなかったか…? ミクは微笑するゲーテの顔を見ると、一層激しく泣き出してしまった。気丈とは言え、まだまだ少女だったのだ。抱き寄せられ、ゲーテの胸に顔を埋めても尚、ミクは泣きじゃくっていた。 ゲーテは相変わらず微笑していたが、その柔らかな笑顔は氷のように凝固していた。眼は開いていたが、虚ろなまま定まらない視線を漂わせていた。 やがて泣き疲れたのか、ミクはゲーテに抱えられたままの格好で寝てしまった。ゲーテは左手一本でミクの華奢な身体を支えている。二、三歩後退し、壁に凭れる。冷たい壁に身体を預ければ預ける程、彼は自分の腕の中で眠る少女の重さを如実に感じるようになった。ぼやけていた視界が緩やかに、だが確実に現実味を帯び、多少なりとも、ゲーテの意識は鮮明になってきた。浮沈を繰り返す彼の意識は、幾らか下降を始めていた。ずるずると、壁に寄りかかったままの二人は崩れていった。尻が床に着き、壁に頭を置く格好になったとき、ゲーテの虚ろな視線は血塗れの右手を凝視していた。彼は数秒間逡巡を巡らせていたが、ミクの静かな寝息が、彼の意識を突き飛ばした。 何度かの昼と何度かの夜。彼にとっては全くもって無意味だったその一日の二分化に、漸く意味が出来始めていた。…いや、もしかすると本当の意味で、彼の時間は止まってしまったのかもしれない。彼は安らかな眠りに就いていた。その姿は、ミクの寝姿と大差が無かった―只一つ、首から夥しい量の血液を流している事を除けば。 冷たくなった男の身体に気付かず、少女は静かな寝息を上げていた。 END |