「あ、天之橋さん、おはようございます。
 いつものように彼女が私を笑顔で迎えてくれた。
 もう1年にもなるだろうか。彼女とこうして朝30分の「密会」をするようになってから。


 一年前のある日、この教会の薔薇園の前でしゃがみこんでいる生徒がいた。その生徒は泣き声をあげずに、薔薇を見ながら、ただボロボロと涙を流していた。悲しみに打ちひしがれた生徒が、一人でここに来ることは、そう珍しいことではない。彼女もそういった生徒の一人だった。
彼女は氷室先生の生徒で、笑顔が可愛らしく、前々から印象に残っていた。そんな彼女から笑顔が消えていた。
 本当のところ、彼女が泣いていた理由を私は知らない。
ただ、彼女が以前から、ある男性をそっと見続けていたこと、彼のそばにいる時は、ほんのり頬を桜色に染めていたことを私は知っていた。彼に向けられる眼差しは恋する乙女の瞳、その瞳を涙で満たしていたのだ。自ずと彼女の涙の理由が推測できるだろう。普段なら、生徒たちの悲しみは、薔薇たちが癒してくれる、と、そっとしておくのだが、なぜだか気になって仕方がなかった。
彼女が薔薇たちを黙って見据えながら、あまりにも大きな涙粒をこぼしているので、私は思い切って声を掛けた。
「この世の中に花はたくさんあるけれど、自分が大事にするたったひとつの花がある」
「………?」
「今の君は星の王子様と薔薇の花なのかもしれないね。」
「………」
「本当に大切なものは目に見えないんだよ」
「大切なもの…目に見えない…」
 さすがに、そうすぐには泣くのを止めることが出来ないようだが、彼女は何か考え始めたようだった。
「またいつでも薔薇たちを見に来るといい。そのほうが薔薇たちも喜ぶからね」
 このままほうっておいたら、彼女はいつまでもここにいそうな気がした。
「さあ、もう遅い。送っていくよ…」


 私は毎朝、誰よりも早く学園に行き、薔薇の世話をすることを日課にしている。次の日、私が朝の手入れの為に薔薇園を訪れると、彼女がそこに立っていた。おそらく眠ることも出来ず、夜通し泣いていたのだろう。真紅の薔薇のような瞳をしていたから。
 それから毎日欠かさず彼女は薔薇園にやってくる。初めは、ただ薔薇たちを黙って眺めているだけだった。彼女の力になれるだろうか、彼女の笑顔を取り戻したかった。そんな彼女に私は薔薇の育て方を説明し始めた。やがて彼女も薔薇の手入れを手伝うようになり、いつの頃からか、彼女は私を「理事長」ではなく「天之橋さん」と呼ぶようになった。そして学園であったことや興味のあることなど、他愛もない話をするようになった。彼女は乗り越えようとしていた。現実に立ち向かって前に進むことを決心したのだ。彼女の心の葛藤が痛いほど伝わってきた。段々、彼女の笑顔も見られるようになった。たまにあの男性とすれ違う時を見かけたが、必死に平静を保とうとしている彼女がいた。彼女の健気な姿を見守っていきたい。それが私にとって幸せな時間となっていた。
 彼女もあと数ヶ月で卒業だ。この「密会」も終わる時が来る。


「きゃっ!」
「どうしたんだい!?」
 彼女の小さな悲鳴に私は慌てた。
「いえ、なんでもないんです。薔薇の棘でちょっと…」
「血が出てるじゃないか!ほら、早く手を見せて!」
 そう言って彼女の右手を引き寄せた。彼女の人差し指に小さな切り傷が出来ていた。傷が深かったのか血が少しずつ溢れ出している。私は思わず自分の指が怪我したときのように、彼女の人差し指を口に含み血を吸いだした。
「あっ…」
 彼女は甘い小さな驚きの声を上げた。しかしそれ以上何も言わなかった。
「ほら、血は止まったよ。本当はこんな止血方法は良くないんだが。今はまだ養護の先生は来ていないだろうから、あとで保健室に行きなさい。…二人で行くわけにはいかないからね」
 もしこの「密会」が誰かに知られたら、どうなるのだろうか。ただ、彼女は私の薔薇の世話を手伝っているだけじゃないか!しかし、もし、このことが明るみに出たら、この二人だけの時間は消失を余儀なくされる。そんな予感がした。


「………あの」
 彼女が右手の人差し指を見つめながら、話し始めた。
「一鶴さん≠チて呼んでもいいですか?」
「ああ、構わないよ」
 彼女が苗字ではなく、初めて私の名前を呼ぶ。慣れない呼び名がくすぐったい。
「………この薔薇たちは、この一年間、色々な表情を見せてくれました。そして沢山のことを私に教えてくれました。薔薇を育てていくうちに気づいたんです。私の心にも、一つの気持ちが育っていることに。」
「………」
「私の心の中に、一鶴さんという名前の薔薇が咲いています。一鶴さんの心にも私という名の薔薇を育てて欲しいんです」


 今、学園にいるのは、彼女と私の二人きり。
 この「密会」を永遠に続けるには、どうしたらいいのだろうか。
 私は目の前の彼女を強く抱きしめることしかできなかった。
 この二人きりの時間を逃がさないように強く強く抱きしめた。
 あと数分もすれば生徒たちも登校し始める。
 残り少ない時間を彼女を抱きしめることに費やした。
 明日からの「密会」もきっと彼女を抱きしめてしまうだろう。
「一鶴さん…」
 彼女が更に、ぎゅっと身を寄せてきた。
 たとえ悲劇を招くとしても、この「密会」を続けていきたい。
 そして、いつか「密会」でなく、彼女と逢いたい。
 そんな日が必ず来ると信じている。




                     戻る