はばたき市の港からアフロディーテ号で出発して、やっと落ち着くことが出来た。
日差しは相変わらず夏らしく輝いていて、心地よい汗が自然に流れ落ちる。
そんな絶好のクルージング日和にもかかわらず、他の船やヨットは見えない。
ただ見渡す限り海だけが広がっている。「はい、夏のお嬢さん!お飲み物をどうぞ」
アフロディーテ号の船長である天之橋一鶴は、舞にあらかじめ冷やしておいたアイスティーを差し出した。舞はビキニの肩紐を指で直してから、手を差し出した。
「ありがとうございます」
彼女はそう言って受け取った途端、わっ、冷たい!と軽い歓声をあげた。お互いに軽くグラスを合わせ乾杯し、咽喉を潤す。一口飲み終えると彼女はくすくすと笑い出した。
「どうしたのかな?急に笑い出したりして」
「いえ、なんでもないです。昨日の映画、楽しかったですね」
「ああ、そうだね。なにかおかしなことをしてしまったかな?」
一鶴が試写会の招待券を手に入れたので、昨日、二人で映画を観に行った。試写会といっても、関係者のみで行われたものであったので、二人は誰の目を気にすることもなく映画を鑑賞することが出来た。
「映画館を出た時の一鶴さんの顔ったら…すっかり海賊になりきって!」
昨日観た映画は、海賊が活躍する外国映画だ。
「いや、その、なんだね、つい、その、感情移入をだね、してしまってね…」
「今朝だって、突然、電話で゛大海原に自由を求めに行かないか?゛って言ってくるから…」
一鶴は自分の発言の恥かしさから言葉につまり、何も言えなかった。頬は赤くなっている。舞はまだ、くすくすと笑っている。そして穏やかで幸せそうな笑みを浮かべてこういった。
「かわいいなって思ったの」
「この年齢でかわいいって言われるとは思わなかったよ…でも君に言われると嬉しいね」
少々、複雑な気持ちだが、彼女が喜んでくれている様子を見る事が出来て、一鶴は心底嬉しかった。
「子供の頃から海洋冒険小説が好きでね。この広い海のどこかに、まだ誰も見たことも無い世界がきっとある、そう考えるとなんだか楽しくないかい?」
「ええ、本当にそうですね。私はキャプテン一鶴について行きますよ!まかせてください!!」
「ハハハ、頼もしいね。そうだ!ちょっと待ってて!」
そう言うと、一鶴は船室に行き、なにかを手にして戻ってきた。
「さ、後ろを向いて」
女性乗組員が言われたとおりに後ろを向くと、頭上に一瞬、影が出来た。そして頭をやわらかいものが包み込んだ。
「よし!これで君も海賊の仲間入りだよ。日よけになるから着けていなさい」
一鶴は、舞にバンダナを巻き終えて、いささか満足げである。彼女は確かめるようにバンダナを触っている。
「似合ってますか?」
「ああ、似合うよ。こんなかわいらしい海賊だったら襲われてみたいよ」
「じゃあ、襲っちゃおうかな」
上目遣いに舞が一鶴を見つめる。
「コラ!レディがそんなことを言うもんじゃないよ」
「…本気ですよ」
一鶴は、どきりとした。舞は唇を一鶴の唇に寄せた。が、寸前のところでためらいがちに離れる。そして今度は二人の唇が互いに引き寄せ合う。舞のそんなぎこちない動きを、一鶴はとてつもなくいとおしく思った。この淡紅色の小さく柔らかな膨らみに触れるのは、自分の唇だけである。そう思うと一鶴は尚更、舞がいとおしかった。思わず唇を吸うにも力が入り、熱もこもる。
名残惜しそうに二つの唇がようやく離れた。
「ゴホン、ゴホン!そ、そろそろ陸に戻ろうか…」
「イヤ…もう少し」
一鶴がやっとのことで言った自制の言葉を、舞は受け入れなかった。それどころか、彼女は一鶴の懐に自分の顔を埋めた。海は水平線の彼方まで、静かに波打っている。
「ずっと二人きりでいられたらいいのに。このまま海を漂って、私たちのことを知る人が誰もいない国に行きたい。本当に海賊みたいに海から海を渡って行くのもいいかも」
一鶴は、舞の髪を撫でながら、悲しげな顔をした。
「…私がこんな年齢ではなく、理事長でもなかったら、君を悩ませることはなかったんだろうね」
一鶴と舞が一緒にいると、どうしても周囲の目が突き刺さる。それは周りの誰よりも当人同士が一番気にしている。普段は口には出さないが、時折何かの拍子に出てしまう。
「名前…一鶴さんは名前とおりの人です。たった一人の優れた存在です。だから、私…理事長とか年齢とか一鶴さんの全てを…」
「鶏群の一鶴≠セね。私にとっても君は理想の人なんだ」
舞の言葉が言い終わらないうちに、一鶴は話し始めた。
「どんなものが襲ってこようとも、舞を守るよ。君が好きだから」
「…ずるいです。先に言うなんて」
舞はちょっと膨れっ面をした。
「私も一鶴さんが好きです」
囁くような波の音、それに反応して水面が瞬くように輝いている。そんな海が二人を包み込んでいた。それはまるでこれからの二人を暗示しているかのような海だった。
了
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