Hepaestusの建築教室


マラス、アンブラ、フィニガン、骨!
ひどい!あまりにもひどい!怒りに燃えるへぱおじさんの建築教室だ!!!
1 建築ってなに?(トップ)
2 できない事が大切!重力法
3 ダサぼにさよなら!マテリアル理解
4 ムッサ重要構造定食
5 押してだめなら引きなさい!レトリックテクニック
6 心理とドダイ-なんで下品にみえるのか?
7 階段法則アンドふきぬけ注意
8 やりたくない人のためにヘパ特製レプリカマニュアル


*へぱ作品(ラフ含め)は巻末にのっけます
*悪い例はバツとしてGIFです。
*内装ではなく建築は誰でもめにみえるもの、批判されて上等。トリサゲはしません。
*激主。


オレが法律だ!へぱ建築法01

ヘロ−、へぱだよ。
先日、ブリタニア市長を名乗る男が”ハウスカスタマイズコンテスト”なるものを やっとったねえ。 おじさん知らなかったヨ。これって、
いかに建築を否定するかコンテスト なんだよね。ちがう?ああがっかり。 建築コンテストだと思って見ちゃったよ。

当然このコンテストの家は、おもちゃなんだから、写真とったら消すよねえ?
消すべきでしょ?だってさあ

sinjimae.gif

こんなのがトナリにたったら、やだよ
”キャ−あこがれのビラ!”
”うわ-いかっちょいいお城がでけたあ!”
"素敵な風の吹く森の中の...”
でもトナリは

sinjimae02.gif いきなり船

とってもがっかり残念です。 はっきりいって殺意がわきます。
朝目覚めたら、美しい森の中に珍無類なオブジェが鎮座ましまし 木をあっぱくしておはようございます♪。
家主がいようがいまいが、えんえんえんえん 四六時中、骨。
木漏れ日、風、そして窓から美しい風景が....骨。
せっかくの美しい環境がダイナシンコ-♪


だからわしははらたっとるわ。土地はかぎりがあってそしてそこを とうったり、すみかにしたり、いろいろな人のためのものであって、 個人的なオモチャにしていいのかい? 家の無い人が、そんなオモチャだらけをみたら、アタマ来るよ。 まあこういうのは
ア−チ一つまともにくめないバカ の証拠なんだよね。 (美的感覚0のセスだってくめてるんだぞ..あいつ以下ってどういうことだよ) いっときます。建築はそんなに難しくはありません。 美的感覚ではないです。 丁寧にやっていけば誰でもカンタンにできます。 ちゃんとル−ルを守れば誰でもカンタンに美しい家が作れます。
でもたったそれだけを なんでできないの?
それ、ネタ。
それ、パチモン。
それ、環境汚染。(ねらってるでしょ?いかに人不快にさせるかを! ああ?屋根に字書いてるやつでてこい!スッゲ-むかつくんだよ!そのおちゃらけがよ!)
それ、ずれてるよ?穴あいてるよ?天井おちちゃうよ?

もっとまじめにやれ。
建築とは、私物じゃなくて公共物なの。 たとえそれが私用だろうが、家自体は公共物なの! だって家はその土地にず-っと(一応)たつもので、 いやがおうでも目に入ってくるものじゃないか。 人前でぱんつさげるのは、もうやめなさい。

建築基本

たとえばさ、こういう家がほしいってのがあるけど、 立地からえらびたいでしょ? まず家は用途があってそれにそくした環境に建てる。 土地問題がなければ誰だってそうする。
だけど土地問題があって自分の思うような場所にはたてらんなかったりする。 それは仕方ないけれど、じゃあ自分の用途を環境に押し付けてはたしていい家かな? 環境と用途両方に合致するのが家なんだから、 用途だけあわせても愛着はわかないよ。 だから建築はまずその環境のことをよく知って、その環境を破壊しないように 自分の用途を確立させないとだめなんだ。
はっきりいって、北極にラタンであったかく..なんてのは欺瞞だべ。
ジャングルの中にビラもあつくるしくってヤッパヘンだよ。
ヒスロスにはヒスロスの風がふき、デシ−トにはデシ−トの雪がふる。
それを無視してはたたない、もしくはたってもさむかったりしてとてもじゃないけど いらんない、そういうもんなんだよ。
そのことは建築法にもいえる。
たとえば、床で柱を支えてる家がほとんどだけど、 床とっぱらってみんんさい。いっきに崩れるでしょ? ちょっと考えなさい。あんなうすっぺらい床で、とんでもない重さの 2階や3階がささえきれますか? 支柱がなければペッシャンッコ−になるんです。 (実際には柱でささえても立ちません。) 重力を無視してもできるからいい、と思ったら、 感受性のない証拠です。ありもしない風や雰囲気を吸い取る事もできないで、 作品なんかつくれますか? 重力をかんじとれてないから、あんな”おかしい”不自然な家になるのです。 (私の作品は床とっぱらってもほぼヴァリッドします。)

つまり、建築の基本は、 ちゃんと風景になじみ、 用途に適することで、表現として立体であり、 きちんと重力的にあっていないとだめで、 建築的におかしい平面てきな錯覚、"見立て”はやってはいけないことなんだ。

いろいろなコンテストとかあるけど、それは全部、 ア−チ一つマトモに組めない人のものです。参考にもならん。 ためしに修整つくってみたらまあ露呈するわバカさ加減が。 ”うわ、柱一本で支えられると思ってんだこいつ!”
”うわア−チの足の始末ナンも考えてねえわこの構造!”
"星の王子様のいえだこりゃ!(壁が一列になっているだけの家でもなぜか屋根がある...)”
(いや、UOってすごいよね。レプリカ作ると情報の認識程度がもろばれるわ)
ですから、建築をマジメにやろうとした場合は、構造から、NPCの家などから勉強してください。メンドクサイ人は既存のOSI製の家の構造だけをパクレばもう それこそ5分でマトモでいい家がつくれます。(と、おもう...けどレトリックが ガサツなんだよね..みんな. どうしてア−チ一つマトモに組めないの????)
マラスなどもみましたけどマトモな家はサ−バ−に一軒か二件ぐらいしかありませんよ。


ではここで復唱しましょう!

建築は公共物!環境!そして重力!
建築は公共物!環境!そして重力!
センスじゃなくてマトモかどうか!!
てめ-のやってみたいはやっちゃだめ!!!それは環境汚染!! 付記、海外日本あわせてコンテストその他自称評論家さんやらの作品は 男の中でしか通用しない通常では歯牙にもかかんないレベルです。 (マトモなのは一個かにコ程度しかも落選) マジで"それ以下” ”何十年まえだよ..”です。内装よりも現れてます。ひどすぎです。 あんなものを少しでもいいとおもうようなら あなたはセンスが0ではなくマイナスの人だということです。 (認識さえすればOKです。センスはあげられます。そして建築にセンスはいりません。個性?いるわけねえだろ公共物だろてめ-の個性より家の個性のほうが重要なの!!)

わしはまじオコットルゾ−

へぱ敬具




フィニガン氏への手紙

拝啓。

先日建築コンテストなるものを、閲覧してみたのですが、 非常に疑問におもうことがありましたのでお手紙さしあげます次第。 コンテストとは大変難しいもので、 評価基準なくしては順列などつけようもないものであります。 また美的感覚やら個性やらは非常に多様性にとみ、はかりに載せる事自体 かなり苦しく、そしてまた難しいものであるとはご存知のはずです。 ただこれは真実ですが、美には絶対的基準が存在します。 ですがまた、それを激しくきちんと理解する人は少ない、というのが現実であります。 そのようなコンテストという存在において、 "フィニガン氏を信頼しろ”.. なんの実例もださずにそのようなことをいっていいのでしょうか? しかも、権威をもちえる立場(ただし市長ですから、美的権威はありませんね。) にたって、信頼しろ、と。 それはまるで、市民たちにとっては ”このようにしなさい”といっていることと同じように聞こえてしまうのです。 例え本人が否定したとしても。 つまり、公的立場にいてしまっている人間の評価は慎重であるべきです。

すぐれた建築家はしっています。建築は公共物です。
建築には必ずコンセプトがあり、基準はもう先に絶対的に存在しているものです。
建築家としていわせていただければ、 賞のカスタマイズハウスは、 発想がいかにめあたらしく、ネタとしての 違いをきそうもので、ありえなければありえないほどいいというぐらいのレベル その作品性はあまりにもひくく、(だれにでもできますあんなものは) それらを評価してしまう事自体が、建築の文化的発達を阻害する可能性 につながると思います。

よく個性という言葉を耳にしますが、 多様性を認めるということは、むしろ、多様性に名を借りた 非人間性、いってみればただのゴシップを否定することからはじまるのです。
まっしろいチャペル..それは日本人特有のすりこみであって 大変ありがちな"勘違い和洋折衷”の結果であって個性ではありません。
まらすへいけばあんなものはゴマンとあります。

重要なのは作品性で、多いか少ないか違うか同じかというのは関係ないのです。 文字を書いてしまっている家は無数にあり、 それはペンキ屋看板屋の仕事であって建築的個性ではありません。
建築をうたいつつ、建築でない部分を個性として評価しているとしか見えません。 そのような混同がはたして公益なのでしょうか?
評価に値していいものなのでしょうか?

あなたが評価してしまった家−それは本当に公益性にはんしていないのでしょうか? 個性を率先して認めるには、むしろその公益性、普遍性、正当性を問わなければなりたたない-普遍的価値として-という常識は在ってしかるべきではないのでしょうか? 個人主催ならば区別もつきます。ですが..

評価基準が公人の私的価値観によって行われてしまっていて、なおかつそれが 公益に反しているこのことは非常に危険だとおもいます。
もし公的機関が評価をするならばそれは公益性、普遍性にもとずくべきことで、 個人主催のとは立場も扱いも違うのは、あなた達が望むかどうかとは関係なく 現実的影響を考慮すれば当然のことではないのでしょうか? "独断と偏見で”はあってはならないのが常識的態度ではないのでしょうか。

評価があまりにかたよった選別の仕方をし なおかつ、信頼しろといい、賞をあたえる。
これではただの愚民政治ではないのでしょうか?
文明破壊ではないのでしょうか?


以上の理由をもちまして、フィニガン市長は公人には適さないと 私はおもいます。つまりあなたは私物化したのです。


名前はふせさせていただきます。
権利明記のない状態では、信用できません。
あなたがどのような手続きをへて、市長になったのか、不明ですから。