「来いよ」
そう言われてすぐに言う通りになんてできない
お兄ちゃんはベッドの上に腰を下ろして 壁にもたれて私を見てる
長めの前髪に隠れているため 左目だけが挑発するかのように強い視線で私を射抜く
私は床の上にぺたんと正座みたいな格好で座って そんなお兄ちゃんを見上げてた
「嫌か」
ううん 嫌じゃない
だけど足が動かない 怖い気がする
だっていつものお兄ちゃんはこんな表情しないもの
からかいの言葉も その口から出る気配はなかった
私たちは 血の繋がっていない兄妹だ
そのことを 私はずっと前から知っていた
そして お兄ちゃんは私が知るよりもっと前
私の家に引き取られた時 既にこのことがわかる年齢だった
同じ屋根の下でお兄ちゃんと私は育って
お兄ちゃんは高校を卒業してすぐ 家を出て行って
お兄ちゃんを笑顔で見送ったお父さんとお母さんは
家に帰ってから とても とても悲しい顔をしていた
その日 私ははっきりと兄への恋心を自覚した
15歳の春のことだった
あれから3年
私は卒業証書を見せに兄のアパートへ行った
告白は卒業式の日に限ると なぜか私は思っていたから
当たって砕けるかもしれない でも もしかしたら砕けないかもしれない
私たちが本当の兄妹ではないということについて
私たちは一度も話し合ったことはない
兄は 私がこのことを知らないと思っている
そんな中で 私の言おうとしていることは どう考えても
兄を混乱に陥れることだとわかっていた
一生懸命お兄ちゃんをやってくれていたのに
私はそれを全てだいなしにする
駅でお兄ちゃんを待つ間 私はこれからすることを止めようとする自分と
言わなければ始まらないと叱咤激励する自分とに分かれて苦しんでいた
もうどうにでもなれ と思ったり そうするとお父さんお母さんの顔が浮かんだりして
半分泣きそうになっていた
「どうした、そんなに卒業したのが悲しいか?」
肩を叩かれて お兄ちゃんが目の前で笑ってた
痛いくらい好きなお兄ちゃんの笑顔
その瞬間
(やっぱり言おう)
私は決めていた
高校の卒業証書を取り出して渡すと お兄ちゃんはしげしげとそれを眺めて
「お前でも卒業できるんだな」
と言った
いちいちそういうこと言わないと気が済まないんだからと私はむくれた
「冗談だよ。おめでとう」
そう これって反則
お兄ちゃんは嫌なこと言った後に 必ずこんないい顔をする
そんなとこも好き
思えば今までずっとお兄ちゃんはひとつ上の位置にいて
私を見下ろしていたような気がする
そんな兄貴風吹かせるお兄ちゃんが嫌だった時期もあったけど
それがいつのまにか全然嫌じゃなくなって
そして気付いたら ちっちゃかった時と同じように
お兄ちゃんの後ろをついてまわるようになった
お兄ちゃんがお母さんに買い物を頼まれたら私もってしがみついたし
家族全員でどこかに出かける時だって 私の右手は兄専用だった
お兄ちゃんと私に血の繋がりがないことを知ったのは私が小学3年生の時だ
その頃 地元の野球クラブに入っていた兄は毎日帰りが遅かった
6年生の兄とは朝は一緒に登校していたけれども 帰りは別々
玄関とリビングをいったりきたりして兄の帰りを待つ私を見て お母さんは
「ほんとにあなたはお兄ちゃんっ子ねぇ」
と半分あきれて でも嬉しそうにそう言っていた
お兄ちゃんがいないととても不安だった
繋いでない右手が頼りなくてなんだか悲しかった
悲しい気持ちは悪い想像へと簡単に変わっていって
もしこのままお兄ちゃんが帰ってこなかったらどうしようと いつも思っていた
強く思ったことは現実になるんだってこと 私は後になってから誰かに聞いた
この時の私が知っていたら 絶対に嫌なことを考えるのをやめたのにって思う
たとえそれが単なる迷信みたいなものだとしても
もしかしたらということもありうる
電話をとったのはお母さんだった
明るい声で「はい」と言った後 「え!?」と驚いた顔をし
次に続いたはいの声は重い口調になっていた
その様子に この電話は悪い知らせだと私はわかった
と同時に これはまだ帰らないお兄ちゃんに関するものだと思い
受話器を置いた母に私はまとわりついた
「ちょっと待ってなさい。お父さんに電話するから。
それから出かける準備をして。これから学校に行くわよ」
どうして学校?
母の側を離れられなくて そのまま電話の話を聞いていた
そうしたら 母は父にこう言った
「お兄ちゃんが交通事故に遭ったらしいの」
私の左手を引っ張る母の顔は完全に青ざめていた
いろいろ聞きたいことはあったけれどもどうしても聞けなかった
やがて学校に着くと すぐに車に乗せられた
運転席には 見たことはあるけどよく知らない先生が座ってた
玄関には他にもたくさんの先生が立っていて
これは大変なことが起きたのだと さすがの私にもわかった
「お母さん」
心細くなって私は手を母へ向けて伸ばした
握ってくれたその手は冷たく湿っていて 母も心細いのだと思った
「お兄ちゃん、大丈夫だよね」
「大丈夫よ」
前を向いたまま 母は言った
運転している先生は黙ったままだった
私は心の中で ごめんなさいごめんなさいと言い続けた
神様ごめんなさい
私はこれからいい子になりますからお兄ちゃんを助けてください
宿題はひとりでするし 朝もひとりで起きます
だからお兄ちゃんを助けてください
授業中おしゃべりもしません 一日に一回手を挙げて発表します
だからお兄ちゃんを助けてください
お母さんにバカって言わないしお父さんにも言わないしお兄ちゃんにも言いません
お兄ちゃんにバカって言われても我慢します
だからお兄ちゃんを助けてください
神様 お願いだからお兄ちゃんを助けて!
ぽろぽろと雫が頬を零れていった
それをお母さんが指でいっぱい拭いてくれた
あの日 私は本当に一生懸命だった
車を降りてからもずっと泣き通しで しゃくりあげながら病院の自動ドアをくぐった
目の前にお兄ちゃんがいた
待合室の椅子に座って きょとんとこちらを見ていた
お母さんは私の手を引いて お兄ちゃんの名前を言いながら近づいていった
「大丈夫なの!?」
「うん。でもこれから検査だって。ぷっ、お前何泣いてんだよ」
私は安心して うわーんと声を上げて泣いた
兄は練習が終わって帰る途中 学校に遊びに来た友達の自転車に乗っていて
スピードを上げて曲がってきた車にぶつかり ぽーんと飛ばされたのだった
それがあまりに勢い良く飛んだものだから その場にいた子たちが大騒ぎをし
起きるに起きれなかったと 兄は後で言っていた
それにしても人騒がせな話だ
あの 病院に向かう間の心細さは後で思い出しても身震いするほど嫌な体験だった
でも お兄ちゃんが無事で良かった 本当に良かった
その夜 興奮のためかなかなか眠ることができなかった私は
とりあえずトイレにでも行こうと一階に降りた
そして リビングのドアの陰で 父と母の話を聞いてしまった
「まさかこの子も交通事故で死んでしまうのかと思って私は……」
「何を言っているんだ。縁起でもない。……しかし良かったな。何事もなくて。何かあったらあの子の両親に申し訳が立たない」
あの子の 両親?
「今じゃ本当の兄妹のように仲が良くて、ふふ、まるでアヒルの親子みたいよ」
本当の 兄妹 じゃない?
「あいつは……よく面倒を見てくれているな。普通の男の子じゃこうはいかんだろう。恐らく……我々に気を使っているのだろうな」
「そうね。でも本当に嬉しいみたいよ。懐かれて。だって時々まんざらでもないって顔をしているもの」
お兄ちゃんは 私の本当のお兄ちゃんじゃない……
ここまで聞いて 私はそっと部屋に戻ってふとんをかぶった
とんでもないことを聞いてしまった
世界がまるきり変わってしまうかもしれない
むやみやたらとワクワクして それからもしばらくの間寝つけなかった
でも 世界が変わるはずの次の日は いつもとまったく同じ始まり方をした
遅くまで起きていた私は前日のお願いも忘れてすっかり寝過ごし
お兄ちゃんの怒声で起こされた
「起きろ! 早く起きねぇとお前の分の朝メシ食っちまうぞ!」
家を出るときに自然と握られる右手も いつもと同じだった
お兄ちゃんなのにお兄ちゃんじゃない でもやっぱりお兄ちゃんなんだ
と わかったようなわからないようなことを 私は胸の中でつぶやいた
「お兄ちゃん。私知ってるの」
証書から上げられた顔は 何を言ってるんだ? と質問している
私は答えた
「お兄ちゃんは、私の本当のお兄ちゃんじゃないってこと」
兄の表情がガラリと変わった
いままでこんな顔をさせたことがあっただろうか
兄はいつもポーカーフェイスで よっぽどのことがない限りその表情に変化がない
私は今 戦っているんだと思った
お兄ちゃん という優しくて暖かいものを脱ぎ捨てようとしている
代わりに痛くて苦しくて切なくて でもすごく大切な 世界にたったひとつの愛しいものを手に入れようとしている
この部屋を出たときには どっちもこの手の中にないかもしれないけれど
ごめんね お兄ちゃん
「いつから知ってた?」
兄は証書をテーブルの上に置いて 私に尋ねた
「3年生の時、わかったの」
「3年……中学か?」
「違う。小学校3年生の時」
できるだけ平常心で話そうと思ってたけど
声がうわずりそうで 心臓がバクバクいっていて
これからまだ好きだって告白しなきゃいけないのに
このままじゃ到底そんなこと言えそうにない
お兄ちゃんは 何か考え事をしているみたいだった
私は待った
こんなこと言われると思ってなかったお兄ちゃんに時間をあげなきゃと思った
しばらくして お兄ちゃんは私を見た
辛そうな目をしていた
お兄ちゃん ごめんって何度も言いたくなった でも 言わなかった
もう今更だからだ
お兄ちゃんは言った
「お前……あの頃おかしかったよな。俺はまさかって思ったんだ。まだ小学3年だろ。知ってるはずないって。知ってたら俺か……お前の母さんか親父に確かめるだろうって」
ああ お兄ちゃんが遠くなっていくなって私は思った
自分で始めたことなのに 「お前の」と言われたことにショックを受けた
「……そうか。そうだったのか。お前さ、あの頃から俺に頼らなくなったよな。急に優等生ぶってさ、『ひとりでできるもん!』なんて言いやがってさ、どうしたのかって聞いたらお前、『神様と約束したもん』って。……ハハハ、何だそれ、今思えばへたな言い訳だよな」
「それは……!」
本当に神様と約束したの
お兄ちゃんを助けてくれたから だから私も約束守ろうって
続くはずの叫びは口から出なかった
へたな言い訳
そう言われたことによって 神様との約束は口実でしかなかったのだと
この瞬間 私はわかってしまった
思えば もう既にあの頃から私は兄を意識していた
”お兄ちゃん”ではなく ”年上の男の子”として見ていた
大好きなお兄ちゃんではなく 大好きな年上の男の子だった
お祭りで金魚をとってとねだった時も
ふざけて兄にケーキを食べさせてもらった時も
私は心の隅に小さなときめきを抱えていた
楽しくて嬉しくて仕方なかった
中学生になってからも 私は無邪気を装って右手を兄に差し出した
普通の高校生の男の子だったら 妹と手を繋ぐなんてできないだろう
特にお兄ちゃんみたいな ちょっと見怖そうで硬派なタイプは
なのに いつだって嫌がらなかった
前みたいに黙ってすんなり ということはなかったけれど 大抵
「しょうがねぇな。そこの角までだぞ」
とか言いながら きゅっと優しく握ってくれた
兄は口は悪いけどいつも優しかった
それは他人だから 兄はうちの両親に対して恩を感じているから
だから 絶対に私を拒絶しないって 私は わかっていた
そんな 今までのいろいろなことがまるで嵐のような勢いで思い出された
何も言えなかった
私はずっと お兄ちゃんを騙してきたんだ
「図星……か」
長い長い沈黙だった
二人でいて こんな気まずい時間は初めてだ
何か言わなくちゃ でも何を言えばいいんだろう
私はなんとかしたくて すがるような気持ちで右手を出した
兄が 首を横に振った
「ダメだ。俺はもうお前のお兄ちゃんじゃない」
初めて拒絶された手が 力を失って床に落ちた
手だけじゃなく 体中全ての力がなくなっていくような気がした
そして それに追い討ちをかけるような言葉が続いた
「お前はもうここに来るな」
「…………どうして?」
私は泣きそうになるのをすごく我慢していた
本当に泣きたいのは私じゃなく 兄だと思ったから
私は兄を傷つけている
言ってはいけなかった
私は間違っていた
「わからないか? 俺とお前は血が繋がっていないからだ。
本当の妹じゃないお前が、俺のところに来るのはおかしいだろ」
止められなかった
目の裏のしびれは簡単にたくさんの涙を生み出していった
兄の口から出た言葉があまりに直接的で痛かった
そして言った兄はもっと痛い思いをしている
「ごめんなさい……お兄ちゃん……ごめんなさい……!」
私はもう兄の顔をみていられなくて下を向いてしまった
私が欲張ったせいで こんなに悲しいことを言わせて
どうしてこういう展開になるのを予想できなかったのかと体が千切れそうなほど後悔した
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