屋上に通じるドアを開けた月森の後ろにいても
人がたくさんいる気配はすぐに感じ取れた
ほら言ったじゃない と口に出さないまでもそんな少し咎めるような視線を送ったけど 月森はためらうことなく足を踏み入れさっさと左に曲がっていき 私は仕方なしにその後を付いていった
やっぱり生徒がけっこういる
音楽科校舎の屋上だから当然音楽科の生徒ばかり
そして私たちに気が付くと おや? といった風に目を見張っているのがわかる
そりゃあそうだよね
対立してると思ってた二人が一緒にいたら不思議に思うよね
これから何が起こるんだろうって 興味深々なのもわかる
でも 月森はそれを気にしているのかいないのか
または注目を浴びていると思っていないのか
まるきり平常通りの歩き方で私の前を進み続け と思うと突然振り返った
「座るところがないが構わないか?」
「へ? あ〜、はい! はいはいはい。構いません」
「はいは一回でいい」
「…はい」
「…………こっち」
びっくりした
すごくびっくりした
制服の袖 肘のところを ちょん と引っ張られた
これが他の男子だったら普通のことかもしれないけれど
月森がこんなかわいいことをするとは思わなかった
これは……私たちの距離が近づいているって思っていいの?
喜びは束の間 彼の指はすぐに離れて 私はまた後ろを大人しく付いていった
だけど たったこれだけのことで心躍って もうその時には周りなんてどうでもよくなっていた
月森は一番奥 角の日陰になっているところまできてやっと止まった
「こんなところですまないが」
「全然気にしなくていいよ」
本当は座れればよかったんだがと 彼は一番近くにあるベンチに視線を向けた
「いいって。立ってるの好きだし」
別に好きでも嫌いでもないけど さっきからやけに気を使う月森になんとか安心してもらいたかった
「そうか。知らなかったな」
真面目にそう返されて
「あ、座るのもけっこう好きだけど」
「そうなのか」
と どうでもいい会話をしてしまった
結局 この日はヴァイオリンを教えてもらうことはなかった
その代わり 話をした
何を話したのかというと
そう 月森にこう言われた
「俺は、君が気になって仕方がなかった」
きつい眼差しが屋上の柵を越えて遠くを見つめている
その顎のラインがすんなりと綺麗で 指で辿りたいと思った
私はまださっきの余韻でふわふわした心地を抱えていた
「気になる」という言葉をどう取り扱えばいいんだろう
私もいろんな意味で月森が気になっているけれども
この固い口調は私の思うそれらとは異なっていそうな気がする
がっかりだな…とぼんやりしているうちに せっかくの言葉は素通りしていった
そのうち視線がふいっとこちらを向いた
「ちゃんと聞いているのか?」
「…聞いてるよ!」
「そうか」
穴よ開けといわんばかりに見つめられて後ずさりしそうになった
彼はベンチが開いたからと また私の制服をつまんで誘導した
私も彼もヴァイオリンケースとかばんを静かに脇に置いた
座る私たちの間には15センチほどの空間があった
スカートから出ている膝頭が気恥ずかしくて 隠すように両手を置いた
「君の音は、いいと思う。…………そんなに驚いた顔をしなくてもいいだろう」
月森の言ったことにだけ驚いたんじゃなくて その声音の柔らかさに胸を打ち抜かれたんだ
「俺の目指しているものとは違うが、妙に惹かれるものがある。…なぜだろう。ずっと考えていた」
膝の上に置かれた月森の交差した指先
左の親指を右の親指でさすっている
こんなに近くで見る彼の指
この指が難しい曲をさらさらと弾きこなすんだ 私には曲芸にしか思えないような動きで
しかもそんな彼が私の音をいいと言ってくれている
嬉しい
「君の音は…言うなれば破壊と創造、といったところか」
「…………は?」
かい?
聞き間違ったかと勢い込めて顔を見たけれど 神妙な面持ちで見つめ返されてしまった
これじゃ文句も言えない
「君はめちゃくちゃだ。言うこともそうだし、俺には考えられない体勢でヴァイオリンを弾いているし、けしてうまくはない。いや、はっきり言わせてもらうとむしろ下手だと言っていい」
甘い気持ちでこの人を見てはだめだった 忘れていた
だけどどうしてか こんなことを言われているのにちっとも嫌な気持ちがしなかった
「しかし下手なのは当たり前だ。君は初心者なんだから。たとえリリに魔法のヴァイオリンとやらを貰ったところですぐに上手くなるほど簡単なものじゃないんだと、君を見ていて俺は思った。それを確認したくて、君を追いかけていたのかもしれない」
「追いかけてた? 私を?」
「さっき言ったじゃないか」
聞いてなかったんだな と月森は額に手をやった
ごめん 全然聞いてなかった ごめん
私も同じことをしたい気持ちになったけど ちゃかしているように思われたら損なのでやめた
やがて 月森は額を押さえた指の隙間から見上げてきた
「日野さん」
「……はい」
「もしかするとさきほど俺がした話は全て聞いていなかったということだろうか」
申し訳なさいっぱいで頭を垂れた
「それならいい」
「…ごめん」
「いや、いい。むしろその方が都合がいい」
「え? ちょっと、何を言ってたの?」
咄嗟に掴んだ白い制服
ニッと笑う月森
なんか 今私たち すごくいい感じだと思うのは気のせいかな
…気のせいだなんて思いたくない
その時 最終下校を知らせる6時のチャイムが鳴った
彼はすぐに表情を引き締めて立ち上がり 私もそれにならう
もう終わりだなんて 時間が経つのってなんて早いんだろう
とても立ち去り難いと思っていた私は ヴァイオリンケースを持ったところではたと気が付いた
「あ! 月森くんにアドバイスもらうはずだったのにすっかり忘れてた」
「そういえばそうだな。うん……。君さえよければ明日またここで会わないか。
今度はちゃんとヴァイオリンの練習を…………あ、俺が話をしてしまったばかりに、すまない」
なんだか今日の月森は謝ってばかりだ
こうして小さくなっているのを見ると普通の男の子に見える
そうだよね 同じ学年なんだものね
「うん! 全然いいよ。気にしないで。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく。……帰ろうか」
こうして話ができただけでも有頂天なのに 明日の約束までして
しかもそのまま共に校門を出て途中まで一緒に帰るなんて まるで付き合っているみたいだと 別れ際手を振りながら私は心ひそかにガッツポーズをした
そんなふうに大喜びしていた次の日
傍から見ても月森と私はそう見えたらしく 私たちが付き合っているという噂が学院中に広がっていた
噂自体は嬉しいけども 事実ではないから気分は微妙だ
会う人ごとに聞かれて 違うと言い続けるのにもいい加減うんざりしていた放課後
以前の私だったらひとりで屋上になんて行けなかったかもしれないけど
今までさんざん噂の張本人だった経験を生かして 私は堂々と音楽科校舎に乗り込んでいった
それでも完全に平気というわけではなく どこからかヤリでも飛んでくるんじゃないかと多少警戒しながらなんとか階段まで辿り着いた時 後ろで声がした
「先輩!」
私のことじゃないだろうとそのまま登ろうとした
「香穂先輩!」
「違います!」
とっさにそう答えながら ぶるん と振り返ったら 冬海ちゃんがぽかっと口を開けて下から見上げてた
「香穂先輩……ですよね?」
「あー、違うの! …じゃなくて、そうそう!」
両手でぶんぶんと横に手を振ると 首を傾げて更に不思議そうな顔になった
「香穂先輩…大丈夫ですか? 月森先輩とのこといろいろ……言われているんでしょう?」
「平気。だってもうこういうの慣れたもん」
冬海ちゃんはじーっと私を見つめてくる
私は取り繕うように言葉を重ねた
「でも事実じゃないから。まだ付き合ってないし。…あ」
まだ って言っちゃった
そんな私に冬海ちゃんは階段を登って近づいてきて 私の左手を両手で包んでくれた
それだけで元気が出てくるのがわかった
「いろいろ大変だと思いますけど……がんばってくださいね」
「うん。ありがと」
肩の上で小さく振られる手に見送られて 駆け足で一気に階段を登りきる
息を整えて扉を開けて 昨日と同じ賑わいの中きょろきょろと見回していたらまた声がかかった
「ヒノさーん。月森くんならあっちのベンチで待ってるよー」
声のしたほうを仰ぎ見ると 屋上2階から体を乗り出した音楽科の男子生徒が奥を指差していた
ありがとうございますとお辞儀をして左へ曲がると 昨日と同じベンチに月森と彼を取り囲むように男子生徒数人が固まっているのが見えた
何かいちゃもんでもつけられてるのだろうか
囲まれる という状態にあまりいい印象がない私は ついつい早足になる
にもかかわらず 出迎えの声は突き抜けて明るい調子だった
「お! やっと来た〜。待ってたぜ、日野香穂子さん、だよな?」
声をかけてきた子は振り返って確認をとっている
それに対して頷く素振りの月森が男の子たちの隙間から見えた
「じゃ、俺たちは退散っちゅうことで。じゃあな〜」
明るい集団はそれぞれ何かしら言いながらどこかへ行ってしまった
「今の、誰?」
「クラスメイトだ。…座らないか?」
言われるまま腰掛けて前を見ると 私たちの周りの雰囲気が 明らかに昨日と違うものになっていることを感じた
注目のされ方がもっとあからさまになっている
盗み見ではなく 堂々と観察されているようだった
「ここに来るまでは気が付かなかったが」
月森は前を見たまま話し出した
「俺たちはだいぶ注目を浴びているらしい。君とのことで噂になっていると聞いた時はこれほどとは思わなかったのだが…」
眉をきゅっとひそめ 口元はむっつりとしている
普段ほとんど表情が変わらないだけに それを見て私ははっとした
さっきまでの浮かれた気分が急速にしぼんでいく
ああそうか 月森はこんなことになって困ってるんだ
私は 確かに今日一日 あんまり同じことを言われ過ぎて嫌だと思いはしたけども
実は心の底では喜んでいて 授業中 ふとそのことを思い出して嬉しくなったりしていた
特に古文の時なんて真面目な顔を作りつつも 頭の中では先生の声は右から左へオールスルーだった
でも 月森は違うんだ
私と違って本当に真面目だから こんなくだらないことで時間を取られて迷惑だったんだ
悪いことしちゃったな…
私は慌てて言いつくろった
「ごめんね? やっぱり私たちが一緒にいるのまずくない? …第一、私たちってライバルだし、そう考えたら教えてもらうなんて図々しいよね。あー、やっぱり甘えてたんだなあ。月森くん優しいからさ、やっぱり自分で解決することにするよ!」
自分でもわかる
今 私 無理やりテンションを上げてる
自然と忙しない動きをする手のひらは まるで月森側から漂ってくる気まずい空気を振り払おうとするかのようだった
言い終えて 少し落ち着いて
私はそれまで宙に浮いていた両方の腕をぱたんと膝の上に落とした
と 同時に気配を感じて横を見た
そしたら なんともいえない わかんない 強いて言えば…困惑 そんな雰囲気の月森と目が合った
胸が痛む
お腹もぎゅっと搾り取られる感じ
どうしてここでそんな顔するんだろう
いっそのこといつもの無表情でいてくれたらいいのに
立ち上がろう ここから出て行こう と思っても
彼のした表情に何か意味を知りたくて でも知りたくなくて どうしたらいいかわからなくなる
「あー…、別にさ、どこかで偶然会ったら話してもいいと思うし、それくらいはね。私、月森くんのヴァイオリン好きだし、時々練習しているのを聴きに行くかも知れないし、せっかくこうして知り合ったんだから、それくらい……いいかなって」
思いつく言葉をそのまま口にして 結局支離滅裂な気がする
こんな時どうすれば落ち着くのか 今までどうしてたんだろう
好きな人に近づきたいけど 迷惑にならない程度っていうその距離が全然測れない
ここで絆を断ちたくない
だけどしつこくすがって嫌われたくない
でもここを離れたくない
らしくない こんなの私じゃない
ホントにどうしちゃったんだろう…
とうとう言葉が尽きてしまい 俯いた
頬から耳の辺りが熱く 膝頭に乗せた手のひらにもうっすらと湿った感触がする
「俺も…………俺も、君のヴァイオリンが好きだ」
耳に 月森の声がした
心の奥を救い上げる柔らかな声
「昨日も言ったが、あんなにめちゃくちゃなくせに、観客が集まってくる。音楽は人に聴いてもらって初めて完成する。耳で、そして目で、感じてもらうんだ。君が嬉しそうなら観客も笑顔になり、悲しげな旋律を奏でれば聴いている人も同調して同じ空気の中を漂う。そこに君の世界が出来上がる。心の内を解放して、俺たちを招いているような気がする。一緒に楽しもうと言われているような気がする」
何を言っているのかよくわからないけど 誉められているんだろうなと思った
なんでもいい とにかくしゃべってくれれば 私がここにいる理由が成り立つ
「君が、好きだ」
…………え?
「また聞いていないなんて言わないだろうな」
「……きいてるよ、でも、信じられない言葉なんだけど」
「では信じなければいい」
「イヤ」
驚くほど甘えた声が出た
恐る恐る見上げると まともに目が合って 耐え切れなくてすぐに逸らした
「イヤ、というのは、都合のいいように解釈してもよいだろうか」
「……すればいいんじゃない?」
リードされていてなんだか悔しい
だからこんな憎まれ口をつい叩いてしまう
さっき「イヤ」なんて言っちゃってたクセに
でも嬉しい すごく嬉しい
「出よう」
手を引かれた
今度は服じゃなくて ちゃんと手を握られた
ざわめきが一層大きくなって私たちを包む
口笛と 歓声と
私たちを追って 私たちはそれを置き去りにして
終いには扉の向こうに全て閉じ込められた
重い扉がギーっと閉まると いきなり辺りは静かになった
私たちは向かい合わせに立って 互いを見つめた
やっぱりまだ耐え切れない まともに顔を見るのがこんなに恥ずかしいなんて
視線をそっと月森のスカーフへと移す
規定通りに胸元におさまっているスカーフ留め
ふいに また手を掴まれた
扉を開けるために一度離れた手のひらが また私の手を包む
そのまま引き寄せられ ヴァイオリンケースがこつんと当たる感触がした
私たちの間の距離なんてもうほとんどない
予感に胸が痛いほど高鳴る
このままずっとこうしてると心臓が壊れちゃうかもしれない
仕方ないから顔を上げた
そうしたらまともに真面目な瞳とぶつかってしまって
その瞬間 身体の芯がぞくりと震えた
ああもう逃げられない そう思うことが嬉しかった
視線を縛られてしまった
月森は そのままふわっとかぶさってきた
あっ
来る……
ぎゅっと目をつぶった瞬間 唇が塞がれた
……すごく 柔らかい
そうとしか言えない
触れ合った部分だけまったく別のものみたい
まるで初めて体験するみたい
私 月森くんとキスしてる
触れるだけのそのキスに 腰がくだけそうになるのを必死で押しとどめた
支えてもらえたらいいのに だけど私たち 二人とも片手にヴァイオリンケースを持っている
もう片方は互いの手の中
すごく好きになってから初めてするキスって こんなにすごいんだ……
唇が離れたその隙間 不謹慎にもちょっとだけそんなことを思っていた
そういえば
好きだと言われたのはこの一回きりだ
今考えれば月森にはありえないほどストレートで素直な表現
あれから何度も言わせようとしたけれど 彼はがんとして聞き入れてくれない
「君はそんな言葉ひとつでなにもかも信じられるのか?」
と 屁理屈をこねる憎たらしい奴
だいたい考えてることが顔に出なくてわかりにくいのにプラスして口でも言わないとはどういうことだろう
それらしい意味合いのことをほのめかす程度のセリフを言う時も 極たまにあるといえばあるけど それだけでははっきり言って不満だ
でも しょうがない
もしかしたら そういう部分もひっくるめて好きなのかもしれない
恋も ヴァイオリンも 私は月森という向かうべき場所があるからこそ 迷わないで進めるのかもしれない
結局 第一セレクションの結果はというと 私は完璧に月森に負けた
あいつは堂々と1位をかっさらい 私は4位だった
周りは惜しかったとか 音楽科と立派に渡り合っていてすごいとか言ってくれたけど もちろんそんな成績で満足するわけがない
優勝するつもりで そう周りに宣言しておいて入賞すらできなかったのだから
練習して 練習して 練習して迎えた第2セレクション
なのにまた4位だった時は もうやめてしまおうかと思った
しかも得点が上位3人の接戦に遠く及ばない結果で
当然のごとく月森はその中で優勝を勝ち取っていた
ライバルは月森だけじゃない
土浦くんも冬海ちゃんも みんな 優勝を目指して必死なんだ
やめたいと思ったのはセレクションの日だけだった
今はちゃんとこうして次へ向けてがんばっている
上手くなりたい もっともっと
弾き終えた月森に 私はありったけの拍手をした
このままじゃだめだ
練習するしかない
こんなすごい演奏を聴いてしまったらその上をいくしかないじゃない
決意を新たにしたことを告げると 珍しくちょっと笑い返してきた
そしてこう言った
「期待している。ただ、無理をするな。俺のようになろうと思ったとしてもそれは無謀というものだ」
「そんなことわかってるよ」
からかわれている
その余裕が悔しいけれど 月森になら言う権利はあると思う
練習量 集中力 ヴァイオリンにかける姿勢
側で見るようになって 私の考えるそれを彼は遥かに越えていた
そこに妥協なんてない そんな暇はどこにもない
常に崖っぷちにでも立っているような緊張感が彼にはある
そんな姿を見ていて これじゃあ毎日大変だろうなと思いつつも
自分を振り返ると ただなんとなく日々を過ごしてしまったことを後悔してしまう
きっとスネているように見えたんだろう
月森は私の顔を覗き込んできた
「俺は、日野の作る音楽が好きだ」
なだめるような声
私はなんだか甘えてみたくなった
「音楽だけ?」
「……全部だ」
「音楽の部分を抜かして言ってみて」
「俺は日野の作る”んー”が好きだ」
「真面目な顔して何言ってんのよ」
「君が言えと言った」
バカじゃないの?
そうつぶやいたら
「…………そうかもしれないな」
と 小さい声が返ってきた
〜fin〜
|
|
|