キスのシチュエーション


気が付くといつもつぶやいている
「氷室先生」と小さくつぶやいている


先生とつきあうことになる前は このつぶやきを胸の痛みなくして口に出すことができなかった
だけど今は その中に甘いうっとりとした感触を感じることができる

日ごとに苦しくなる想いと共に先生の名を口にしていたあの日々
それは卒業と同時に過去のものとなった

それでも時折 あの頃の苦しみがよみがえる時がある
私はまだ 氷室先生とキスをしていない



先生が家に来たあの日 4月1日
私は初めて氷室先生の車の助手席に座った

いつも遠くから そして近くから眺めていた先生の車
左ハンドルでスポーティな車体
先生の生徒だったとき 憧れて 憧れて 憧れた 助手席の位置

もう夜遅かったから どうしてもってねだって
ちょっとだけ近所を一周してもらった
たった10分くらいだったけど すごく すごく 嬉しかった
隣に座った私は興奮して間断なくしゃべって 先生に少し呆れられた



二度目のドライブの行き先は海だった
先生はスーツに革靴で砂浜を歩き

「靴に砂が入る」

などと当たり前のことを言って眉間にシワを寄せていた

「先生が連れてきてくれたクセに」

いくぶんはしゃでいた私は それまで先生に対して使っていた丁寧語を忘れて言う

直後 しまった! と思って肩をすくめると
先生はそんなことなんでもないように

「そうだな」

と 口元を緩めた



三度目のドライブでは クラシックのコンサートに行った
席に着いてプログラムを開いた私は うわあと歓声をあげた
見ただけでわくわくするようなラインナップに自然と顔が笑ってしまう

「先生これ、私に合わせて……?」

隣を振り返ると 先生はさっと顔を手元のプログラムに戻した

「た、たまたまだ。しかし気に入ったのなら良かった」

普段の先生らしくない慌てぶりを見て さっきとは別の意味で顔が笑った
笑ったというより ニヤけたという方が正しい

「なんだその顔は」

視線を感じたのだろう 氷室先生はこっちを見て怒る

「えへへ〜」
「……まったく仕方の無い」

本当にそう思ってるかどうかなんて 先生の顔を見ればすぐわかる
私はその後もしばらくひとりで思い出し笑いをしては先生に怒られた



そして四度目の今日 私は自宅の前で先生が来るのを待っていた
ぽかぽかと暖かい陽気で 太陽に温められた優しい風が体に心地いい

好きな人を待つこの時間
これ以上の幸せはないと私は思う


腕時計を見て 約束の時間15分前だということを確認した
前回のドライブの時 外に出たら既に先生が待っていたから
今日は先生の車が家に向かって走ってくるのを見たいと思った

気持ち背伸びをして 車が来るであろう方向をじっと見る
まだそれらしき音も聞こえてこなかった

(ちょっと早すぎたかな)

もう一度時計を見ると まだあれから1分しか経っていない
約束の時間14分前

それならばと 私は氷室先生のことを考え始めた
ほどなく いつも頭に浮かぶひとつのシチュエーションが脳裏をよぎる

氷室先生との キス

これまでの3度のデートで 先生は私に触れたことがない
手すら握ったことがないのだ
もしかして私に対してそんなことをする気持ちになれないのだろうかと
デートのあった日 私は自分のベッドの上で何度もため息をついた

今日こそは キスができるだろうか


再度時計を見た
ちょうど約束の時間10分前 先生はまだ来ない

私は人差し指を自分の顎に持ってきて ゆるゆると喉の辺りを辿った
先生はどんなふうにキスをするのだろうか
いつもきれいに切りそろえられた爪を持つあの指が
私の顎を捕らえて 上向かせる時なんて来るのだろうか

全然想像がつかない
そんなことありえないとさえ思ってしまう

付き合っているのに 好きだって言われたのに
先生はそんな素振りをまったく見せないから
私だけがこんなことを考えて ひとりでバカみたいだって思う
それでもやっぱり考えずにいられない

私の指は自然と顎から上に動いていく
唇にほんの少しだけ触れて 目を閉じた
自分の指を 氷室先生の唇に見立てて じっと その感触を確かめていた


突然 名前を呼ばれた

「きゃあっ!」

叫びと共に目を開けると 目の前に 氷室先生ご本人様がいらっしゃった

「せ、せせ、せ、せんせぃ……」
「何をしている。早く車に乗りなさい」

驚き慌てふためく私と対照的に 先生は恐ろしく普段通りだった
私はあまりの恥ずかしさにその場を動けず 背を丸めて小さくなっていた

「早くしなさい」
「はい……」

うながす声もいつも通りで とりあえず言われるとおりに急いで助手席のドアを開けて中に入った


車が動き出してからも 恥ずかしさは消えなかった
だって先生は見ていたはずなのだ
自分の唇に指をあてて うっとりと目を閉じていた私を
先生は見ていたはずなのだ
私が何を考えていたかなんて きっとわかってる きっと知ってる

いや もしかして 先生のことだからそれを見ても何も感じなかったかもしれないけど
それはそれで 私にとって歓迎できない事態であることに変わりない


先生は無言で車を走らせている
いつもなら私からあれこれと話をするのだけれど
今はとてもそんなことをする余裕はなかった

「どうした? 今日はやけにおとなしいな」

前を向いたまま問いかけられ 私は小さく肩を震わせた

「え、そ、そうですか? そうかな? うん、そんなことないんだけど、うん」
「そうか」

あまり気にもせずといった調子で納得している
それに落胆を感じないではいられなかったが
自分で思ったより あの時の私は先生の目に普通に見えていたということかもしれない
少しだけ 緊張の糸がほぐれた


余裕を取り戻すと 今日の先生がいつもと違う格好をしていることに気が付いた

サックスブルーのVネック 先生もセーターなんて着るんだ……

スーツの時の先生とは違って いつもより若く見えて いつもより近く感じてしまう


「どうした?」

信号待ちの時 呆けて見つめ続ける私に先生は聞いた
振り向いたその顔があまりに愛しくて 何も制御できないまま私は答えていた

「好きです。私、先生が好き」


見開かれた目 沈黙
そのまま先生は すうっと前を向いた

歓迎されてない?
後悔の嵐が胸中を吹き荒れそうになったその時 先生は言った

「少しこちらに寄りなさい」
「え、こ、こうですか?」
「もっとだ」
「こう?」

唇を塞がれた



呆ける私を乗せて車は再び動き出し スピードを上げていく
エンジンの唸る音 流れていく景色

でも 私の時間は止まったままだった
一瞬のその感触を追って しばらくの間口がきけなかった

「どうした?」

3度目の どうした が先生の口から聞こえた
聞こえたけど 答えられなかった

もう一度 車が停止する
今度はゆっくり 重ねられた

頭に手を置かれている
柔らかく押し付けられた先生の唇が 私の唇の上で軽く動く
ちゅっ と音を立てて それは離れた



信号が青になり 私の体はシートに深く沈む
加速していく車

先生への想いも この心臓の鼓動も
これまでにないスピードで駆けて抜けていく

止めることなんてできはしない


ちらりと隣を見ると まるで何事も無かったかのように
普通の顔をした先生がいた

だけど先生の唇
ちょっとだけ紅くなっていることに気が付いているんだろうか
私のつけていた口紅が先生の唇へ移ったこと わかっているのかな

くすっ
笑うと

「何がおかしい?」


怒った声を出してもダメです先生
答えてなんてあげません
その代わり 次の信号待ちで私からキスをせがんでもいいですか?

ね? 先生




アンジェ以外も万歳