名前で呼んで


”欲”というのはどんどん膨れ上がっていくものだとつくづく思う
願っていたことが叶えられて もうこれ以上の幸せなんてないって思うのに
時間が経つと もっと上へ もっと先へ と 胸の奥で声がするようになる

「氷室先生」

私のつぶやき癖は治らない
治すつもりもないけれど 先生のことを考えてない時でも この口が

「ヒムロセンセイ」

と形作ってしまうのは自分でもどうかと思う

ヒムロセンセイ……

声に出さずに 唇だけを動かしてみる
相変わらず 恋焦がれていて
このところまた この名前を口にするたびに息苦さを感じるようになっていた
うれしかったり楽しかったりという思いと釣り合いをとるかのように
苦しみや辛さが押し寄せてくる


キスをしてからというもの 先生との付き合いにおいて
私は何かしら甘いものを期待するようになっていた
だけど 実際は全然変わらない

先生は相変わらず「氷室先生」で
デートをしても なんだか「課外授業」みたいで
かと思うと 全然予想していないところでキスしてきたりする
違うところといえばそこだけ
そのときは「特別」なのかなって 実感できるわけだけれども

だけどこの前会った時はキスしなかった
たったそれだけが こんなに私を落ち込ませる
こんなことで気持ちが不安定になる
そんな子供っぽい自分のことが大嫌いだと思う

先生と会っている時は あんなに楽しくて
時折変なことを言ったりしたりする先生をからかうことができる私なのに
ひとりになった瞬間から 不安で不安でたまらなくなる


ふと 机の上に置いてあるケイタイが目に入った
腕を伸ばして それを取ろうとして私はためらう

「せんせい……」



休みの日だからといって 先生にいつも会えるとは限らない
吹奏楽部の指導や 社会見学に生徒さんを連れて行くのに忙しくしていて
私はそのみっちり詰まったスケジュールのわずかな白い部分を
「ここ、取りっ」
って 強引に印をつけて やっと会えているようなものだ

そんなに忙しいのに 先生は「疲れた」なんてひとことも言わない
この前は 心配する私に「大丈夫だ」と言った後
「私を誰だと思っている」と なぜか得意顔で返された
そしてそのまま話はうやむやになって それ以降聞けなくなってしまった

先生は私に仕事の話をしない
ちょっと前まで私が先生の生徒だったからかもしれないし
私に話してもわからないと思っているのかもしれない

私がもっと大人だったら 先生もそういう話をしてくれるのだろうか
私のことを対等に見てくれるのだろうか

私を 名前で
下の名前で呼んでくれるのだろうか



「どうした?」

先生はよく この言葉を言う
「どうした」なんて 先生
何かないと電話しちゃいけませんか?

「えっと……えっとね?」
「ん…………?」

鼓動が激しく私を急かして 掌に汗が滲む
勢い込んで電話したものの 何を話すかなんて全然考えてなくて
それでもなんとか言葉をひねり出し
気持ちを盛り上げて 今日あった出来事を大げさに脚色して伝える

私は今まで 何度この手を使って先生を引き止めてきただろう
そう考えると 急に体が冷たくなるような気持ちがした

いつもいつも私ばかりがしゃべって 先生はそれを聞いてくれて
楽しそうにしてくれていても 実はその裏で何か他の事を考えているのかもしれない

先生は自分のことをあまり話さない
必要最低限を まるで箇条書きにされた文章を読むように言ってくる
そんなところはとても氷室先生らしいけど
時にはもっと違うことを 用意されたような言葉でなく 私に話して欲しい


私が黙ると先生も黙った
どんな顔をして先生は私と電話しているんだろう
先生のことが知りたい
もっともっと近づきたい

私は一度聞いてみたかったこと
あまりにも陳腐で使い古されたセリフを言おうとしていた
ドキドキが喉までせり上がり ケイタイを持つ手に力が入った

「……先生、今、何を考えていますか?」
「…………………………」

突然の質問に 案の定 戸惑う空気が伝わってくる
すぐに返事が返ってくるとは思っていなかったものの
やはりこの沈黙は心に痛かった
こんな曖昧な質問はきっと苦手なのだろう
または あまりにも脈略なく言ったから 意味がわからないのかもしれない
だけど今はなぜか とても答えて欲しかった

「じゃあ質問を変えます。私にして欲しいこと、何かありませんか?」
「…………………………」
「……何も、ありませんか……?」
「……一体どうしたんだ?」
「…………どうもしません。答えて、先生!」

いつの間にか唇が震えていた
いつの間にか泣きそうになっていて 急いでまばたきを繰り返した

ほんとにどうしてしまったんだろう 自分でもわからない
どうしてこんなに興奮して先生を責めるようなこと……

こんなことを言っても困らせるだけ
身じろぎをしたであろうかすかな音のみが聞こえたケイタイの向こう側
私は急に恥ずかしくなった

「ごめんなさい。やっぱり答えなくていいです……」
「何かあったのか? 理由があるなら言いなさい」

先生の真剣な眼差しが見えるようだ
眼鏡越しに見える目は強くて それでいて優しい
先生と話したいがために持ち込んだ些細な相談も
そんな目をして受け止めてくれたことを思い出す


先生が私の苗字を呼ぶ
まるであの頃と変わらない 担任の氷室先生
何かあったからじゃない こんな気持ち説明なんてできない

「あのね、先生」
「何だ?」
「今何を考えてる? って聞かれたら『君の事』って答えるんですよ」

先生はやっぱり黙ってる
冗談めかして言うつもりが少し失敗してしまったみたいだった
私は慌てて取り繕った

「冗談ですよ。先生にそんなセリフは似合わないもん。
気にしないでくださいね。……もう遅いから切りますね。おやすみなさい」

いつもは先生が切るのを待つ私も 今日ばかりは逃げるように先にボタンを押していた





今日の私はまったくダメだった
あんな不安定な気持ちのまま電話したのが失敗だった
話すことを考えておかなかったのはもっといけなかった

「あ〜あ」

ベッドに勢いよく体を投げ出して 枕をぎゅっと抱きしめた

「ヘンな子だと思っただろうなあ……」

さきほどの会話を頭の中で何度もなぞる
『君の事』はどう考えても失敗発言だった
逆に今時あんな答え方をする人なんていないと思うし
先生が『君の事だ』なんて言ったらちょっと怖いかもしれない

自分の中にあんなセリフがスタンバイしていただなんて
今更気づいて驚いても遅いのだけど

「あ゛〜っ」

とにかく今日の私は全然ダメ
大きな紙に「バツバツバツ!」と大きく何回も書きたいくらいだ

でも仕方が無い 口に出してしまったものはしょうがない

私は頭を抱えてぎゅっと目をつぶる
ふとんを頭からバサッとかぶって体をまるめた



「えっ!?」

かすかに音がする この着信メロディは……
私は慌てて飛び起き 机の上に置いたままのケイタイを掴み取った

「もしもし!?」
「今、君の家に向かっている。支度をして待っていなさい」
「は、はい!」


先生が 来る!?

「どうしよう……」

どうしようもなにもない
うれしいのだ うれしくて仕方がない

通話を切った後も 先生の声を届けてくれたその機械を右手に持ったまま
私の心の鐘は静かに鳴り始めていた
それは低く じわりと体を揺らす
気持ちよくて いつまでもそのままじっとしていたかった


「て、こうしてる場合じゃなかった!」

いくらなんでもパジャマのまま先生に会うわけにはいかない
私は慌ててクローゼットを開けた



そうだろうとは思っていたが やはりそうだった

30分後 2階の窓を開けて待っていた私の耳にエンジン音がかすかに聞こえ
それが光るライトと共にあっという間に目の前までやってきて 停止した

ケイタイを手にしながら部屋を出て 階段を駆け下りている最中に鳴ったのは
掌のものではなく 家の電話
更にスピードを速めて 素早く取ったものの
開口一番 親と替わってくれと言われ しぶしぶ子機を手渡した


お母さんは相変わらず恐縮しまくっている
氷室先生と話をすると緊張すると常日頃言っている母は やはり未だに慣れていない様子で さっきから「はい、はい」と繰り返すだけ
早く切りたいと思っているのがばればれなのが恥ずかしい
だから先生とお母さんを話しさせたくなかったのに……

はい が10回ほど繰り返されたところで 「ほら」といって返された電話を
唇を尖らしたまま受け取った

「今、君のお母様に1時間だけ外出の許可をいただいた。出てきなさい」

返事を返すと ぷつりと切れた


「じゃ、行ってくるから。えっと、11時には帰る」
「いいよ、何時でも好きにしなさい。氷室先生と一緒なら母さん心配しないよ」
「じゃあ何でさっきそう言わなかったのよー」

思わず本音が出て 私の唇は”ひょっとこ”のようになった

「言えるわけ無いじゃないか。言う暇も無いよ。
私は先に寝るからね、自分で鍵を開けるんだよ」

面倒なことには関わりたくない とばかりに顔を背けてテレビを見始めた
こうまでされると 本当に娘のことが心配にならないのか逆に気になるものだ

放任主義というと聞こえはいいし 信用されているのなら嬉しいことだが
うちの母の場合はたぶん何も考えていないんじゃないかと思う
何しろ 高校1年の時に初めて朝帰りした時も
この人は布団でグーグー寝てたのだ
確かに遅くなるとは言ってあったものの
夜中の12時と朝の5時では話が違うと我ながら思う

もう私のことなど忘れて笑ってる後姿を見ながら
(ぜ〜んぜん「お母様」なんてガラじゃないよねぇ……)
と 知らず知らずため息が出る

「じゃ、行ってきます」
「はいはい」

……返事があるだけまだましだ

とにかく 今はこんなことを考えてる暇は無い
 

そう 氷室先生が待っている

そう思った途端 胸がぎゅっと痛んで
と同時に頬が思い切り緩んだ

(ヤバ)

こんな顔 親には絶対に見られたくない
私は慌てて回れ右をすると さっさと部屋から退散することにした


玄関へ向かう足取りがあまりにもうきうきと弾んでいて
これじゃあ隠すのにまだまだ苦労するなと思いながら





外に出ると 車の前で腕組みをして立っている先生がいた
私の姿を見ると 「乗りなさい」とひとこと言って
ドアを開けてさっさと運転席に座ってしまった

会った瞬間の先生はいつも素っ気ないけど
今日のはそれに輪をかけて無愛想な気がする


その後ずっと 私たちは何も話さなかった

私はさっきの先生の態度で 話をする気力を瞬時に失っていた
それでなくても 電話での会話で自己嫌悪に陥っていて
自分の中から元気をひっぱりだすことができないでいた

そしていつものごとく 氷室先生から話し出すなんてこともなく
車内に流れるクラシック音楽が 静かに二人の間を埋めるだけ



車は国道に出た後 ひたすらまっすぐ進んでいた

どこまで行くつもりなんだろう
乗ってから20分も経つというのに
そういえば 先生お得意の「どうした?」もまだない

なんだかいつもと勝手が違う
「どうした?」って聞かれるのは嫌だと思っていたけど
それがないとこんなにも落ち着かない


(今日は先生から話しかけてくるまで黙っていようかな……)

運転に専念しているふうの先生を横目で見ながら
国道に出たあたりで私はそんなことを考えていた
今日は自分から話をするのは無理だから
ならばたまには先生の言葉を待ってみようと

しかし 一緒にいて黙り続けているというのも限度がある

バカバカしくなってきて 私は首をできるだけ動かさずに
ちらっと横目で先生を見上げてみた

相変わらず 全然 なんの変化もなし……

先生はこういうの 平気なんだろうか?

もしかして……
私が普段 いろいろしゃべっているのも本当は煩いと思っていたのかもしれない
だとしたら こんなに恥ずかしいことはない

途端に居心地が悪くなって 嫌な汗がじわりと出てきた
座り直したいんだけど 動くと氷室先生の注意をひいてしまいそうでできなかった


「停止する」

いきなりの先生の声に飛び上がってしまうかと思った
何の前触れもなく急に声をかけるものだから
いつまでも心臓がバクバクいっている


いったいどこに止めるのかと思ったら
そのまま車は左に曲がって 駐車場らしきところに入っていった
しかしどう考えてもここが目的地とは思えない
ところどころぽつりぽつりと灯りがあるが 全体的に寂しい印象を受ける

「ここは……?」
「霊園だ」
「え!?」
「公園も兼ねている」

一瞬ぎょっとしたが 先生が大真面目なので 抗議するのは止めた
最初に公園って言ってくれればこんなに驚かないのに……


それにしてもこんなとこまで連れて来て 先生は何をするつもりなんだろう

家に迎えに来てくれた時はあんなに嬉しかったのに
先生はずっと黙ってて(私も黙っていたけれども)不安になるし
かと思ったら夜の霊園に入るなんて……

もしかしてここで肝試しでもするつもりなのだろうか
いくら先生がホラー好きでも……そんなことをするわけないとは思うけど

これがもし 同年代の男の子が相手なら 私ももしかして? と思っただろう
友達が 彼氏と夜にドライブして こういう暗くて人通りのない場所で車を止めて
ちょっとだけえっちなことをすると言っていた

まあいくらなんでも霊園の駐車場でというのは趣味が悪いし
何より 同年代だとしても相手が氷室先生じゃまずありえない展開だ
まだ肝試しと言われるほうがしっくりする


こういう嬉しい展開(もちろんえっちな方)は考えられないとしても
さっきよりはかなり気分が楽になっているのを私は感じていた
一旦 声を出してしまうと 後はすんなり出てくるものだ

「外に出るんですか?」
「いや」

珍しくうつむいている
両手はハンドルを持ったままで エンジンを止めようともしない
いったいどうしてしまったんだろうと 私は首を傾げて先生を見た


「ひとつ聞きたいことがある」

今日 会ってからの先生はやっぱりいつもと違うようだ
「どうした?」と聞かないだけじゃなく
話をするときに私の目を見ないなんて

「なんですか?」

私は体を先生のほうに向けた
本当は手を伸ばして先生の半袖から出た腕に触れたかったけど
まだ少し馴れ馴れしいような気がして
両の手を膝の上に乗せたまま 先生の”聞きたいこと”をじっと待つことにした



「君は………………………………」

そのまま先生はたっぷり1分は黙っていたと思う

さすがに長すぎると思って「先生?」と声をかけた
それに反応してか 唇が少し動いた と思ったら

「君は………………………………」

またしても黙り込む先生
ちょっと待って これじゃさっきと同じじゃない
もしかして先生 壊れちゃった…………なんてことはないだろうけど
学校にいた時 先生のアンドロイド説がもっともらしく流れていたことを思い出して
私は ちょっとだけ ほんのちょっとだけ心配になってきた

「先生、大丈夫??」

シャツの袖を遠慮がちにきゅっと掴んで少し揺すってみたら


直後 掴んだほうの手首を掴まれて すぐにもう片方の手首も拘束されて
私の体はシートに押し付けられ
目の前に 先生の顔があった


ドクドクドクドクドクドクドク


心臓の鼓動が非常事態だとわめいている 暴れている
今日の先生は絶対変だ
掴まれた腕が本当に痛い
暗がりだからそう見えるのか せっぱつまったような表情が恐ろしく感じる
もしかして 本当に ここで…………?

途端に思ったのは 逃げ出したい ということだった
息が苦し過ぎて 体が熱過ぎて

だから 先生がその距離を縮めてきた時に
勢いよく下を向いて 唇から本当に逃げてしまっていた

あんなに あんなに待ち焦がれていたキスなのに
どうして怖いと思うんだろう

気が付いたら唇が重なっていて 後になって鼓動が追いかけてくる
今までのそういうキスじゃないと私はダメなんだろうか?

いつも突然で先生はずるい って思ってたのに
いざ こうされると どうしたらいいかパニックに陥っている



先生が私の名を呼んだ
もちろん いつも通り 苗字で呼んだ

その前に両腕は解放されていて 先生は運転席のシートに体を戻していた

「すまない」

迫られた時の凶暴なまでの鼓動は
徐々にゆっくりとした本来のリズムを取り戻していく
でも 衝撃は体中に残っていて 私はまだ呆然としていた

「驚かせてしまった。許して欲しい」

そう言って 先生は静かにエンジンを切った

「君に聞きたいことがある。正直に答えてくれ」

見つめてくる気配を感じて 顔を上げた
まっすぐ注がれる視線を きちんと受け止めることができたことにそっと安堵した


「君は、本当は、私と一緒にいるのが苦痛ではないのか?」
「……え?」
「正直に言ってくれ。私は気にしない。第一慣れている」
「…………(慣れて?)」

一体何に慣れているというのだろう
厳しいほど真面目な顔をして 先生は断言している

また ちょっと おかしなことを言っているなあ……
そう思うと 奥に隠れていた余裕というものがムクムクと顔を出してきた

「先生。『慣れている』の部分を詳しく話していただけますか?」



その内容は 先生を気の毒に思いながらも
仕方ないかなと納得してしまうものだった

「氷室くんって顔も頭もいいから付き合ってみたけど、はっきり言ってツマンナイ」

翻訳するとそのようなことを最初の彼女に陰で言われたらしい
『親切な』クラスメイトがわざわざ教えてくれて
当人に確認したら あっさり別れを告げられたというのが最初のお話

次は……といっても 内容はほぼ同じで
陰で言われたか 面と向かって言われたかの違いだけで
付き合いは3ヶ月ともたなかったと 先生は表情を変えずにはっきり言った


「それから誰とも付き合っていない。以上だ」

氷室先生はきっとその時 酷く傷ついたことだろう
でもそのことを 付き合った彼女たちは気がつかなかっただろう
多分当時の先生も こんな顔をして 別れの言葉を受け取ったのだと思うから

本当のところはわからないけれども
私の知る限り 氷室零一という人はそういう人だ

本当に損してる
どうしてその時 もっと想いをぶつけることをしなかったんだろう
言わなきゃ 態度で示さなきゃ わかりっこないのに

(あ…………)

そこで私は気がついた
さっきの氷室先生は…………

(あれじゃびっくりするって……)

先生はいつも極端すぎる
ちょうどいいバランスということを知らなくて
でもそんな不器用なところが私は好きで
先生はいつも一生懸命なんだって すごく……愛しいっていう気持ちになる


再び名を呼ばれた
気のせいか ちょっとだけさっきと違うニュアンスを感じた
表情は変わらないけど その声音は『教室での先生』のものではなかった


私は右手を伸ばして 先生の頭の上に手のひらを乗せた
左右に動かすと さらさらとした感触が心地いい

やがて 撫でていた頭が そっと私の肩に降りてきた
その重みと 首筋に感じる髪の感触が 私の胸に痛みをもたらす

「よしよし」

小さくつぶやく

いつまでもこうしていたい
もしかして これまでの中で 今が一番幸せかもしれない
先生と付き合ってから こんなに満ち足りた気分になるのは初めてだ


でも 幸せの中にいても 変化というものを求めたくなる

こめかみから後頭部へと髪を撫でつけると 先生の耳が露になった
それは衝動だった
誘われるように そこに唇を寄せていた

「零一さん……」

ぴくっと体が揺れたのがはっきりとわかった
肩が少しずつ軽くなり 先生の手が自らの髪をかきあげ
その手はそのまま私の後頭部を包み込んだ

ぐっと乗り上げられたと思ったら

(ひゃー!!)

ガクン! という衝撃を感じたと思った途端 シートと共に私が倒されて
唇が 覆われていた


また 胸の中が大太鼓小太鼓がめちゃくちゃに鳴らされたような騒ぎになった
でも今度はよけなかった よけようもなかったけれども

唇から頬へ 頬からこめかみへ
何度も何度も はさみこむように柔らかい感触を伝えてくるその唇は
耳のふちから耳たぶまで すーっと撫でた後
息を吹き込むようにして 私の名を呼んだ

もちろん 下の名前を





動きが止まったのは 駐車場に他の車が入ってきたからだった

その時 私の上半身は完全にはだけられていて
先生の手は太ももの内側 あの部分へぎりぎり触れるか触れないかという箇所に置かれていた

幸い その車はUターンのためだけに進入してきたのか ほどなく出て行った
私たちは完全に起き上がって 車の行方を見守っていたので
もう今更続きをするというムードではなく
先生はエンジンをかけ 私はシートと服を元に戻した


突然 先生が叫んだ

「帰宅する!!」

いきなりの大声に返事を返す間もなく 車は発進して道路に飛び出していた

「シートベルトを締めなさい!」

とりあえず言われるままシートベルトを締めると

「停止する!!」

今度は何ー!?
本当に もしかしてついに回線がショートしちゃったんだろうかと
引き気味で先生を見上げると 路肩に車を止めた後
携帯電話を取り出してどこかへ電話をかけている

「もしもし、夜分遅く大変申し訳ありません。氷室です」

いつも姿勢のいい先生だけど 更にぴっと背筋を伸ばして
「は」とか「いえ」とか言いながらお辞儀をしている

「驚かれるのはごもっともです。あ、いや、大丈夫です。それは大丈夫です!」

ちょっと いや かなり普段と違う力の入りよう
氷室先生がそんなに恐縮する相手って……?

「今替わります」
「私!?」
「早く出なさい」
「も、もしもし?」

恐る恐る声を出すと 受話器から聞こえてきたのはあまりにもよく知った声だった

「なんだ、お母さん」
「なんだじゃないよ。電話なんてくると母さん、何かあったかと思うじゃないの」
「ごめーん」
「まあ何時でもいいからちゃんと帰ってきなさい。氷室先生にもよろしく」

一方的に電話は切られた これはいつものことだ
でも 「氷室先生によろしく」は今までなかったかもしれない
それが嬉しかった


「帰るのは何時でもいいそうです」

携帯電話を返しながらそう言うと

「そんなわけにはいかない。発進する……お母様が大変心配されている」

この生真面目さが 母を氷室先生から遠ざけている要因のひとつになっている
けれども もしかしたら 今日はこれが逆にお気に召したのだろうか

電話が来ると心配すると言った母
高校生だった頃のあの朝帰りの時も 夜遅くに電話をしていたならば
驚いた声が聞けたのだろう
母は 肝心なことはもっと言ったほうがいい
私も ちゃんと聞かないといけない そう思った



氷室先生は 行きと同じく帰りも黙って運転していた
それでも もうそれを気にすることはないと思った私は
同じく黙って景色を眺めて過ごしていた

「あー…………コホン」

振り向くと 更に「ゴッホン!」とわざとらしい咳払い

「ところで、私は質問の答えをまだ君から聞いていない」
「なんでしたっけ?」

横顔がぴくっと険しくなり そのまま固まっている
本当に思い出せなくて 頭の中で時間をさかのぼって やっと思い当たった

「あ、先生といるのが嫌かってことですよね!?」

思い出せたのが嬉しくて 元気よく答えた
すると 先生の顔がまた険しくなった

「いちいち言わなくてよろしい。回答のみで結構」
「どうしてそんなこと聞くんですか?」
「だから、なぜそこで君が質問を返してくるのだ? 聞いているのは私だ!」

「だから」と「私だ」の部分が強調されている所に 先生の苛立ちを感じた
いや 苛立ちというよりも 照れ だと思う

「え、だって、嫌いなら付き合ってない……」

ここまで言って 先生の過去はそうじゃなかったんだと思い当たる

「えっと、うーん、だって先生、時々面白いこと言うし、面白いことするし。
あ、もちろん、かっこいいし、頭いいところも好きなんですけど、
それだけじゃなくて、何て言うのかなあ? 味? そう! 味ですよ!
先生には先生の味があって、それがすごく好きなんです!」

先生の口が徐々に開いて ちょっぴり変な顔になっている
右手がハンドルから離れて 遮るように前に出された

「あ、いや、君……私が聞いているのはそういうことでは……」
「あれ…………。答えになってません?」
「…………これが試験なら0点だが、私は100点をやる。……ありがとう」

どうして0点なのかはわからなかったけど 先生は笑ってくれた



「停止する」

もう後は家に帰るだけなのに 先生はまた車を止めた
エンジンはかけたままだ 長居をするつもりではないのだろう
それを残念に思いながら どうしたのかと先生を見る
先生はシートに体を預け 軽く息をついた後 こう言った

「先程、君はどうしてあんな質問をしたのかと聞いたな。…………急に、不安になったんだ。 電話で黙り込む君に、私は何も言えなかった。君の質問に、君の望む回答を言えなかった。 私は本当につまらない男だと思った。君にとって価値がないのではと思った。 焦った。俺……私は、君を、失いたくないと思った、だから! 会いに行った。そうしたら」

先生が下を向く
私はその膝の上にだらんと乗せられた先生の右腕をとって
両手におし抱くようにして自分の膝の上に乗せた

「余計に不安は増してしまった。君が何をしゃべらないから、いや、 会った後、この状況をどうするか考えていなかった私に失望した。 会いさえすればなんとかなると思っていたんだ」
「でも、なんとかなりましたよ? 先生」
「君のお陰で、だ」

(先生……)

こんなに落ち込ませていたとは まったくわからなかった
これを見たら先生をアンドロイドだなんて絶対に言えない

こんな時どうしたらいいんだろう
またさっきみたいに頭をなでなでしてあげたいけど
今は逆にプライドを傷つけてしまうかもしれない


悩んでいると先生がこっちを見た
その表情に 私ははっとする

「私には君が必要だ。だから、私も君に必要とされるよう努力する」

いつもの氷室先生が 自信たっぷりに笑ってくれた

やっぱり先生はこういう顔がよく似合う
たくさんの悩みを乗り越えて 今までずっと
先生は私の前でこうして笑ってくれていたんだ



「電話で君は『して欲しいことはありますか?』と聞いていたな。言ってもいいか?」

先生がほんの少しだけくだけた雰囲気になっている

あの時の言葉を覚えていてくれたこと
そしてそれに答えてくれるということがすごく嬉しくて
私は 脳震盪になりそうなほど首を縦に振った

「ずっと私の側にいてくれ。……それだけでいい」

それはある意味プロポーズだと思う……けど 先生は気づいていないみたいだった

「逆に聞くが、私にして欲しいことはないか?」

心の中でにんまりしていると いきなりそんなことを聞かれて
口を「え」の形にしたまま まじまじと先生を見返してしまった

確かにこれは困る いきなりされても困る質問だ
その場その場で 3つぐらい選択肢があれば答えようがあるけども

でもせっかくの申し出だし こんなチャンスめったにない
私は一生懸命考えた 頭が沸騰しそうなほど考えて ようやっと答えを出した


「名前で呼んで。今日みたいに。私のこと、時々でいいから名前で呼んでください」


はっきりと訴えた 見つめる目に 思い切り力を込めて

そうしたら先生が私の体を引き寄せて 両腕で包み込んでくれた

「こうか? …………」

耳元に顔を寄せられて 吐息交じりの低い声がじわっと染み渡るようだった
こんな先生の声 元のクラスメイトには絶対に聞かせられない


「発進する」

照れているのか かすれが残るその声が もう一度 私の耳に心地よく響いた




アンジェ以外も万歳