「私の話をちゃんと聞いていますか? アンジェリーク・コレット」
アンジェリークははっとして 目の前の人物を見た
水色の髪をきちっと分けて固めている いかにも真面目そうなその人
眼鏡の奥のその瞳は まっすぐこちらを向いている
その光があまりにも強く 自分がまた失態を犯したことに気が付いた
この人は怖い 他の誰よりも容赦がなく 少しの気の緩みも許されず
叱責の声は 穏やかなのに その視線は 自分を切り刻む
最初会った時には なんの印象もなかった
王立研究院の主任研究員だという彼 エルンストは
他のきらびやかな人々に埋もれて ほとんど目立たなかった
育成が始まり 研究院に立ち寄ることが頻繁になると
自然とエルンストと話をする機会が増えた
しかしそのほとんどが
叱るエルンスト 叱られるアンジェリーク
という情けない図式だった
ライバルだといわれる レイチェルは
つまらないところでつまづく自分を軽くいなして
どんどん先へ行ってしまった
エルンストは激昂するようなことはない
いつも冷静な声で教え諭す
かんで含めるように そこには優しささえ感じられる
しかし 恐る恐る顔を上げると その目が強く自分を睨みつけている
女王候補と協力者 立場で言えば女王候補の方が上なのだろうが
エルンストはなんの迷いも遠慮もなく ストレートに意見してくる
どうして自分はこうなんだろう
育成をしていない訳ではない 一生懸命やってるのに
なのに 最初の定期審査では
レイチェルに圧倒的な差をつけられて 負けた
そして今 自分のあまりの情けなさに呆然として
エルンストの言う事をきちんと聞いていなかったのだ
ふざけてなんてない 軽く考えてなんて 絶対ない
でも気が付いたら 道ばたでマルセル様と話しこんでしまったり
木の陰で居眠りをしてしまったりしているのだ
そういうときに限って 必ずと言っていいほど エルンストに会ってしまう
運命か はたまた たちの悪い誰かのいたずらか
そんなことを考えてしまうほど 見られたくないときにばかり
エルンストが怒るのは 当然だ
エルンストの目に映る自分は 不真面目で
宇宙を支え育てる という大役をいい加減に考えてる
どうしてこんなのが選ばれたのか 理解に苦しむほど
ただの 普通の高校生でしかないだろう
本当に なぜ自分が女王候補になどなってしまったのだろう
あの日 みたことのないかわいい顔をしたふわふわした生き物が目の前に現れた
私以外のみんなには見えないという その生物
その時は その子に選ばれた自分が特別の人間になれたようで
すごくすごくうれしかった
でも 本当はちっとも特別なんかじゃない
今だって どうしたらいいかわからないでいる
望みどおりの力を送っているはずなのに 目に見える成果がまったく出ない
レイチェルのようにはいかなくても 少なくともこんな大差はつかないはずだ
それとも 望みを読み間違えているのだろうか
そうだとしたら 女王候補としても 失格だ
ここに来てからは 自らの平凡さを毎日噛みしめている
この聖地には 優秀な人間しかいない
頭がいいだけじゃなく 容姿も優れていて
それは ここにいるエルンストも同じ
このどこをとっても 不出来な所がみあたらない顔で責められると
このままどこかへ消えてしまいたくなる
(あなたのように完璧になんて、できません……!)
「私が話をしている間、なにも考えていなかったのですか?
そんなことだから、定期審査でレイチェルにあんな負け方をするのです。
あなたもレイチェルと同じ、女王候補なのですよ。これでは勝負にならない。
遊びではないのです。しっかりとこのことの意味を考えてください。
いいですか。…………返事は?」
やはりそう思われていた 遊びでやっていると
頬が火照り 心の奥がぎしぎしと音を立てている
「……はい」
両の手が つかんだスカートの布地をにぎりしめた
「わかったら、早く寮に帰ってこれからのことを考えるのですね。
幸い明日は日の曜日です。時間は充分あることでしょう。
何のためにこの地に来たのかおわかりなら、おのずとやるべきことは見えてくるはずです」
今日も聖地は美しかった
木々の緑も 青い空も そこにぽっかりと浮かぶ雲も
すべて穏やかで 見事に平和な景色
だけど アンジェリークの心は暗く沈んでいた
がんばるしかないとわかっている
わかっていても こんな所から逃げ出したいと そればかりを考えていた
◆◇◆◇◆
はぁ…………
もうこれで何度目のため息だろう
王立研究院から帰る道すがら アンジェリークの頭の中には エルンストの顔が浮かんでいた
どんな時も無表情 でも今日は完全な怒り顔だった
とにかく その目が怖かった 理知的なその瞳
目の端と端が ぐいっとつり上がって 瞳の奥から 強い拒絶の意まで感じ取れた
ここにいる人のたいがいがそうだろうが
整った顔の人が怒ると 本当に怖い
(私、本当にここにいていいの……?)
アンジェリークはふいに道ばたにしゃがみこんだ
(どうして私なのよ。レイチェルみたいにすごい人、他にもたくさんいるじゃない。
私、宇宙の仕組みすら全然わかんないのに……いくら読んでも全然わかんないんだもの……)
アンジェリークはこのところずっと ルヴァの薦めで宇宙に関する本を読み続けていた
たしかに前よりは理解できているかもしれない
ただ それはあくまでも「比べたら」である
レイチェルに追いつこうと思ったら こんな程度ではダメなことは さすがのアンジェリークにもわかってきていた
「へえ……アナタ、ルヴァ様にこれを借りたんだぁ。これは確かにわかりやすいから、初心者向きだね」
(初心者……向き…………)
数日前 レイチェルは アンジェリークがルヴァから借りた例の本をパラパラとめくりながら そう言った
わかってはいても はっきりそう言われると 心に辛い言葉だった
「ま、これくらい知っててくれなくちゃおもしろくないからね。この、天才レイチェルのライバルなんだから!」
腰に手をあててこう言うレイチェルは 自信に満ち溢れて見える
その後 9つの力をどの時期にどの配分で送るか について
それがいかに重要かを 力説して帰っていった
正直 アンジェリークには レイチェルの言っていることが ほとんどわからなかった
途中で数式が出たあたりから 実のところさっぱりついていくことができないでいた
わかったのは ただやみくもに育成してもだめだということ
聖獣の望みを正確に把握し その上で送る力を計算してはじき出す
望まれるまま送るよりも 育成ははかどるらしい
しかし アンジェリークは数学が大の苦手だった
今でも 宇宙の事を知るのに手いっぱいで そんなことにまで手が回らない
レイチェルの好意はありがたかったが さらなる劣等感にうちひしがれてしまう
女王の資質とは なんだろう
見よう見まねで育成を続けるうちにコツがつかめてくるのだろうか
女王を語るときに必ず出てくる言葉「慈愛と博愛の精神」も まるで実感としてわいてこない
生まれたばかりの 新しい宇宙に どう接すればいいだろうか
どうしたら 育っていってくれる……?
レイチェルは常に上をいっている かなわない
「……アンジェリーク……?」
目を 大きく丸く見張ったマルセルが アンジェリークの顔を覗き込むようにして 目の前に立っていた
「あっ、ごめんなさい。私ったらこんなところで……」
慌てて アンジェリークは立ち上がった
急に動いたからか 立ちくらみで身体がふらっと揺れる
「ちょっ、アンジェ! 大丈夫?」
マルセルに両肩を支えられて なんとかもちこたえた
そのままじっとしていると 少しずつ視界がはっきりしてくる
「……ありがとうございます。マルセル様。もう大丈夫です」
マルセルから少し離れて 笑顔を見せたが 彼はまだ心配そうにこちらをうかがっている
「本当に大丈夫? 僕心配だよ。ちゃんと食べてる? 夜もちゃんと寝てるの?」
マルセルが心配するのも無理もない
道ばたで しゃがみこんでいて しかも立ち上がっても ふらふらしているのだから
マルセルは今日の定期審査で アンジェリークが負けたことを聞いていた
だから 気になって アンジェリークの寮に向かうところだったのだ
審査内容が 守護聖達に女王の資質を問うものならば 勝ち目はあったかもしれない
だが 今回は育成についてだった 結果は火を見るより明らか
でも 女王試験はまだ始まったばかりだ
現時点では どちらが女王にふさわしいかなど 誰にもわからない
マルセルは信じていた
たとえ 育成では今のところ レイチェルに大差をつけられているとしても
アンジェリークは必ず挽回する
今はまだ その力が発揮されていないだけだと
なぜなら彼女は アルフォンシアという名の聖獣が己の運命をかけてたった一人選んだ女王候補だ
このまま終わるはずが無い
女王候補が正しく能力を使えるように導くのも守護聖の役目
マルセルにとって今回は2回目の女王試験だった
前回の経験を生かして 彼女の役に立ちたいと心底願っていた
そして何よりも マルセルは優しいアンジェリークを気に入っていた
「アンジェリーク。良かったら、明日一緒にどこかへ行かない?」
「えっ?」
マルセルは両手を後ろで組み 首をかしげてアンジェリークを見た
そのあまりの可愛らしさに 思わずアンジェリークの唇からくすっと笑いがもれる
なに笑ってんの? と言いながら
今ようやく 本当に笑顔を向けてくれたアンジェリークに
マルセルは 喜びを隠し切れない様子で笑顔を返した
◆◇◆◇◆
今日も聖地はよく晴れていた
木々の緑も鮮やかで そよぐ風が心地いい
日の曜日の今日 アンジェリークはマルセルと湖に来ていた
湖の水をかけあったり 足を水につけたりしてひととおり遊んだ後
今は大きな木の下に並んで座り 靴を脱ぎ 二人仲良く両足を投げ出して休んでいた
素足に感じる草の感触
通り過ぎる風の運ぶ緑や水の香り
アンジェリークは 少しずつこの身が豊かに かろやかになっていくような心地がした
それをそのまま素直にマルセルに伝えると
マルセルはうれしそうに よかった と言って顔をほころばせた
その後 しばらく 二人とも静かに景色を楽しんでいた
「ねえ、アンジェリーク」
マルセルがふいにアンジェリークに声をかけた
大きなすみれ色の瞳がアンジェリークをみつめている
「女王試験……つらいの?」
マルセルの目は はぐらかすのを許さないと言っている
アンジェリークの瞳が揺れた
「はい……」
マルセルの目を見ていられなくて うつむいた
マルセルは なおもアンジェリークに質問を重ねる
「昨日、エルンストさんになんて言われたの?」
(えっ?)
アンジェリークは驚いて 再びマルセルを見た
マルセルの瞳はアンジェリークの上から離れていない
質問は 聞いたとおりのようだった
「えっと…………」
言いよどんでしまう
エルンストに言われた言葉どれをとっても 思い出すのがつらいものばかりで
「言いたくないならいいんだ」
沈黙が続いた後 視線を前方に向けたマルセルはこう言った
「ただ…昨日あんまりアンジェリークが元気なかったから。
きっとエルンストさんに何か言われたんじゃないかと思ったんだ。
嫌なこと聞いてごめんね」
「昨日ね……」
マルセルにごめん と言われて 気が緩んだアンジェリークの口から
胸につかえたエルンストのセリフがいつの間にかこぼれ出していた
「レイチェルとこんなに差がついたこと考えなさいって。
女王試験は遊びじゃないって。
何のためにここに来たのかわかっているなら、やるべきことは見えるだろうって……」
それを聞いて 憤りを感じたマルセルは即座に口を開いた
「そんな、ひどい! 遊びでやってないことくらい、誰だってわかるじゃない。
アンジェリークだって一生懸命やってるよ。僕知ってるもん」
そう 一生懸命やってる でも エルンストの目にはそう映っていないのだ
私 アンジェリーク・コレットは 女王になるにふさわしくない エルンストはそう考えてる そういうことなのだ
アンジェリークはまたもや昨日と同じ考えに落ちていってしまった
しおれていくこの大好きな友達をなんとか元気づけたい
マルセルは 体をぐいっとアンジェリークの方へ乗り出した
「僕は、アンジェリークの味方だよ。
アンジェリークの力になりたいんだ。
僕にできることなら、なんでもするよ。
だから、女王試験がんばろう。……ね?」
「マルセル様……」
うれしかった
追い詰められているような気分がふんわりと晴れていく
身近にこんなにも気にかけてくれる人がいる
その事実が アンジェリークにはすごくうれしかった
うつむき 少し考え そして一生懸命に心配しているんだよと訴えるような表情のマルセルに対して こちらも答えるように精一杯の笑顔を向けた
「ええ。がんばります。マルセル様!」
湖から寮への道 少しうきうきした気持ちになったアンジェリークとマルセルは
小さな兄弟のように手を繋いで 夕日の中を歩いていた
笑いながら 大きくカーブした道を曲がっていくとそこには
書類の束を小脇に抱えたエルンストが こちらを向き 黙って立ち尽くしていた
二人が近づく間も 彼の前で足を止めた後も エルンストはじっと二人を見つめ続けていた
そのわけのわからない なんとも形容しがたい静かな威圧感に
怯えた二匹の子羊は口を開くことができずにいた
また何か言われるのでは と思ったマルセルは
気持ち アンジェリークを庇うような仕草をした
そして二人はただ エルンストが何か行動をおこすのを待っていた
短い沈黙の後
「こんにちは。マルセル様」
「あ、こ、こんにちわ。エルンストさん」
極普通に声をかけられて 拍子抜けしたマルセルは少しどもってしまった
「何も心配はいらないようですね。アンジェリーク」
表情ひとつ変えずにエルンストは 次にアンジェリークの方を向いてこう言った
その意外なセリフに 彼の真意を測りかねて問い返す
「心配……ですか?」
アンジェリークが か細い声でこう問うと エルンストはうなずいた
「ええ。昨日私が言ったことを気にしているのでは、と考えていました。
しかし、その必要はないようで安心しました。…………では、これで」
エルンストはマルセルの側をすり抜け きびきびとした歩調で去っていった
「………………」
そんなエルンストの姿が道の向こうに見えなくなるまで 二人は見送った
はあーっ と胸を押さえて マルセルがアンジェリークに振り返る
「なんかびっくりしたね。僕、またアンジェリークが叱られるのかもって思っちゃった。 何も悪いことしてないんだもん。そんな心配することないのにね」
「ええ……」
エルンストが自分の心配をしてくれていた それは驚くべきことだった
ここに来てからというもの 叱責の声を聞くことはあっても
ねぎらいや 優しい声かけなどというものが エルンストの口から出たことはまるでなかった
そしてまた 思い返す
エルンストが自分達を見つめたときの視線を
彼は他に何か言いたいことがあったのではないだろうか
くいくいっ と服をひっぱられ アンジェリークは我にかえった
「ぼーっとしちゃって、どうしたの?」
「あっ、ごめんなさい。ちょっと考えごとです。行きましょう」
そう ならいいけど とマルセルは言って 二人はまた歩き始めた
「エルンストさん。アンジェリークの心配してくれるなんて、本当はいい人なんだね」
「そうですね。……今日は弱音はいちゃってごめんなさい。マルセル様。
また育成がんばらなくちゃ。明日からまたよろしくお願いしますね」
「うん。一緒にがんばろうね」
こんこん とドアをノックする音
寮に帰って鍵を閉め ソファに座ったときにその音を聞いたアンジェリークは
再び立ち上がり 玄関へ向かい「どなたですかー?」と
いくぶんのんびりとした口調で外にいる人物に声をかけた
「ワタシ、レイチェルでーす」
「ちょっと待ってて」
急いでロックを解除してドアを開けると レイチェルが手に何かを持ち にこにこして立っていた
「いらっしゃい。上がって」
「いいのいいの。預かり物、渡しに来ただけなんだから」
はいこれ と言って 茶封筒をぽんと渡された
「なあに? これ。誰からなの?」
「エルンスト」
「え? エルンストさんが?」
驚く間もなく レイチェルが早口で話し出す
「さっきワタシが家に帰ってきたらさ、またエルンストがアナタの家の前にいたの。だから声かけたんだ。そしたらこれ預かってくれって。
そうそう! 今朝もいたんだよね。ワタシが出かけるときに。エルンストったらアナタのとこのドアの前につっ立ってんの。
そのときは、『いないみたいですね』とか言ってすまして帰っていったけど。
もしかして、エルンストと今日、約束してたとか? だったらやるじゃん。
エルンストとのデートすっぽかすなんて、ワタシだって怖くてできないよ。
アイツとは長い付き合いだけど、あんな姿、初めて見たな」
レイチェルはなんだか楽しそうにそう言った。
エルンストがここに来た という事実もびっくりしたが
レイチェルの言う あんな姿 が気になったアンジェリークはそれがどのようだったのか聞いてみた。
なーんか寂しそう
レイチェルいわく 後ろ姿に哀愁が漂っていたそうだ
「ま、ちょっとアナタを尊敬しちゃうワ。このことに関してはね」
言いたいことを言うと さっさとレイチェルは帰っていった
エルンストと約束なんてしていないアンジェリークは
寂しそう などというのはレイチェルの気のせいだと思った
その言葉と 普段のエルンストとはあまりにイメージが違いすぎる
「そうだ」
レイチェルから受け取った茶封筒の封を開けて中身を取り出してみた
それはレポート用紙の束だった 今どき珍しくこよりで綴じてあり
10枚ほどだろうか どれも綺麗な文字が並んでいる
読み進めてみると それはアンジェリークの育成する小宇宙に関する考察だった
(エルンストさん……)
アンジェリークは夢中でそのレポートを読み進めていった
難しい言葉はほとんどなく さほど苦労しなくとも内容が頭に入ってくる
やがて 一番後ろのページにたどりついた
エルンストはやはり これを強調したいのであろう
そこには女王候補としての心がまえが 「私の考えではありますが」という前置きの後 記されていた
日頃から言われていることなのに なぜか素直な気持ちで受け入れることができる
そして最後の一行
私はあなたに期待しています
いくぶん離れたところに書かれてあるその文字に アンジェリークの瞳は釘付けになった
のどの奥から熱いものがこみあげてくる
アンジェリークは レポートの束を両手で抱きしめた
◆◇◆◇◆
月の曜日 アンジェリークは寮を出ると まっすぐ王立研究院へ向かった
昨日のお礼を言いたい そして……エルンストの顔が見たい
アンジェリークの中で少しづつ エルンストへの好意が芽ばえていた
迎えたエルンストは やはりいつもと変わらず無表情だ
わかってはいたが アンジェリークは落胆した
しかし 言おうと思っていたことを伝えることは忘れなかった
「昨日はレポートを届けてくださいましてありがとうございました。
エルンストさんのアドバイス、とってもわかりやすかったです。
これからもっともっと頑張りたいと思いますので、ご指導よろしくお願いします」
そして ぺこりと頭を下げた 深々と体を二つ折りにして
この一礼に精いっぱいの感謝の気持ちを込め そしてゆっくりと顔を上げた
エルンストが笑顔を見せていた
この一ヶ月間 いや 出会ってから今だかつて
見たことの無い表情がそこにあった
なぜか胸がどきどきし始める
唇と腕が震えてしまうため
持っているバインダーを落とさないように強く抱きしめた
口を半開きにしているアンジェリークを見て
エルンストは右手を口元に持っていき なおもくすりと笑っている
「見えてるようですよ」
「はっ?」
エルンストの視線をたどって後ろを向いたその先には
顔を真っ赤にしたここの男性研究員がぼーぜんとつっ立っていた
その意味を瞬時に悟り 慌ててスカートの後ろを押さえたが今更やっても遅いことは明白で
その男性研究員はすいませんすいませんと言いながら奥へ引っ込んでいった
(恥ずかしいっ)
今やったことをなかったことに と思ってもそれは無理というものだ
みっともない みっともない みっともない
よりによってエルンストさんの前で…………
そう思うと自然と丸く小さくなっていくアンジェリークであった
「顔を上げなさい、アンジェリーク」
「あっ、はい!」
エルンストはすでにいつも見慣れたきりりとした表情に戻っていた
「あなたの意気込みはわかりました。しかし、仮にも女王候補であるのですから
もう少し落ち着いて行動していただきたいものですね。
協力者への礼など、言葉だけでも充分に伝わりますから」
「ごめんなさい……」
これは言い過ぎたと思ったのか エルンストが少し慌てたそぶりをする
「失礼しました。責めているのではないのです。私のこのような言葉があなたを傷つけてしまうのかもしれません。お許しください」
「いえ、許すなんてそんな、大丈夫です」
アンジェリークは手をぶんぶんと左右に振って答えた
「まあ、そういう親しみやすさがあなたの良さなのでしょうね」
二人の間に和やかなムードが漂っている
今まで想像すらしたことがなかった こんな風に話ができるようになるとは
その後もエルンストと話をしながら
新しい感情が身の内から湧き出てくるのを アンジェリークは自覚していた
この日を境に 時間を作って たびたびアンジェリークは
エルンストのいる王立研究院を訪れるようになった
宇宙に関するありとあらゆる事柄
女王試験を進める上で必要な知識を学ぶためにである
アンジェリークの求めにエルンストも快く応じていた
このことに関して 現時点でレイチェルと平等といえないからと
かなりの時間を割いて 協力してくれた
貴重な時間を大幅に削減されているにもかかわらず
少しも嫌な素振りを見せずに学習を手伝ってくれるエルンストの姿に影響されて
また エルンストに誉められたい一心で
自然 アンジェリークは前よりもずっと真剣に女王試験に臨むようになってきていた
ひたむきに努力するその姿はまた 他の守護聖や教官 協力者の皆に好印象を与える
今まで苦悩していたことが嘘のように 全ての物事がいい方向に展開していった
そして早くも二度目の定期審査では あれほどの差があったにもかかわらず
レイチェルと同程度の力を保持していると認められた
この定期審査の後 アンジェリークはエルンストにお礼を言おうと王立研究院を訪ねた
「このたびの定期審査ではよい結果がでて良かったですね。あなたにしては上出来です」
「もう、エルンストさんったら」
今ではこんな軽口も飛び出すほど 二人の仲は親密になっていた
出会ってからひと月の間のことがまるで嘘のように
アンジェリークは兄のようにエルンストを慕っていた
試験の行く先を照らす道しるべのように 頼りきっていた
「今度は勝ちます。次の定期審査で陛下から新たな力をいただけるように」
右のこぶしを握り締めてガッツポーズをする
「がんばってください。しかし、これからレイチェルの方も何か対策を練ってくるでしょうから、気を引き締めてかからないといけませんね」
「はい! エルンストさん。これからもいろいろ教えてくださいね」
「そのことなんですが……」
それまでくつろいで椅子に腰掛けていたエルンストが姿勢を正した
なにごとかと思い アンジェリークも背中を伸ばして 次に続く言葉を待つ
「私があなたに個人的に教えるのは今後一切止めることにしましょう」
その信じ難い言葉に しばらく動くことができなかった
「なぜ……ですか?」
アンジェリークの声はかすれている
それにエルンストは眉ひとつ動かすことなく答えた
「あなたとレイチェルが互角だからです」
だからって だからって そんな突然
アンジェリークは なんとか考え直してもらおうと必死になった
「でも、まだ私、わからないことや知りたいことがたくさんあります。そういうのを聞きに来るのもだめですか?」
「できれば控えていただきたいですね」
間髪入れず 答えは返ってきた
なんともいえない悲しそうなアンジェリークを エルンストは少しの間見つめていたが 更に話を続けた
「私は聖地に招かれた協力者です。それが、片方の候補のみに肩入れするのは良いことではありません。最初こそはあなたに色々言いもしましたし、指導、助言もいたしました。それは、あなたがこの試験についてなんの基礎知識もないとみなしたからです。
しかし今では、あなたの努力の甲斐あってかなりの力を付けてきているように思います。その証拠にレイチェルとここまで張り合うことができているではありませんか。これからは、ご自分の力を信じてより一層試験に全力を尽くしていただきたいと思っています」
エルンストは まるで用意されたセリフを話すかのように 澱みなくスラスラと 最初から最後まで言ってのけた
黙って聞いていたアンジェリークは 抗議をしようと口を開けるが エルンストを言い負かす理論が見当たらず ただじっと 彼の淡い緑の瞳を見つめ続けた
そこに「会えないのは嫌」という気持ちを精一杯込めて
しかし
「わかっていただけますか」
その思いは届かなかった
エルンストはこの件に関して自分の主張を押し通すつもりらしい
その態度や言葉その瞳に 有無を言わさぬ力があった
「では、また土の曜日にお会いいたしましょう」
アンジェリークはうながされるまま 王立研究院を後にした
帰り道 とぼとぼと アンジェリークは力ない両足をやっとのことで動かして歩いていた
考えるのはもちろん エルンストのこと
打ちひしがれたままぼんやりと 彼女は今さっき起きたことについて思いを巡らせていた
これからは もう自由にエルンストに会いにいけない
そのことがこんなにも自分を落胆させるなんて…………
「できれば控えていただきたいですね」
エルンストは厳しくも見える顔でそう言った
迷惑だったのだろうか
一日も欠かさずエルンストに会いに行っていたことが
いや 違う 迷惑だったかどうかはわからないけれども
確かに彼が言ったように 彼は女王試験の協力者で
レイチェルと二人 平等に接しなければならない立場なのだ
私だけのものじゃない……
結局自分のわがままだった
相手の立場を考えないで 彼に頼りっきりで
毎日 エルンストに会うのが楽しみだった
特に 宇宙の素晴らしさについて語る彼の話に ゆっくりと耳を傾けていられることが
穏やかな微笑を浮かべ 夢見るような瞳
そんな彼を見ていると その宇宙を誕生させて 育てている自分が誇らしく思えた
試験以外のこともたくさん話した
お互いの家族や友達のこと
聖地での生活
女王や守護聖をどう思うか などということもこっそり話題にしていた
エルンストと一緒にいるのが楽しかった
その一瞬は あのかわいい動物 生まれたての宇宙であるアルフォンシアのことを忘れてしまうほど
泣きそうになった
何のためにここに来たのか わかっているつもりだったのに
エルンストにも よく言われていたことなのに
生きとし生けるもの全てを その無償の愛で守る女王
宇宙を育むことのできる この世で唯一人の選ばれし者
頭ではわかっていたつもりだったのに 実際は全然そうではなかった
今思えば 毎日会いに行くだなんて どうかしていた
きっとエルンストは 徐々に見えてきた甘えを見抜いていたのだろう
だからこんなにも エルンストに拒絶されたことが心に重くのしかかっている
育成はうまくいっていたけれども それはただの偶然だ
このままでは女王になんてなれない……!
でも泣かない 泣くことだけはしたくない
そう 女王になればいいのだ
エルンストもそれを望んでいる
いや レイチェルと自分 よりふさわしいほうを と
アンジェリークは立ち止まり 高い空を見上げた
こうやって手を伸ばしても届かないこの空
女王アンジェリーク・リモージュの掌の上にあるこの宇宙
この世界全てがそのおおいなるお力とあふれる愛情で支えられているのだ
エルンストが敬愛してやまない
エルンストの生涯の興味の対象である
偉大なる女王陛下
真っ直ぐ伸ばしたその腕を下ろし アンジェリークは再び歩き始めた
試験に勝って 必ず女王になる その決意を胸に秘めて
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