アンジェリークは苦戦を強いられていた
今まで 手を抜いていたということはないだろうが
レイチェルの育成スピードが格段に上がっている
レイチェルのアンジェリークを見る目も変わっているようだった
「ワタシ、アナタに負けないよ!」
先日 アンジェリークにそう言ったときの視線が真剣な光を帯びていた
もともと 最初の審査で負けているため 使用できる力がひとつ少ないアンジェリーク
追いついた勢いそのままに育成していたはずなのに 決意もむなしくじりじりと引き離されていく
自分の努力が足りないか または育成方法に問題があるのか
夕食後から寝るまでの時間全てを勉強にあて
分厚い資料を持ち歩いて 日中のちょっとした空き時間には目を通し
それでも足りないため 時には徹夜をすることもあった
毎夜いろんな宇宙の解説書を読み 新宇宙の状況の表とにらめっこしているが それでもなかなか事態は改善されない
毎日 新宇宙アルフォンシアのことだけをを考えているのに 彼 はなかなか成長しない
それにもう エルンストに助言をもらうこともできない
前回の定期審査の結果は自分の力で勝ち取ったのではなく エルンストの補助があってこそのものだったのだ
そう思うとやる気が削がれていく
アンジェリークの心と体は 日ごとに消耗していった
「エルンスト! アンジェ知らない?」
陽もすっかり落ちた頃 レイチェルがエルンストを訪ねて王立研究院にやってきた
「今日、夕食のときアンジェ来なかったんだ。いつも黙って来ないなんてことなかったのに」
「いえ、私は知りませんが……寮にはいないんですか?」
「そう。不用心にも玄関開いててさ、勝手に入っちゃったんだけど、捜してもどこにもいないんだよね。マルセル様は執務室にいらっしゃらないし、私邸にはちょっと行けないし。エルンストならアンジェと仲がいいから知ってるかと思ってさ。わかんないんならいいんだ。じゃあね」
くるっとむこうを向いて走り出そうとするレイチェルをエルンストは呼び止めた
「どこに行くんですか?」
「どこって、アンジェになんかあったらヤバいじゃん。ジュリアス様に言いに行くつもりなんだけど。きっとジュリアス様なら執務室にいらっしゃるだろうし」
「あの、少し待っていただけますか? ジュリアス様の耳に入ったらおおごとになります。私にいくつか心当たりがありますので捜してきます。レイチェルは寮で待っていてください」
そう言い残すと エルンストはものすごいスピードで駆けていった
「エルンストが走ってる……」
ひとり取り残されたレイチェルは 目をまんまるくして消えていく後ろ姿を見送った
エルンストはさすがに走るのに疲れてきた
なんといっても 普段運動することもないこの体では この広い聖地をくまなく駆け巡るなどまったく無茶もいいところだ
でも スピードを緩める気はなかった なにか急き立てられるような気持ちのまま アンジェリークの気に入りの場所を確かめてまわった
思いつく3番目の場所 ここしかないだろう と思った所
そこにもアンジェリークはいなかった
途方に暮れて ついに駆ける足が止まる
流れる汗を手の甲で拭き 額にはりついた前髪を後ろにかきあげた
(アンジェリーク……あなたはどこへ行ったのですか……)
不安が大きく胸を支配した
(もう、ジュリアス様にお願いするしか……)
突然 頭の中に ぱん! と音をたててある場所がひらめいた
エルンストはアンジェリークとの会話を思い出していた
「とっておきの場所があるんです。エルンストさんにこっそり教えちゃいますね。そこは…………」
(そうか! なぜ今まで気がつかなかったのだ)
アンジェリークと毎日のように会っていたあの頃
勉強の合間にしたたくさんの話の中に その場所について語る恥ずかしそうな嬉しそうな顔があった
寮の裏手 少し歩いた所にある小さな湖
居心地よく適度に開けていて 落ち着いたいい場所だ
彼女はそこにいるに違いない
今度こそ確信を持っていた
これでだめだったら仕方がない しかしそこしかありえない
エルンストは再び駆け出した
果たして……アンジェリークはそこにいた
暗闇の中 制服のまま湖の側に横たわっている
ぎくっとして 首筋が寒くなる思いがした
しかし とまどっている場合ではない
急いで駆け寄って彼女の息を確認するために顔を近づけた
すう すう すう
アンジェリークは安らかな寝息を立てていた
エルンストは大きく息を吐き出して かすかに微笑んだ
失踪した女王候補は 口をぽかんと開けて いかにも平和そうに眠っている
(とにかく良かった。いなくなったと聞いて生きた心地がしなかった。
なのにあなたは、このようにのん気な顔で眠っているのだから。……………さて)
エルンストはアンジェリークを起こさないように静かにその体を抱き上げると
寮の方へとゆっくり歩いていった
(なんかふわふわする。いい気持ち。ゆりかごにゆられてるみたい。それにあったかい…………?)
アンジェリークは次第に覚醒していった
目を開けると体が宙に浮いている
(あれ? あ……エルンストさん!?)
思わず身じろぎをすると 上から声が降ってきた
「起きましたか。これからあなたを寮までお送りしますから、そのままじっとしていてください」
エルンストは歩きながらそう言った
「あの……私、どうしちゃったんでしょうか? えーと……」
「あなたは近くの湖で寝ていたのです。口を半開きにして。……あまり心配させないでください。捜すのに大変ですから」
途端 アンジェリークの両手がエルンストの首に回された
ぎゅっとしがみつかれて驚いたエルンストの歩みが止まる
エルンストはアンジェリークをそっと地面に降ろした
そして 左手を彼女の背に
右手を頭に添えて ゆっくりと 優しく抱きしめた
すがりつくアンジェリークが 愛しくてならなかった
虫の声が 夜の森の中に静かに響いている
湿った空気がやわらかく 抱き合う二人を包み込んでいた
エルンストに抱きしめられている
何か胸苦しい思いを抱えたまま アンジェリークの思考は宙を彷徨う
顔を押し付けた彼の胸元からは微かに煙草の匂いがした
ややあって 抱きしめたまま エルンストが疑問を口にした
「なぜ あんなところで眠っていたのです?」
なぜ…… アンジェリークは考えた
全てに行き詰まり 気分転換にと あの湖を訪れた
湖の淵に座り いつものように寝転がって そしたらすぐにまぶたが重くなってきて
「眠かったから……みたいです」
他にいい言い方はないものかと思いながらアンジェリークは答えた
「眠かったとは……?」
エルンストが話すたびに 胸元から振動が伝わってくる
「あの、きのうちょっと夜更かししてしまって、あんまり寝てなくて、それで多分……すいません……」
恥ずかしいにもほどがある どうしてこんなに間が抜けているのだろう
これでは顔を合わせられない エルンストがどう思うかが怖くて耳をふさぎたくなった
しかし 心配したこととはまったく違う言葉が返ってきた
「レイチェルが……心配しています」
レイチェル…………もうひとりの女王候補…………
エルンストは女王候補の自分を心配して捜しに来たのだ
アンジェリークは 重く黒いものが胸の中を覆い尽くすのを感じた
この言葉が 自分を支配している
この事実が 私を鎖に繋いでいる
どうしたってがんばりきれない もう限界……
助けて……!
更に腕をからめて 強くエルンストにしがみついた しかし
「アンジェリーク、行きましょう」
エルンストの手により 願いもむなしく 両腕はほどかれた
身体を離すと ゆっくりと森の出口へ向けて歩き出す
エルンストが離れていく
しかし 抗うこともできず かといって進むこともできず
アンジェリークはうつむき じっとその場にたたずんでいた
アンジェリークはぎゅっと目を閉じた
遠ざかる足音 急速に身体が冷えてくる
やがて ピタリ とその音が止まった
ザッとこちらを向く音 そして一歩 二歩 三歩 ゆっくりと近づいてくる
焦がれてやまないあの人の 大地を踏みしめる音
すぐ目の前でその音は途切れた
はぁ……
アンジェリークの耳にため息が聞こえた
また エルンストさんを困らせている
帰らなくてはいけないことはわかっている
なのに どうすることもできない
アンジェリークの心の中で理性と感情が激しくせめぎあっていた
「歩けないのですか?」
エルンストの声が聞こえる
アンジェリークはうつむいたまま かすかにうなずく
「どうしてですか?」
どうしてだろう ただ動きたくないだけ
何もしたくない もうどうでもいい
「困りましたね……」
エルンストさんは本当に困っているんだ 私のせいで……
突然 両頬をはさまれた
半ば強引に上を向かされ
唇が重なってきた
(あ……!)
ドクンッ と大きくアンジェリークの心臓が跳ね上がった
触れられた唇から全体へ びりびりびりっと瞬時に伝わる電流
少しして 唇が離れた
エルンストが至近距離で 呆然としたアンジェリークを見つめている
これまで経験のない 距離のあまりの近さ
アンジェリークの膝はがくがくと震え 出した声はうわずっていた
「あの……どうし……」
言い終わらぬうちに また唇が重ねられた
エルンストの唇が アンジェリークの唇を 優しく愛撫する
頬にあった手は 髪を撫で もう片方の手は首を通ってうなじへと差し入れられた
再度 唇はアンジェリークから離れた
エルンストは両方の指全部を使って
アンジェリークの栗色の髪をこめかみから後頭部へ深く梳いた
そしてまた くちづけた
ゆっくりと ゆっくりと エルンストは唇を遠ざけていった
エルンストの愛撫によって少し湿ったお互いの粘膜が
別れる間際 名残惜しそうに プンッ と微かに音をたてて 離れた
「帰りましょう」
小さくエルンストは言った
そして 左手をアンジェリークに差し出した
しかし アンジェリークはその手を取ったものの 足がいうことをきかない
膝が笑っているアンジェリークを見たエルンストは 少しだけいじわるそうな笑みを見せて
「このまま置き去りにしてもいいですか。いいですね。それでは」
と言い残して すたすたと歩き出してしまった
それを見たアンジェリークは焦ってつい叫んでしまう
「待って! 待ってくださいっ!」
その声にくるりと振り返るエルンスト
そしてもう一度手を差しのべた
「ここまで自分の足で歩いてきなさい。早くしないと本当に行きますよ」
アンジェリークはそれを聞いて 足に力が入らなかったことを忘れ 走ってエルンストの所まで行き その手前で止まった
恐る恐る 両手でその差し伸べられた手を握る
エルンストはゆっくり歩き出した
ちらりと見上げたその顔は ほんの少し かすかに苦しそうに見えた
◆◇◆◇◆
自室に帰っても何も手につかなかった
エルンストに抱きしめられて エルンストにキスされて
その情景を何度も何度も思い出し その度に胸をどきどきさせて
アンジェリークは長い間 ベッドの上に腰掛けてぼーっとしていた
しばらく経ってからやっと動く気になってお風呂に入ったものの 考えるのはエルンストのことばかり
気がついたら湯船の中に一時間もいて 完全にのぼせてしまった
バスルームを出て ふらふらとおぼつかない足取りでベッドへ向かう
ふと 部屋の隅にある鏡を見た
風呂上りでてかてかと光っている自分の顔
そして 今はひときわ赤く染まっているこの唇にエルンストが……
彼は そのイメージと違い どこまでも柔らかかった
ひとさし指でそっと撫でると どきどきが大きくなっていく
今でも信じられない
ついさっきの出来事なのに 夢の中のことのように現実味がない気がする
でも 数時間前に確かに ここにエルンストの唇が触れたのだ
だが 突然 アンジェリークは思い出した
自分が女王候補だということを
……女王は恋をしてはいけない……
呪文かなにかのように その言葉が頭の中を駆け巡った
今 胸の内にあふれる この甘く苦しい感情
これが この気持ちが恋でなくてなんだというのだろう
愕然とした
聖地から訪れた使いの者に これだけは と念を押されていた
その時 たいそういかめしい顔をしたその人はこのようなことを言ったのだ
……誰か特定の人に想いを寄せぬように
たとえ想う人が現れたとしても けして結ばれはしない……
……女王と完全に時の流れを同じくすることができるのは補佐官だけ
補佐官の可能性があるのは 力を二分するもう片方の女王候補だけ……
だとしたら 本当にエルンストといることが叶わないのなら
女王にはなれない
エルンストと離れるなど 考えられない
もうすでに遅いのだ
もうこんなにも 好きになってしまった
怒るだろうか
こんなことを言ったら あの人は何と言うだろうか
あの 宇宙を愛するあの人は こんな自分を受け入れてくれるだろうか
それに アルフォンシア……
これまで懸命に育ててきた 今では自分の分身ともいえる生まれたての宇宙
視察に行くたびに すごく喜んですりよってくるかわいいあの子は
自分が育てなければいずれは消滅するかもしれない
そんな残酷なことができるだろうか
たかが恋のために
たかが……たかが……
わからない
本当にわからない
今までなんてのん気だったのだろうか
アンジェリークはそんな自分を責め続けた
少し考えればわかることだった
エルンストという存在が この心の中の片隅で息をし始めたあの時点で
本当は気がついてもよさそうなものだったのに
見ないふりをしていたのだ
事実に正面から取り組む勇気がなかった 逃げていた
怖い でも結論を出さなくてはいけない
自分はどうすればいいのか どうしたいのか
アンジェリークは 主星にある自分の家を出たときのことを今でも鮮明に覚えている
そう この肩には少なくとも 家族や友人の期待がかかっている
女王になれというのではなく 精一杯やってこいといって送り出されたのだ
母の あのときのくしゃりと歪んだ顔を忘れることはできない
父は さよならといって去っていく自分をいつまでもうなずきながら見送ってくれた
そして友達はみんな……泣いていた
そんな思いをしてまで送り出してくれたのに
皆の思いを無にはできない
それなのに 今 恋のために女王候補という立場を放棄しようとしている
こんなことで愛する家族や友人にむくいることができるのか
帰ればきっと 父も母も喜ぶに違いないけれども……
アンジェリークは鏡の前で悩み続けた
考えても考えても結論は出なかった
◆◇◆◇◆
カーテンの隙間から光が差し込んでいる
あの後 ベッドに入りようやく寝入ったのは明け方で
それでもアンジェリークの目覚めはさほど悪くはなかった
結局 さんざん悩んでも結論は出ずじまいだった
しかし アンジェリークはある決意をした
今日 女王陛下に会いに行こうと
会って 事実を確かめて それからもう一度よく考えてみようと決めた
陛下には最初の謁見の時と2度の定期審査でしか会ったことはないが
今 悩んでいることについて 一番良く知っているのは現女王陛下である
だいぶ勇気が要るが 一人で行きつ戻りつしているよりはよっぽどましだと思った
ふわふわとした金の髪 優しげな微笑み 天使のごとき女王陛下
彼女ならきっと 力になってくださるはず……
髪の毛を念入りにクシでとかし
制服のリボンと髪を飾るリボンを何度も結びなおす
アンジェリークはその間ずっと 真剣な表情を鏡に映していた
ピンポン
突然 玄関のチャイムが鳴った
「どうしよう……」
女王陛下に会いに行くつもりだったため もし誰かの誘いだとしたら居留守を使うしかない
躊躇したが とりあえず誰が来たのかだけでも確認しようと アンジェリークは扉へと歩いていった
(エルンストさん……!)
彼の人の姿を確認した途端 心が羽でできているかのように舞い上がってしまった
居留守を使おうとしていたことも忘れ アンジェリークは喜び急いでドアを開けた
「おはようございます。朝早くすみません」
礼儀正しく頭を下げるエルンストがなんだかよそよそしく見える
その姿は まるで初めて出会ったときのことを思い出させた
それをいぶかしく思いながら アンジェリークも頭を下げて挨拶をする
エルンストは目に少しだけ笑みを見せると 今日の用件をアンジェリークに伝えた
「これから少し、お時間をいただけますか。お話したいことがあるのです」
先ほどのエルンストの態度に少しだけ不安を覚えていたアンジェリークだったが
想い人の初めての誘いの言葉に そんなことも忘れ有頂天になった
女王陛下のところへ行くのは 後回しにしよう
とにかく相手は 悩みの一端を握っているエルンストなのだから
「はい、喜んで」
二人は公園に来ていた
エルンストがここを希望した 彼にしては珍しい選択だった
朝の公園は 昼間ほどにぎわってはいないものの あちらこちらに人の姿が見受けられる
適当なベンチに腰をかけて落ち着くと エルンストの方からアンジェリークに声をかけた
「昨日はよく眠れましたか?」
「……はい」
時間でいえばほとんど睡眠はとれていないのだが アンジェリークはこう答えた
その後しばしお互い無言だった
遠くを見つめるエルンストの視線の先をアンジェリークは追ったが 彼が何を見ているのかはわからなかった
「昨日のことなのですが……」
視線を動かさぬまま おもむろにエルンストが話し始めた
はっとしてアンジェリークはエルンストを見る
その話題に 心臓が痛いほど早く 強く打つ
「忘れていただけませんか」
「え…………」
続いた言葉にアンジェリークは混乱した とっさに意味が判別できなかった だから問い返した
「忘れるって……どういうことですか」
エルンストはゆっくりとアンジェリークの方に瞳を向けた
「私が昨日、あなたにしたこと全てを、なかったことにしていただきたい……ということです」
さっきまでの鼓動とは違う種類の痛みがアンジェリークの心臓を襲った
身体の芯から嫌なものがじわじわと広がっていく
「それって……それって、エルンストさんが、私を捜しに来てくれて……それから……」
エルンストがなんのことを言っているのかは薄々わかっている
それでも そのことを表す言葉を出すのをためらってしまう
エルンストは黙ったままアンジェリークを見ている
彼女が自分で口に出すのを待っている
「それから……その後のこと……全部……ですか……?」
ついに口にすることはできなかったが それで充分だった
「ええ。そうです」
短い返答
驚愕にアンジェリークの瞳は見開かれた
そしてその後 眉根を寄せて今にも潤みそうな瞳をエルンストの前に晒した
エルンストはそんなアンジェリークの表情の変化を視線をそらすことなく見つめ続けた
アンジェリークの唇は細かく震えていた
怒りとそれに伴う興奮で語調がきつくなる
「どうして忘れなければいけないの? エルンストさん、どうしてそんなこと言うの?
忘れられるわけないじゃない! なかったことになんて……どうしてそんな酷いこと、言えるの……」
最後にはうつむいていた
膝の上でスカートを握りしめた手の甲に ぽたり と雫が落ちた
それも全て エルンストは見ていた
まるで 少しでもそらしたら命の危機が訪れるとばかりに
ただじっと見つめ続けていた
そして 泣いているアンジェリークを目の前にしても とうとう 手を出すことはしなかった
しばらくして アンジェリークはうつむいたまま手の甲でごしごしと涙を拭いた そしてこう聞いた
「私が……女王候補だからですか……」
エルンストの答えはまた たったひとことのものだった
「そうですね」
アンジェリークはそれを聞いて 顔を上げた
泣いて赤くなった目にはかすかな希望の色がみえていた
「なら! 私は女王候補をやめます!」
パシッ!!
エルンストの平手がアンジェリークの頬で軽く鳴った
そして アンジェリークに一番衝撃を与える言葉を言った
「私はあなたのことをなんとも思っておりません。馬鹿な考えはお止めください」
アンジェリークは左頬を押さえ エルンストを凝視した
叩かれたことよりも 今聞いた言葉に衝撃を受けていた
キスをされたことにより 今の今まで気持ちは自分にあると確信していたから
アンジェリークはふらふらとベンチから立ち上がった
そしてエルンストを見下ろした
「最後にもうひとつ聞いてもいいですか……。どうして、あの時私にキスをしたんですか?
好きじゃないなら、どうして」
エルンストはアンジェリークを見上げた
もう既に暗く翳った青緑色の瞳を強く見つめた
そして言った
「気まぐれです」
アンジェリークは走って公園を後にした
残されたエルンストは走るアンジェリークの後ろ姿が見えなくなるまで見送った
視線を戻すと 遠巻きにエルンストを見ている人々が目に入った
ふぅ とひとつ息を吐き エルンストも立ち上がり そんな視線をものともせず 歩いて公園を出て行った
アンジェリークは 公園を出るとまっすぐ寮へと帰った
まだ早い時間だったが まったく何もする気になれなかった
玄関の扉を閉め 鍵をかけると 途端にぐぐぐっと喉が圧迫される
耐えに耐えていたものが 堰を切って溢れ出した
その場にしゃがみこみ 両手で顔を押さえて アンジェリークは涙が流れるにまかせていた
しかし悲しんでばかりもいられなかった
この日は入れ替わり立ち代り 何人もの守護聖や教官 協力者がアンジェリークの寮を訪れた
驚いたことに 皆 今朝の公園での出来事を知っており
一様に 公衆の面前で手を上げるなど 女王候補にしていいことではないと怒り
候補を降りたいと言ったから と言うと 皆それぞれのやり方でアンジェリークのことを心配し 元気付け 励まし 慰めて帰っていった
ジュリアスなど「女王陛下にあの者の処遇についてお伺いを立ててくる」といって聞かず
そんなことはしないようにと説得するのにかなりの時間を要した
そんな皆の心遣いはとてもうれしかった だが 本当はこのまま放っておいて欲しかった
皆が心配してくれているというのに 心の上をつるりと抜けていく感じで何も入ってこない そんな自分も嫌だった
やめたいと言った理由はただ エルンストさんが好きだから 彼と一緒にいたいから それだけ……
そう心が叫んでいるのに 言えないのは辛かった
エルンストを悪く言われるのも耐え難い
訪問があるたびに 正直疲れを覚えていた
陽の翳った夕刻 マルセルがやってきた
彼の訪問に アンジェリークはそれまでのどこか張り詰めていたものがほっと緩むのを感じた
マルセルは アンジェリークがエルンストをとても頼りにしていたことを知っている
エルンストの所に行き始めたときは 少しだけ拗ねていたマルセルだったが それを咎めるわけでもなく 仲良くなったことを喜んでくれていた
椅子に座って落ち着いた後 マルセルが話し始めた
「候補を降りたいって、言ったんだって?」
マルセルは 今日ここにきた誰かに話を聞いたらしい
「はい……」
「エルンストさんと、何かあったの?」
今日初めて核心を突かれて はっきりわかるほどアンジェリークは動揺した
「そうなんだね……。それは僕に言えること?」
ひと呼吸の後 アンジェリークの頭は左右に小さく振られた
「そっか……あのね、さっき僕、エルンストさんに会いに行ってきたんだ」
アンジェリークは目を見開いた マルセルは話を続ける
「エルンストさんね……アンジェリークに自分の代わりに謝ってくれって」
「エルンストさんが…………あの、それで他に何か言ってませんでしたか?」
「ううん、それだけ」
否定するマルセルにアンジェリークは密かに落胆した
エルンストにあんなことを言われたにもかかわらず やはり少しだけ期待していたのだ
「あのね、アンジェリーク。エルンストさん、今日のこと、わざとやったような気がするんだ」
「え?」
意外なセリフにアンジェリークは驚いてマルセルを見た
「だってそうじゃない? あの、いつでも冷静なあの人が、わざわざみんなのいるところでそんなことすると思う?」
「それは……」
そういえば エルンストは自分から公園に行こうと言った
あのような話をするためだったら 家の中でも または外なら誰も来ないところの方が目立たなくてよかったはずだ
「ねえ、何か考えがあるんだよ。エルンストさん。僕には何も言ってくれなかったけど、アンジェリークが行けば教えてくれるかもしれないよ」
(教えてなんてくれないわ、きっと……)
アンジェリークそう心の中でつぶやき ため息をついた
でも……
アンジェリークは頭の中で エルンストの行動と今の考えを照らし合わせてみる
もし マルセルの言う通りだとしたら
自分のことをなんとも思っていない と言って
それどころか キスしたこともただの気まぐれで済ませたこと
それらも全部 それがどんな酷い言葉かわかっていてあえて使ったということだとしたら
何のために……?
(……………………)
ひとつだけ 浮かんだ
(女王に……)
(そう……か……)
完全に突き放されたのだ
エルンストには私という人は必要ないと判断された
彼は一人で考え 実行した
もしかして 自分が昨日悩んだことと同じ悩みを 彼もまた抱えて過ごしたのだろうか
それは 非常に都合のいい憶測ではあったが考えずにはいられなかった
しかし どんな考えがあったにせよ 彼は決めてしまったのだ
「わかったわ」
アンジェリークはつぶやいた そして次に強い口調で言った
「私、女王になります」
マルセルの目を見て はっきりと宣言した
マルセルはその急な変化に付いていくことが出来ず一瞬だけ動きを止めたが
揺るぎない視線を受けて 穏やかな笑みの形をとる
マルセルはずっとアンジェリークを信じつづけてきた
彼女がそう言うなら 全力で協力するだけ
悲壮な決意にも見えるその姿は マルセルの目を惹きつけずにはいられなかった
そしてその夜 そんな彼女を後押しするように 様々な属性を持つ星が新宇宙に誕生した
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