聖地に来て3週間
エルンストは何冊もの本を両手に抱え 王立研究院への道を歩いていた
一日一日が貴重な聖地での生活
どんなことも見逃すまい
ここでの一分一秒は ダイヤモンドの如く光り輝く宝石
この 肌に感じる空気の爽やかさ
目に映る緑の鮮やかさ
ここは エルンストが物心ついた頃から憧れ続けた 聖地
星の瞬きは全て ここにおわす守護聖 そして女王陛下の手により生まれているのだ
エルンストは抱えている本を持ち直して 小さくふぅと息を吐いた
聖地というのはどうしてこうも前時代的なのか
交通手段が馬車のみだと聞いた時は大変驚いた
そのせいでこうして徒歩で荷物を持ち運ぶはめに陥っている
しかしそれも良いだろう
エルンストは 傍目にはそうとわからない微妙な笑みを口元に形作る
ふと 主星での王立研究院の院長のセリフが頭に浮かんだ
「聖地という場所。悪しき者は小指の先ほども踏み込むことが許されぬという。
花と緑にあふれ、美しい色をした鳥が不思議な音色でさえずり、空は常に快晴で雲ひとつない、楽園の如き夢の世界だと……。そういう伝説がまことしやかに流れているが、君もそう思うかね?」
エルンストはその時 否 と答えた
どのような場所であれ 楽園などというものがこの現実の世界にあるとは思えない
確かに自分は 聖地 に憧れ続けてきたが
それは この広大な宇宙をあまねく司る 神の如き一握りの人々が住まう場所であるからだ
その後院長の口から 女王試験の協力者としてこの聖地に招かれるということを知らされた
そのときの感動は今でも忘れられない
この世の全てのものに感謝したいと思ったほど うれしかった
この自分でさえ把握しきれないほどの広さをもつその宇宙を 育て導く女王陛下
その至高の存在をこの目にすることができるなど 夢のようだと
院長室を出て扉を閉めた側から頬をつねって 自らの幸福を噛みしめたものだった
エルンストは空を仰いだ
今日は見事な快晴だ
きっと数時間後 素晴らしい天文ショーを繰り広げるであろうこの青空
楽しい気分になり エルンストははっきりと微笑んだ
そして歩き出そうと視線を道の先へ移そうとし
ふと その目に誰かの存在を認める
(あれは…女王候補のアンジェリーク・コレット……)
彼女は道の真ん中に突っ立って 顎をぐんと上に向けていた
何が見えるのかと エルンストも上を振り仰いだ
先程自分が見ていたものと同じ青 青い空が広がるのみ
エルンストは近づいていってアンジェリークに声をかけた
「何を眺めておいでなのですか?」
栗色の髪が舞い すごい勢いでこちらを向いた
「エルンストさん……」
その眉が八の字に下がる
「あ…あの……けしてさぼっている訳じゃないんです……」
アンジェリークは 自分がその行為を咎めていると思ったらしい
エルンストは少しむっとなって言い返してしまった
「私はあなたが何をしているのか、と聞いただけですが」
「あ…ごめんなさい。えっと、空が綺麗だなあって……思って……」
「空……」
エルンストはその言葉を繰り返し 彼女が見ていた「空」を見上げた
そしてその隙に アンジェリークは「失礼します」と言って立ち去ってしまった
それこそ逃げるように駆けていくその後ろ姿を見つめる
エルンストの胸がチクリと痛んだ
エルンストの目から見て アンジェリークは女王候補としてはなっていなかった
その気弱な精神も気概のなさも含めて 女王になる器ではないと判断していた
ほんの少し前までただの高校生だったアンジェリーク
それがいきなり女王候補になるなど 一ミリも思ってなかったに違いない
自分の指導を受けるとき 俯くばかりの彼女は少しだけ 気の毒ではあったが
だからといって彼女を甘やかせば良いという訳ではない
必要な注意は与えてしかるべきである
自分はその為にここに来た
そして 彼女は女王になるためにこの聖地に来たのだから
だが
こうして拒絶の意を アンジェリークの全身で表されると
足元を冷たい風が吹き抜ける気がする
エルンストはしばしその場で アンジェリークが消えた先を眺めていた
次の日 エルンストはまたもアンジェリークに会ってしまった
彼女は公園にある大きな木の根元に座り込み 身体を幹に預けて寝息をたてていた
ここはどうやら彼女のお気に入りの場所らしい
この木で眠るアンジェリークを見るのはこれで5度目だった
エルンストはこのような公の場所で しかも女王候補が無防備な姿を晒すなど
よくないことだと考えていた
「またですか……」
ちいさくつぶやき ひとこと注意をしようと近づいていった
しかし エルンストの動きは彼女の側まで来て 止まった
アンジェリークの口がぽっかりと開いている
それどころか 口の端から一筋たらりとよだれまで垂らしていた
恐らく最初は下を向いて眠っていたのが 途中で体勢を変えたのだろう
お陰で完璧に 威厳などというものから一番遠くへその存在を置くことになってしまっている
(上を向いて眠ると物理的に口は開いてしまうというのに……)
エルンストは制服のポケットからハンカチを取り出した
その場に片足をつき アンジェリークの口元をぬぐう
そしてそのまま 眠る少女の顔をじっと見つめた
どんな夢を見ているのか 目元を緩めて幸せそうにも見える女王候補
自分の前でこのような表情は決してしないであろうと エルンストは思った
そのことは エルンストを深く傷つけた
やがて エルンストは静かにその場を立ち去った
アンジェリークの眠りは守られたまま
開いていた唇は 慎ましく閉じられていた
その後 エルンストがアンジェリークへの態度を軟化させたということはなかった
ただ 去っていく栗色の髪を見つめる目はせつなげにせばめられ
振り返ることのないアンジェリークはそのことに気付かない
そしてエルンストも その時はまだ己の上に恋心という甘いシロップがかけられたことに気付いてはいなかった
エルンストは協力者としての職務をまっとうしようと日々努力し続ける
全ては 新しく誕生する宇宙のため
そして 二人の女王候補のため
聖地で眠るアンジェリークの姿 彼にとっての楽園を胸に秘めたまま……
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