別にどうって事でもないし



原素子が教室に入ろうとすると、甲高いしゃべり声が聞こえてきた。
「やっぱり嫌なものは嫌だよねー」
新井木勇美である。
彼女を中心に数人の女子が取り巻いていた。
「『年下で階級も下で身長も下』。これ、カレシとして最悪!」
「まあ、おカネがないっていうのは切ないですよね…」と田辺真紀。
「でしょ? だって、デートのたびに相手のおサイフを心配しなきゃいけないんだよ」
「だけど、大事なのは、えっと…愛情じゃない」
森精華の反論を新井木はちっちっちと一蹴した。
「モリリンは甘い。身長も低かったら、キスするたびに女が背をかがめるんだからね」
「確かにそりゃカッコ悪いなあ」田代香織がうんうんとうなずく。

素子はつかつか歩んで席につくと、咳払いをひとつした。
お喋りがぴたっと止んだ。
彼女が速水厚志と交際を始めたことは小隊中で知らぬものはいなかった。
まさに<年下・階級下・身長下>の彼氏そのものである。
森精華などは気まずそうに下を向いてしまう。

素子は思った。
別にどうって事でもないし。

昼下がり、素子が廊下を歩いていると本田と善行が話し合っているのが見えた。
「…小隊内での男女交際。こいつは<毒>だ」
へヴィメタル装束の自衛官教師・本田が出席簿で頭をかきながら言った。
「はあ」
「統計的にもはっきりしている。自分の恋人を救おうと無茶しやがるヤツが必ず出る」
「そうすると、戦死者も増えると」善行はあごひげをしごいて淡々と応じた。
「まあ、そういうこった。おまえもここの連中の人間関係には気を配っておけ」
「了解しました」
その横を素子が通り過ぎる。
ふたりの無言の視線を痛いほど感じながら、女子トイレに曲がった。
個室に入ってドアを閉じると、素子はため息をついた。

別にどうって事でもないし。

仕事を片付けると、校門前に速水厚志が待っていた。
「ごめんなさい。待った?」
「ううん、待ってる時間も楽しいもの。さ、行こうか」
今日は彼の個人寮で、一緒に夕食をたべる約束をしていたのだ。
先を歩く厚志の背中を見ながら、本当にかわいい子、と思う。
自分は自分。それでいいんだわ。

玄関でブーツを脱ごうとした素子は、1本の毛を発見した。
猫のものではない、長い黒髪だった。
「ね、ねえ…厚志くん」
「なに?」
すこし鼓動が高まるのを感じながら素子は訊いた。
「最近、お客さんとか誰か来た?」
「ああ、舞が来たよ」
「えっ!?」
「ほら、こないだの大雨の日。うちの方が近いから、しばらく雨宿りしてもらったの」
「あ、あら。そう…なの」
「早く上がって」
よりにもよって、芝村舞。
彼女の恋のライバルであることを知ってか知らずか。
ぽややんとした厚志の笑顔からは答えは何も得られなかった。

素子は目を閉じて邪念を振り払った。
別にどうって事でもないし。

厚志はエプロンをつけると素子にダイニングの椅子を勧めた。
「ちょ、ちょっと。わたしが作るわよ」
「今日は素子さんがお客様。ぼくが作るから、ちょっと待ってて」
厚志は背を向けて冷蔵庫から材料を取り出しはじめる。
素子はふっと肩の力を抜くとテーブルについた。

「今日のメニューは何かしら? 料理長さん」
「あはっ」
鍋を取り出した厚志は振り向いて微笑んだ。
「速水家ご自慢ビーフストロガノフ。特別ですよ」
「…何が『特別』なの?」
テーブルにひじをついていた素子は訊いた。
「食べていただくお客様。素子さんは、ぼくにとっての『特別』な人だから」
「えっ…」
「だけど、ちょっとお時間がかかります。その間、お腹を空かせて待っててくださいね」
よいしょ、と重い鍋をコンロに載せてから、料理の材料を吟味する厚志。
素子は目頭が熱くなるのを感じた。

ううん。
別にどうって事じゃないし。
わたしがあなたの『特別』なのは、当たり前のことなんだもの。






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