春色自転車
「うげっ!」
土曜日の午後。加藤祭は司令室で思わず奇声を上げた。
書類の中に不備を発見したからである。
先週の出撃の際、92ミリカノン砲弾が大量に必要になった。
在庫ではとても間に合わないため、隣の小隊に融通を頼んだのであった。
先方は仲良しの事務官だったため快く貸してくれたのだが、肝心の書類にサインをもらうのをうっかり忘れていたのだ。
半日がかりで隣の隊へ往復することは簡単なこと。
しかし、うず高く積まれた仕事をこなす時間をそれによって奪われるのが痛い。
(あかん…明日はなっちゃんとデートの約束をしてるんや)
苦悩する祭の耳に、ノックとともにぽややんとした声が聞こえた。
「失礼します。ちょっと陳情したい件があって」
ひょっこり顔を出した速水厚志が天使のように見えたと、後に彼女は語った。
自転車にまたがった厚志は、カバンを叩いて祭に確認した。
「この書類にサインをもらってくればいいんだね?」
「そうや。あーん、もう速水くん大好き! 恩に着るわ。礼ははずむよってな」
ペダルをこぎだした厚志は、意外な抵抗を感じてぎょっとした。
振り向くと、後部に芝村舞が腰を落ち着けている。
「ま、舞…どうしたの?」
「話は聞いた。私も同行するぞ」
「ええっ?」
「理由はふたつ。ひとつ、そなた1人では、万が一事故にでもあった場合に任務を完遂できない可能性がある。
ふたつ、私の体重がほどよい負荷となって足腰の鍛錬に役立つ。一石二鳥ということだ」
穏やかな晴天の下、厚志と舞を乗せた自転車はゆるゆると走り出した。
急な上り坂では一緒になって自転車を押し上げた。
国道では学兵を満載したトラックの群れとすれ違った。
1台通過するたびに、ふたりに向かって冷やかしの声や口笛が浴びせられる。
舞は不思議そうな顔で厚志に尋ねた。
「あやつらは何を騒いでおるのだ」
「僕たちを、その…恋人同士と思ってるんじゃないかな」
「なななな何だと!?」
「うわっ、そんなに動かないで!」
サインをもらうのは拍子抜けするほど簡単だった。
帰路は川沿いの土手道を選んで走った。
爽やかな風がふたりの頬をなでていく。
「ふむ。自転車というものは、尻の痛さを除けば快適なものだな」
舞は感心したように言う。
「こぐ、立場に、なってから、言って、ほしいね」
そろそろ疲れてきた厚志は息を切らせながら皮肉った。
と、1匹の子猫が突然ふたりの前を横切った。
「いけない!」
厚志は慌ててハンドルを切る。
自転車はバランスを崩して土手を川に向かって転倒した。
放り出された厚志と舞は斜面を転がっていく。
「…舞! 大丈夫?」
「私は無事だ。そなたこそ平気か?」
ふたりは這い寄って互いに顔を見合わせた。
ふいに厚志が吹き出す。そのまま声をたてて笑い出した。
「何がおかしい。頭でも打ったか?」
「だって、舞ったら上から下まで草まみれなんだもの」
舞は自分と厚志を見比べてから憤然と言い返した。
「それはそなたも同じであろ?」
「そうだね、あは、あははは!」
厚志は草地に寝転がると笑い続けた。
最初はムッとしていた舞も、やがてつられて笑い出す。
「そう、その顔だよ。その笑顔」
厚志は草を払いながら立ち上がった。
「どういう意味だ」
「可愛いよ。いつもよりずっといい。その方が他人から好かれると思うよ」
「なっ…!?」
舞は顔を耳まで赤くして口をぱくぱくさせた。
可愛い、という評価は生まれてこのかた聞いたことがなかったからだ。
厚志はにっこり微笑むと、硬直した舞の手を取った。
「さあ、帰ろう!」