青春のトビラ



女子トイレの洗面台で、舞は黙々と手を洗っていた。
頭では別のことを考えているので、すでに指先が冷えきっているのにも気が付かない。

(…原さんと、つきあうことになったんだ。)

速水厚志がそう言ったときの、照れくさそうな声が耳にこびりついて離れない。
彼をめぐって宣戦布告をしてからそれほど日にちはたっていないというのに。
原素子はどのような手段を使って厚志を篭絡したのか?
芝村として、3番機パートナーとして、絶対の自信を持っていた舞のプライドは砕かれた。

ふと、水道の蛇口がキュッとしめられた。
顔を上げると、鏡には原素子の姿があった。
「…!」
「いつまで流しているの? 水の無駄よ」
素子は舞を見下ろすような視線で言い放った。
唇を噛みしめた舞は身構えた。怒りで手が震えている。
「そなた! あ、あ、あ…厚志を…厚志を…」
「速水くん? ふふ、もう知られちゃったんだ」
さも愉快そうに素子は微笑んだ。
「残念だったわね。えっと…『芝村に敗北はない』だったかしら? 
冗談もあなたの一族の得意技だったのねえ」
「戦術的勝利などくれてやる」舞は素子をにらみつけて言った。
「最後に目標を制するのは、我らだ」
「ふうん…」素子は感心したように舞を見つめかえした。
「その自信がどこから出てくるのか、ほんっと不思議」
素子はにっこり笑うと、舞の襟元のリボンを整えながら宣言した。
「速水くんは私のカレなの。いいこと? 負けは負けとして認めなさい」
「くッ!」
舞は素子の手を乱暴に払いのけた。
そして同じ時、トイレの出口にもっとも近い個室の中。
壬生屋未央はロックに手をかけたまま困り果てていた。
ふたりの会話が筒抜けで、外に出ようにも出られない。
(ああ、なんて緊張感なのかしら。どうしてわたくしばかり、こんな目に…)

放課後の小隊司令室で、加藤祭はせっせと仕事を片付けていた。
善行は準竜師のもとへ呼び出されて不在である。
(今日の分の仕事はさっさと片してバイト探しや。時間は有意義に使わんとな)
弱々しいノックがする。
ふらふらと現れたのは壬生屋未央だった。
「なんや、未央ちゃん。そんなげっそりした顔して」
「加藤さん。あの、お話を…聞いて…いただけますか…」
「そりゃあ、かまへんけど。どしたん? また瀬戸口くんと喧嘩した?」
「お、王様の耳はロバの耳…」
「は?」
30分後、加藤情報産業鰍フ人間関係ノートは大きく書き換えられることになる。

舞はハンガーで3番機の整備に余念がなかった。
…と外からはそう見えたが、実際には時々ため息をつき、手を止めることもしばしばだ。
パートナーの厚志はまだ姿を見せない。
テレパスセルで場所を特定するのは簡単だったが、実行する気が起きない舞だった。
「え〜芝村はん。毎度おおきに!」
振り向くと、加藤祭が背後に立っていた。舞は顔を戻すとそっけなく言った。
「私は忙しい。無駄話なら他所でやるがよい」
「あは、あははは。そない怖い顔せんでもええやないですか」
「くだらぬ話は無用。参考までに言えば、私はいま最低に機嫌が悪いところだ」
「ほうでっか、そら残念やなあ。は〜ら? は〜や〜み?」
舞の手が止まった。鋭い目で祭をにらみつける。
「…何を知っている」
「はい、ここから先は有料でおま!」

ノートを閉じると、舞は祭に突き返した。
「分かった。対価は支払う」
「毎度おおきに。お役に立てて嬉しいわ」
祭は上機嫌で千円を受け取った。
「ま、要するに」彼女は財布の中身を確認しながら言った。
「ウチの主観もかなり入ってますけど、あのぽややんにとっては、あんさんも素子姐さんも
限りなく同列に近いちゅうことですな。逆転のチャンスもあり、ちゅうこって」
「ぬ…」
「これは余計なお世話かもしれへんけど」祭は咳払いして訊いた。
「芝村はん、自分の気持ちをぽやに伝えたことあるんでっか?」
舞はしばらく迷ってから短く答えた。
「ない」
「やっぱり」祭はため息をついた。
「ここからはサービスいうか、ウチの独り言と思ていただいてええんですが。
同じ部隊で、特にコンビを組んでる男女いうのはお互いに誤解しやすいものなんですな」
「ふむ…?」
「以心伝心ちゅうか、そら戦場や仕事場ではそうかもしれへんけど。
でも、男女いうのは本質的に違う生物。想いが伝わっていると勘違いしやすいんですわ」
「そういうものか」舞は厚志の顔を思い出しながらつぶやいた。
「あとは芝村はん次第やな。男ちゅうもんは基本的に鈍感よって…
特に速水くんなんか、言うのもなんやけど、オリンピック級の鈍感なんちゃいまっか」
「まったく同感だ」
舞が深くうなずくと、祭は両手を合わせてくねくねと悶えた。
「ああーん、青春のほろ苦い片想い! …でも正直、嬉しかったんよ。
芝村はんもウチらと同じように男の子のことで悩んだりするとは思いもしなかったさかい。
って、気を悪うせんでな」
「かまわぬ。誤解は我ら一族につきものだ」
ほな頑張ってや〜と手を振り、祭は立ち去った。
機械音だけが響くハンガーにたたずんだ舞は、ひとり物思いに沈んでいた。

夜も更けて、最後まで仕事をしているのは舞と厚志だけとなった。
(ここで、私の意思を明確に伝えておくことも必要かもしれぬ)
周囲を見回し、ほかに誰もいないことを確認した。盗聴器の心配もないだろう。
舞はすっくと立ち上がると、すうっと息を吸って厚志の方を向いた。
「…厚志、話がある。大事なことだ」
「うん。なに?」
何も知らずに作業をしていた厚志は、いつものぽややんとした笑顔で振り向いた。
その顔を見ると、舞は頭にかあっと血が上るのが感じられた。
身体が硬直する。舌が口の中に張り付いて言葉が出てこない。
(ええい、見慣れた間抜け面ではないか! 私は何を緊張している?)
「どうしたの?」
「そなたは、私のそばにいてもよい。その…そなたがどうしても、と言うのであればだが」
「うん」厚志は不思議そうにうなずいた。
「いるじゃない、ここに」
「た、た、たわけ! そういう意味ではないッ」舞は顔を真っ赤にして怒鳴った。
「個人的で永続的な信頼関係を築いてもよい、と言っている」
「コジンテキデエイゾクテキ…? ごめん、ちょっと意味が分からない」
舞は目まいを覚えて足元がふらついた。
「わ、わ、私は、原が…原が…」
「なあんだ、そういうこと」
厚志は立ち上がった。舞の手をとって彼女を見つめる。
「舞ってば、いつも難しい言葉を使うから困っちゃうよ。でも、やっと分かった」
「あ…厚志…?」
舞の背筋にぞくっとするものが走った。息が詰まって、目頭が熱くなる。
決死の告白が通じたのか…
「腹が減ったからいっしょにご飯を食べようって言いたかったんだね」
時計を見て厚志はにっこり微笑んだ。
「僕もお腹がぺこぺこ。味のれんがぎりぎり開いてるから、行こうか」

舞はガラガブ定食を注文し、がつがつと勢いよく食べた。
隣でコロッケ定食に箸をつけている厚志は心配そうに言った。
「そんなに慌てて食べると身体に悪いよ」
「黙れ。食べ方までそなたに指図されるいわれはない」
味噌汁をごくごくと飲み干すと、舞は会計を済ませてさっさと店を出た。
厚志はぽかんとしたまま、演歌の鳴り響く味のれんのカウンターに取り残された。

舞は女子寮まで、脇目もふらず走った。
全力疾走だった。
そして当然のように気分が悪くなり、帰宅してから少し吐いた。
(…舞、大丈夫? 当たり前だよ、そんなに大食いして走ったりしたら)
厚志の声が聞こえたような気がして振り向いたが、トイレには彼女以外に誰もいなかった。
きっとこの場に彼がいたら、優しく背中をさすってくれたことだろう。
その後で、昼間に見た原素子の余裕の笑顔を思い出し、もういちど吐いた。
「…厚志…原…」
トイレのドアで身体を支えている舞の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「分からぬ。敵は…本当の敵は誰なのだ」
口の中の酸味を噛みしめながら舞は思った。
これが加藤祭の言っていた、『ほろ苦い片想い』なのかと。



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