ぼくの美しいヒトだから(前編)
昼休みのハンガーは時ならぬ喧騒に包まれた。
謹慎が明けた原素子が姿を現したのである。
誰もが彼女の復帰を待ち望んでいたことは明らかであった。
森精華などは感極まって、抱きついて泣き出したほどだ。
ハンガー2階からその様子を眺めていた速水厚志は、ほっとしたように言った。
「…よかった。これで元に戻ったって感じ。ねえ、舞」
呼びかけられた芝村舞は黙々と士魂号の調整をおこなっていた。
「3号のレンチをよこせ」
厚志は「はいはい」と工具を渡しながらも、「舞は気にならないの? 下の様子」
「整備班の問題に興味はない」
「そう言うと思った」
厚志は笑った。そしてあらためて1階を見下ろした。
「でも、本当によかった。原さん…」
気もそぞろな厚志を、舞は鋭い横目でにらみつけていた。
嫌な予感が胸の奥にとぐろを巻いていたが、あえて無視することにした
午後から増えてきた雲は、放課後になって空を覆うまでになっていた。
速水厚志に呼び出された素子は、何度か迷ってから屋上へと足を運んだ。
すこし強い風が彼女の髪をなびかせた。
厚志はいつもと変わらぬぽややんとした笑顔でいるように、見えた。
「復帰おめでとうございます、原さん」
「ありがと。…それで?」
素子は髪を押さえながら尋ねた。
厚志は口を開いたが、言葉にならずに横を向いた。頬が赤く染まるのが分かる。
しばらく沈黙が続いた。
先に発言したのは素子だった。
「このまえのことは謝るわ。私も少し動揺してたのね、ごめんなさい」
「ああ、それは…いいんです」
「じゃあ、仕事時間が始まるから。お互いにね」
踵を返した素子の手が不意につかまれた。思いがけない強い力だった。
「待ってください」
素子の心臓の鼓動が急速に高まった。
「…なにかしら?」
「話が、あります」
決意を秘めたような言葉だった。深呼吸をひとつすると、厚志は続けた。
「考えました、僕なりに。いっぱい」
素子は身を固くした。
ぼくとつきあってくれませんか。
風に遮られながらも、はっきりとした言葉だった。
それは、素子の耳に入ってから理解されるまで少し時間がかかった。
「速水くん。…あなた、自分が言ってることを分かってる?」
「もちろんです」
握られた手に力がこめられた。
「その方が、前向きかなって思って」
素子は軽いめまいを感じた。両足が地面に着いていない。
「私はあなたの上官なのよ。学兵といえども、ここは軍隊なの」
「上官を好きになったら、いけないんですか?」
「え…えっと、それは、分からないけど…」
まっすぐ見つめる厚志の視線に、素子は落ち着きをなくしていた。
「そう、私はあなたより3つか4つも年上だわ。それでもいいの?」
「恋愛に年齢って関係あるんですか?」
「背だって女の私の方が高いのに」
「気にしません。毎日牛乳を飲んでますから、そのうち追いつきます」
冗談めかして厚志は笑った。
素子はふうっとため息をつくと、少年の手を振り払った。
そして、驚いた顔の厚志を力いっぱい抱きしめた。
背中に回された手が上着をぎゅっとつかむ。
「ありがとう。…大好き」
「僕もです。その代わり、約束してください」
「うん」
「このまえみたいな無茶はしないって」
「…うん」
壬生屋未央はいそいそとプレハブ校舎2階を歩いていた。
雨が降りそうな雲行きなのに、手拭いを屋上に干しっぱなしだったのである。
(わたくしとしたことが…)
ふと廊下の先に目をやると、瀬戸口隆之が屋上への階段の手前にたたずんでいた。
壁によりかかり、長い脚を遮断機のようにして進路をふさいでいる。
壬生屋はムッとして言った。
「そこ、通していただけませんか? 屋上に用があるのです」
「悪いが屋上は取り込み中だ。もうちょっと待ってくれ」
「ここは天下の公道です。あなたに妨げられる言われはありません」
「あっ、この馬鹿!」
あざやかな手さばきで瀬戸口の足をひねると、壬生屋は屋上への階段を上って行った。
そして目にしたのは、身を寄せ合う厚志と素子の姿だった。
「…!!」
棒立ちになった壬生屋を、後から来た瀬戸口がひきずり下ろす。
彼女は激しく動揺して口をぱくぱくさせた。
「あ、ああ、あの、あれは、はや…はら…?!?!」
瀬戸口は彼女を壁に押し付けると、口元に指を立てた。
「人の恋路を邪魔するものは、って言うだろ。お前さんは何も見なかった。いいな?」
芝村舞は、いつまでもハンガーに現れない厚志を待ち焦がれていた。
(つづく)