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エルフは涙を流さない。 非常な長寿を有する種族であるゆえに涙腺が退化している、という訳では、もちろんない。 しかし、慟哭するほどの悲しみは、彼らの細く長い銀糸の命を、いとも簡単に断ってしまうのだ。 それゆえ、エルフは涙を流さない。 ないしは、流せない。
それゆえ、エルフは歌に乗せて、少しずつ感情を開放してゆく。 ないしは、憶えている。 ずっと――ずっと、憶えている。
金色の髪が少しだけ風になびき、雲間の月光を弾いた。 レゴラスは、ゆっくりと夜の天を仰いだ。 「ああ、なんていい月なんだろう」 たとえ彼の隣に誰かがいたとしても、その人にすら聞き取れないであろうほどの、かすかな声で言う。 あるいは、もしその人が彼の親しい人であるならば、その人にだけ聞き取れるほどの。 ちょうど雲が切れ、満月が空を切り抜いたように輝き始めたところだった。 「こんなに素敵な月をひとりでながめるなんて、もったいない気がするよ。私の隣に誰かいてくれればなぁ。光も風も草も木も、このエルフのように歌うだけだから」 穏やかな旋律に乗せ、優しく語り聞かせるようにレゴラスは歌った。 何十年、何百年経っても、彼の姿にはあまり変化がない。 これからも、きっとそうだろう。
エルロンドの娘アルウェンは、永遠の命を捨てることを承知で人間を愛している。 その話を聞いたときレゴラスは、エルフとしてはあまり喜ばしい話ではないと思った。 物事のはじまりとおわりを見届ける――傍観する立場にあるエルフが、あえて死を選ぶようなことなど、本来あってはいけない。 そうまでして他人を思うことはない。 それはエルフとドワーフが相容れることくらいに、ありえないことだ。
しかし、今のレゴラスになら、彼女の思いがわかる。
「ああ、なんていい月なんだ! あんたも意地の悪いエルフだなぁ、ひとりで見ていないで、私を起こしてくれればいいのに」 背後の林から出てきたギムリが、低く穏やかに叫んだ。 レゴラスは肩越しに振り返り、彼の姿を見止めてほほえんだ。 「これから、ドワーフの旦那を起こしにいこうと思っていたんだよ」 「それじゃあ手間がはぶけたね」 のしのしと地を踏みしめるように歩き、ギムリがレゴラスの隣までたどり着いた。 それが合図のように、レゴラスは若草の地面に座り、子供のように足をまっすぐ投げ出した。 ギムリは彼の傍らに立ったまま、目を細めて月を見上げている。愛用の斧は持っていない。レゴラスもまた、弓矢をたずさえてはいなかった。 雲は先ほどよりさらに風に流され、ちぎれて消えていた。 黙ったまま夜空を見上げる二人の上に、月と星の光が、空気より細かい粒子になって降りしきっていた。
ふいに、レゴラスが右上に首をかしげ、ギムリを見上げた。 その顔には見事なくらいに整った、しかしどこか無邪気とは言いがたい笑顔が浮かんでいる。 「ねぇギムリ」 ギムリは返事をせず、視線だけを合わせた。 親友の「この笑顔」が出たときには、たいてい妙な「お願い」をされることを、彼は心得はじめていた。 「歌を聴かせてくれないかな」 ギムリの眉間にきゅっとしわが寄った。 「……エルフがドワーフに歌を頼むなんて、聞いたことがないぞ」 「いいんだよ、私が聴きたいんだから。それにねギムリ、実のところ、私はそれほど詩が得意なエルフではないんだよ」 普段よりは声を殺して、ギムリが短く笑った。 「私が思うに、あんたは自分の詩がよくないと思い込んでいるだけだね。さっきあんたが歌った歌だって、素晴らしかったじゃないか」 「おや、聞こえていたのかい」 意外そうな言葉を言ったレゴラスだが、表情にそんな雰囲気は全くない。最初からすべてを悟っていたように、エルフ特有の余裕でほほえんでいる。 「そうだよ。それにね、レゴラス、あんたはひとりじゃない」 そのほほえみがごくわずか、こわばったことにドワーフは気付いただろうか。 考えるように沈黙がおりる。 やがて、ギムリはつぶやくように歌い始めた。 生きとし生けるものが月の光を受け、美しさを素直にたたえる、彼らしい歌だった。月光の冷たさも、彼が歌うと暖かく感じられた。 レゴラスは、目を細めて彼の歌声と月光とに身を浸した。
夢から覚めるように、レゴラスはゆっくりと目を開けた。 月は薄い雲に隠れ、ぼんやりと光を放っていた。隣には誰も立っておらず、ただ風だけが通り過ぎていった。 なすすべなく、レゴラスはエルフのほほえみを浮かべた。 「ねぇギムリ、私が歌わなかったのはね。どうしても悲しい歌になってしまうからなんだよ。それとね」 レゴラスは立ち上がり、体についた土や葉を払った。 「きみの歌を憶えていたかったから。月を見るたびに思い出すのは悲しいけれど、それは憶えているのと同じこと」 かすかな言葉はそれだけで歌のように、夜気を淡く彩る。 「ずっと――ずっと、憶えていたかったから」
かつてドワーフによって歌われた月の歌を、すこし高い旋律でエルフが歌い始めた。
Fin.
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