日本史奇人列伝 

第二回 前田利常

 

 

日本史奇人伝の第二弾で紹介するのは、あの前田利家の息子にして加賀藩の第三代藩主、前田利常という殿様である。この人については、当時の加賀藩の置かれた状況やその人と為りを物語る、大変有名なエピソードがある。とりあえず冒頭でそれを紹介しておきたい。

 

この利常には、「鼻毛の殿様」という、あだ名があった。一寸(3cm)もの長さに鼻毛を伸ばし、江戸城内を歩き回ったからである。見かねた家来が、それとなく注意を促すために殿様の目の前で鼻毛を抜いて見せたが、相変わらず。そこでもっとはっきり示さなくてはダメかと、鼻毛抜きを贈ることにした。その家来達に対して、利常曰く。「自分の鼻毛のことはちゃんと分かっておるし、皆がわしを陰で阿呆扱いにしておることも知っておる。すべて承知の上でやっておるのだ」と。

びっくりする家来達に利常が説いたのは、以下のような道理であった。加賀藩は諸大名中で最大、百万石を越える大国であり、しかも徳川にとっては外様である。その上、豊臣家とも縁が濃かった。公儀としては、機会さえあれば取り潰したいと思っているであろう。それを避け、わが藩が生き延びるためには、阿呆を装ってでも江戸の警戒を解き、「取り潰すほどのこともない」と思わせることが必要なのだ・・・

 

「わしはこの鼻毛で百万石を守っているのだ」

 

主君の言葉に、家来達はいたく感じ入ったという。

 

他にも、この人の「幕府を安心させ、加賀藩を守る為に装った阿呆の振り」に関するエピソードは、数多くある。二、三挙げておこう。

 

ある年、参勤交代の時、利常は日坂ノ宿で名物のわらび餅を食した。それがあまりに美味であったので、「作ったのは誰か」と訊ねたところ、地元の七十歳くらいの老婆であるという。殿様、手をうって大喜び。行列の長持に毛氈を敷いてその上に老婆を乗せ、飾り物のようにして街道を下った(運ばれる方はさぞかし困惑したであろう)。あとで白銀二十枚を与えて帰したが、このことは江戸でも評判になった。「あの様子では国許でどれほどの贅沢をしておることか、軍備などとても考えられまい」というわけである。

 

またあるとき。しばらく病気で臥せっていた後、久しぶりに江戸城へ出仕した利常を老中・酒井讃岐守が呼びとめ、欠勤をとがめた。すると利常、いきなり袴をたくしあげて(検閲削除)をさらけだし、こう言った。「実は疝気の虫をわずらいましてな。ここが腫れて痛みに歩くこともできず、やむなく出仕を控えておりました」(個人的な診断では実際は精巣水腫か、精索捻転症もしくは急性精巣炎であったろうと思う)

 

・・・もし、本当にこれら全てが公儀を油断させる為、耐えがたきを耐えてやったものだとしたら、まったく涙ぐましいまでの努力である。もっとも私はそれだけが全てではない気がするのだけれども(これについては後で述べる)。

 

 無論、この人が本物の馬鹿だったなどというつもりはない。彼の君主としての実績を見れば、そんなことはとても言えないのだ。たとえば利常の行政家として業績には以下のようなものがある。「改作法」と呼ばれる農政の改革(年貢をそれまでの藩士が各々の領地から恣意的に集めるやり方から、藩が直接、一律に集めるやり方に切り替えた)、辰巳用水や常願寺用水の掘削整備といった土木工事、さらに特筆すべきは一連の「加賀ルネサンス」と称される文化政策であろう。茶道では小堀遠州、刀剣では本阿弥光悦、能では金春・宝生の両太夫、絵画では俵屋宗達、狩野探幽といった当時の一流の文化人たちを加賀に呼び寄せてそのパトロンとなった。駐日大使となったイタリアのある外交官は同時代のフィレンツェの領主でレオナルド・ダ・ビンチやミケランジェロ、ボッティチェルリなどのパトロンとなり、ルネサンスの立役者となった「豪華王」、ロレンツォ・ディ・メディチを引き合いに出して、「マエダは日本のメディチだ」と評したらしい。

 

また数多くの王朝文化の書籍、典籍を収集し、後に新井白石に「加賀は天下の書府なり」と言わしむる基礎を作った。殿舎や庭園の修築、社寺建築や造営は加賀の内部に留まらず、たとえば京都の桂離宮なども利常が造営のスポンサーになっている。九谷焼や加賀友禅、蒔絵、金箔といった今も残る伝統工芸の多くや和菓子なども、この時代に始まった物が多い。書物を収集するときも、職人に試作品を作らせるときも、建築を行なうときもそうだが、利常の口癖は「後々の世まで残る、一流の物を。金は一切惜しむな」というものであったという。この百万石の三代目は、富や文化というものの本当の意味での価値を知る、本物の貴族だったに違いない。そして彼の望んだとおり、彼の業績は後々の世まで残ったのである。

 

 また彼は文化にうつつを抜かしていると見せて幕府の警戒を解こうとする一方で、いざという時の為の備えも怠りなかった。彼の造営した寺の多くのつくりは万が一外敵に攻められたときにはそのまま城砦となるようにできており、屋根瓦は溶かして弾丸にできるよう鉛で葺いてあったり、周囲の田圃に水を引けばそのまま堀になるなどの工夫が施されていた。その極めつけが金沢の通称「忍者寺」こと妙立寺である。外観は二階建てだが、内部は四階建て七層にもなっている(当時は三階以上の建築物は幕命で禁じられていた)、堂内は迷路のようになっていて、抜け穴や隠し階段まである。中二階、中々二階など複雑な構造の中に、部屋数が23、階段数が29もあり、最上階の物見台ともとれる望楼は各方面を遠望でき、大井戸は金沢城への抜け道になっているといわれる。また幕府によって町民に武芸を教えることが禁じられた為、伝統芸能の獅子舞に形を変えて剣術を伝承させたという。無論これらの備えも、あらゆる手を尽くして戦争を避けるための手をうった上でのことだ。彼の奥方の珠姫も徳川家の二代将軍、秀忠の娘だが、その息子の光高の嫁にも水戸徳川家の娘で三代将軍家光の養女を迎えている(これは当時かけられていた謀反の疑いへの対処の意味があったらしい)。またこれは利常の代ではないが江戸時代の中期、仙台の伊達から「毛利、伊達、前田の三国同盟で、徳川を倒そう」という話が持ちかけられたことがあったという。前田家ではこの使者をその場で斬り捨て、何食わぬ顔をし続けた。

 

 利常という人はその業績や言行の記録を見る限り、実に複雑で興味深い性格の持ち主であったように思われる。中でも私が最もこの人物の凄みを感じたのは、次のようなエピソードを見たときだった。彼の息子で四代藩主となる光高は徳川家康の曾孫にあたり、そういう訳で、家康を祀る東照宮を金沢城内に造った。それに対して、利常はかんかんになって怒り、こう言った。「何で東照宮などを金沢城内に造るのだ。大きい声では言えぬが、いつ時代が変わるやもしれぬではないか。徳川の世がいつ引っ繰り返るかしれたものではない。それなのに、徳川家の特に家康を祀る建物を城内に造るなど言語道断だ!」

 

 他にも、例えば次のような言葉が残っている。利常が江戸城に詰めていたとき、出入りの者が「他の殿様方は皆争って将軍家の真似をしておりますが、前田家ではなぜそれをなさらぬのですか?」と訊ねた。応えていわく、

「家のしきたりはそれぞれの伝統によるべきもの、それが自然で無理がない。いま、何ごとも徳川風にする風潮はにがにがしき限りである」

 

また「天下の者どもは公のことを難しいお人と申しており、老中どもも油断のならぬお人だと思っているようでございます」

「もっともなことだ。公儀においては大名には油断されぬがよろしかろう」

 

あるとき伊達政宗が利常を招いたとき、政宗茶碗と呼ばれる秘蔵の茶碗を、茶を入れたのでは面白くないし、出さねば惜しんでいるようでなお悪いといろいろ考えた末、灰皿として出すことにし、そのことをこっそり相伴のものから伝えさせた。利常は、「ご懇(ねんごろ)なご歓待」と言いつつ、茶碗のふちで容赦なくキセルの灰を叩き落とし、人々はハラハラしたとか・・・

 

(続く)