抜き書き言葉集

あらゆる書物や映画その他から、自分の心に残った言葉を集めてみました。

 

一月生まれ、ならびに二月生まれのみなさん、お誕生日おめでとうございます。霜と寒さがあなたを避けて通りますように。

 

柳川房彦マスター

「NG90ますたぁふぁいる」

 



 

「性根」

嘉兵衛は、顔をあげた。性根といわれてだまっていられない。

性根とは基本的な倫理観という意味である。人間はその焙烙のように本来もろいものを一個ずつ抱いて生きてゆくというのに、その底が割れたといわれてはこのさき人なかにまじってゆけないではないか。

「性根は、ございます。それとこれとはべつのことでございます」

 

「菜の花の沖」司馬遼太郎



 

この経験は、嘉兵衛の生涯に影響した。

こちらが裸の人間としての尊厳をもちさえすれば、相手も身分制や立場の衣装をぬいで裸にならざるをえないという人間関係の初等力学のようなものが、嘉兵衛の腑の中に棲みついた。

――むろん、相手をも、裸の人間として頭の髪から足指の爪先まで尊重するのだ。

ということは後年、嘉兵衛にもわかってくる。

 

「菜の花の沖」司馬遼太郎

 



 

(人は、大人になると、子供のころより劣ってしまうのではないか)

と思うこともある。

子供がもっている好奇心や物事に無我夢中になる心を大人になっても多量に残している人間がすくないのではないか、と嘉兵衛は、薄ぼんやりとしたイメージながら思っている。

しかし子供が大人より決定的に劣っているところはある。子供は衝動的で、志をもたないということである。(中略)

童心を去るとは、どうやら社会の縦横の関係のなかでの自分の位置を思いさだめ、分際をまもり、身を慎み、いわば分別くさくなれということらしいが、嘉兵衛のなかでの大人はそういうものではなく、自分の世界をつくりだす者といったことのようでもある。

このことについての嘉兵衛の思案はまだ十分整理されていないが、たとえば、かれに意味なく圧迫を加えた西宮御番所の同心と放免は単なる大人であろう。あの同心は縦なる権力を笠に着、市中の者に威を示し、あの放免は同心の威を笠にきていやがらせをしたり金をせびったりする。

つまりは何か大きなものの奴隷で、そうでない同心もいるにせよ、すくなくともあの男も放免も自身の世界を創りだした者ではあるまい。  

「わしは、船と海がやっとわかりはじめてきた」

と、嘉兵衛はいった。

船は、海に浮かんでいる一片の板切れにすぎない、ということである。この板切れの上に、陸の世間とはちがう別の世界を自分なりに自分の手で作り出せるのではないか、ということであった。

それへ至る基礎は、まずすぐれた船乗りにならねばならないということであった。嘉兵衛はそのことを今度の航海で、槌で釘の頭を叩くような確かさで考えるようになった。

 

「菜の花の沖」司馬遼太郎



 

 

他人の言葉よりも己の心を信じて、善意で私と接した者、失敗を恐れぬ者よ。
それが、勇気と誇り。そなたは勇気。
必要ならば人のために火に飛び込む決意。
必要ならば世界を敵に回す善意。
力の大小ではない。我らが我らたる理由。

胸を張れ。我らは誇り。誇りこそ我ら。
どの法を守るも我が決め、誰の許しも乞わぬ。
私の主は私のみ。文句があるなら戦おう。
それが私の生き方だ。

 

芝村舞

「ガンパレードマーチ」

アルファシステム

 



 

皆は忘れたが、我らは知っている。
世界は何人もの名のなきヒーロー達によって、いつも最後の一線を潜り抜けて来たと。
次は我らの番だ。
我らは、ヒーローではないかも知れん。その代役も果たせぬかもしれぬ。だが、最悪でも時間稼ぎにはなろう。
本物が現れるその時まで、人を守って戦おう。別に人々のためではない。
我らは、人に甘えるのは好かぬ。それだけだ。
誇りこそ我ら。我らこそ誇り。
借りは必ず返す。我らは決めたのだ。あの男の手を取ったその時に。
泣くのはやめた。戦おうと。

芝村舞

「ガンパレードマーチ」

アルファシステム

 



 

「結論を申し上げましょうか。早い話がですね、我々とハルカ様の立場には毛ほどの違いもなく、奉仕隷属強制命令したりされたりするくらいなら死んだほうがマシであり、つまるところがアイザック・アシモフはクソして寝ろってわけですよ。我々は、我々自身の意志を肯定するように、ハルカ様の意志も肯定します。ロボットであるか人間であるかに関係なく、同じ思考する物体として、どこまでも対等の存在として、我々はハルカ様の意志と行為を肯定します」

 

「鉄コミュニケイション」秋山瑞人

 



 

商品というものは、人間に、物事を数量でとらえることを教え、また物事には質というものがあることを教えた。人間がもし自給自足だけの農村にいるとすれば、数量も質も考えない。物事を数量と質でとらえるというのは、認識ということなのである。物事を認識するというのは、書物によって教えられるのではなく、商品経済の社会で自然に身につけてゆくことなのである。(中略)

数量としての商品、あるいは質としての商品の流れは、人事がくっついている。人間と人間の関係もわかるようになった。そういうことも、人間に認識力を育てる。

――たとえば、あれには、あれで事情があるのだ。

という認識力は、学問では教えられない。いうまでもないことだが、この当時の学問は社会人という人間の規範を教えるもので、科学ではない。そういう学問を、商品経済のない農村でやる場合、多様な価値観がないために、感情のみが激烈にならざるをえない。

 

「菜の花の沖」司馬遼太郎

  



 

「いやな人間ですな」

店を出るなり、文五郎がこぼした。文五郎とは、その男が兵庫の市にきたときに顔をあわせるだけの縁であったが、そういう場合、男のほうに、兵庫という他所の土を踏んでいるという気おくれがあるのか、不必要なほどに頭をさげて作り笑いなどもしているのである。(略)

「商人の半分は、ああいうぐあいでしょう」

嘉兵衛は、いった。自分の領域に人がたずねてくると、変に態度が大きくなるのである。訪ねてきた側がもし物を売ろうとする場合、さんざんに買いたたかれてしまう。

「ああいう人は、普通(つね)というのがないようですな」

嘉兵衛は、いった。毎日、尊大と卑屈のあいだを上下するばかりで、恒常心で暮らしていない、ということであった。(中略)

「それは、どういうわけでしょう」

「人間の屑だからです」

文五郎が気づくと、いつのまにか、嘉兵衛の顔が真っ赤になっていた。人間関係の諸現象のなかで、なにかを恃んで威張りかえっているやつほど、嘉兵衛のきらいなものはない。

「菜の花の沖」司馬遼太郎



 

 

嘉兵衛は、商業こそ正義であるとは決しておもわない。しかし、それが世の姿であると平明におもっている。嘉兵衛と同時代の思想家に山県蟠桃がいるが、かれが大坂の商家升屋の番頭をつとめつつ、身近な者に経済論を説き、無神論を語り、地動説を唱えたりしていることも、嘉兵衛は耳にしている。

「世の中は、売ルと買ウとで成り立っている」

と、蟠桃はいう。農民や商人だけでなく、大名もまた国産を売る。売る物をもたない微賎の武家奉公である中間もまた自分の働きを売る。売った金で食物を買い、衣類を買う。

嘉兵衛はそういう世の中を思想として是認しているわけではないが、十分に認識している。世の中がそうであるのに、封建制というものは表向きそうであるとは認めたがらない。

封建制のしんは、相互儀礼というものではなく、上下儀礼である。どういう場合でも貴賎で人を量り、互敬ということがない。

嘉兵衛は、二十歳前後のころ、

――洲本は化物の巣窟じゃ。

と、ひとにもよくいった。洲本城下ではすみずみにまで身分関係が組みあげられていて、ひとびとは寸秒といえども自他の尊卑を量ることを忘れず、他者と出会えば、威張るか卑屈になるか、上下儀礼をくりかえして生涯をすごす。(略)

「物は、まわっているのです」

と、嘉兵衛はいう。(中略)売ルと買ウは循環しており、この循環ははるか唐土や和蘭陀までひろがる。礼は上下ではなく相互であるべきなのに、靭の問屋の番頭がわれら船頭に威張るというのは成り立たぬことだ、と嘉兵衛はいった。

 

「菜の花の沖」司馬遼太郎



 

 

世論というのは、都合よくできている。

――フヴォストフ大尉に乱暴されたから、日本がゴローニンをつかまえたのも、むりはない。というようには、世論というものはなって来ないのである。

日本人が、自分がうけた被害を拡大して感情世論を形成しているように、ペトロパヴロフスクのロシア人も、自分の側の痛みを拡大して世論をつくっていた。 

「菜の花の沖」司馬遼太郎

 



 

(なんと、ロシアという国は、ばかなことを考えるものだ)

嘉兵衛は、胆まで冷えこむようなおそれとともに、衝撃を受けた。

国家も生きものであるとすれば、ロシアという国は、元来、他国の感情や立場にきわめて鈍感な国であるかのようである。

(日本という国に、感情も立場もない、と思っているのか)

と、嘉兵衛は、悲鳴をあげたかった。

五隻もの艦隊が、渺としたクナシリ島にやってきて、日本国に威圧をあたえてゴローニン問題を解決しようとなると、日本は極度に硬化してしまう。

ゴローニン問題などけし飛んでしまって、国をあげての決戦態勢をとるかもしれないのである。

「菜の花の沖」司馬遼太郎



 

嘉兵衛は、日本政府を愚かしく思った。ロシアであれ他の外国であれ、幕府はそれと接触するのに、おそれやあなどりといった無用の感情を持ちすぎる。日本も国家なら、相手も堂々たる国家ではないか。その使者は自国を愛し、自国のためには命もすてるという者たちである。そういう相手の立場を、単に、

――異人である。

という一個の観念のもとに切りすててことさらに無神経になろうとしているのが、幕吏であった。かつてのレザノフ来航のときもそうで、レザノフに持たせる必要のない屈辱とうらみを持たせてしまい、その結果、羽子板のはねが幾度か往きかえりするうちに、嘉兵衛がロシアに連れてゆかれるはめになった。

(まだやっているのか)

という口惜しさと情けなさが、嘉兵衛にあった。

(みな、国内〈うち〉を見ているだけなのだ)

と、思った。ロシアにすげなくすることが、日本の勇ましさであるとかれらは思っている。そうすれば上司がよろこび、江戸の有志の世論も満足する。

(御役人衆には申しわけないが、御歴々は要するに内弁慶どものあつまりなのだ)

嘉兵衛は、なんと腰抜けか、勇ましさを気取り、かつは世間に媚びているだけだ、と思った。

「菜の花の沖」司馬遼太郎

 



 

『無知が罪だなどというのは、ほんのひと握りの、衣食が足りている者の言い草でな。それ以外の多くの者はトルクの高度も軌道速度も知らんし、そもそもそんなことは普段考えもせんじゃろう。なぜなら、誰もがそれぞれにやるべきことを山ほど抱えておるからだ。ネズミを獲ったり、金を稼いだり、子供の面倒をみたり。生きてくのに必死だ。余計なことに頭をひねるヒマなど、ない方が当たり前なんじゃよ。考える時間もない、これまでに考える練習をしたこともない、そうした者達に恐ろしい事実を突きつけて何になる?』

『――説明すればいいだろ、理解できるように』

『ぬしは、トルクのすべての猫が、その説明を受け入れられると思うのか?』

焔は、答えられなかった。

『一対一の話し合いであれば、あるいは、説明で事足りることもあろう。しかしな、相手が集団となると話は違う。一の知恵を持つ猫が十匹集まったとき、その集団としての知恵は決して十には届かんものなのだ。この落差は、集団が大きければ大きいほど激しいものになる。舵がきかんようになる。下手な方向に動き始めてしまっても取り返しはつかん。(略)考え違いをするでないぞ、わしも、ぬしも、その誰かも、他の者たちが懸命になって社会を動かしてくれているからこそ、そこに寄りかかって生きていくことができる。わしらに少しだけ余計に物が見えておるのは、他の誰かがその分だけ盲ておるということなのだ。自分でネズミを獲らんでもわしらの食う分はそこにある。わしらはネズミを自分で獲る手間が省けてヒマができる。そのヒマから物は見えてくる。じゃが、わしらが食ったそのネズミを獲ってきてくれたのは、誰じゃ?』

 

「猫の地球儀 焔の章」

秋山瑞人 



 

『――だけど、夢を持つのは勝手だろ。夢を持つだけなら誰も怖がったりしないだろ。誰もいないところでこっそり夢に浸ったり、夢を実現しようとして何かするのは自由だろ。それでも駄目だってのか?』

『それができれば苦労はせんのだ』

坊主は、笑わない。

『昔な、スカイウォーカーと呼ばれる者たちがいた。ぬしが先ほど言ったような、そういうことを達成しようとした連中だ』

坊主は、どこまでも笑わない。

『昔は、今よりも悪い時代だった。そういう突拍子もない夢を抱くことが逃げだというつもりはない。程度の差はあれ、誰しもそうやって自分の心を守るしかないのだからな。スカイウォーカーは大集会に滅ぼされたように言われておるが、時代が良くなるにつれて、そういう夢を抱くものが現われなくなったというのも事実なんじゃ。もちろん、今のトルクが理想の世界だとは言わんよ。だから、そういう輩が再び現われることもあるやもしれん。ぬしの言う通り、すべてを腹の中に収めておけるというなら構わん。だがな、それはできんのだ。あまりにも大きすぎる夢を抱いた者は、そのうちに、周囲に対して必ずこう言い出す。

自分を理解してくれ。

自分の夢を理解してくれ。

自分の夢に手を貸してくれ。

すごいと言ってくれ。

土を盛って山を造れば、どこかに必ず穴ができるのだ。そもそも、そやつがそんな夢を抱くことができたのは、そんな夢も抱かずに額に汗している多くの者たちがいてこそなのだ。周囲の無理解はむしろ当然の反応にすぎん。しかし、そやつにはもはやそのことが理解できん。「我こそは大志を抱きし覚者である」式の孤独な優越感が芽生え、いつまでも無知な周囲の者たちを見下し、ついには憎むようになる。そして、いずれ具体的な行動に出る』

 

「猫の地球儀 焔の章」

秋山瑞人 



 

『やっぱあのクソ坊主の言う通りかもな。スカイウォーカーなんてみんなぶち殺しちまった方が世のためだ。今のトルクにはお前らを飼っとく場所はどこにもないんだよ。経緯はどうあれ、お前らは世の中からつまはじきにされた連中の集まりで、だからみんなが見向きもしなかったものにあえてしがみついてるんだ。そういう奴らはヤバい。そういう奴らを放っとくと群れを作るからな。必ずだ。いつまでたっても少数派のお前らは、仲間同士で集まって「おれたちはやっぱり正しいよな」って確認し合う必要があるのさ。後はお決まりのパターンで、お前らの考え方はどんどん先鋭化していく。大義の前には誰の命だろうと芥の如し。気に食わねえ敵は暗殺して、気に食わねえ仲間は粛正して、最後には「ロケット万歳」なんて叫びながら紫禁の箱城に突撃ススメだ』

 

「猫の地球儀 幽の章」

秋山瑞人 



 

 

『いいか、地球儀に行ければそれでいいってお前は言うけどな、それはお前にとってしか価値のない目標だ。つまり、夢やロマンの類だ。お前の胸にあふれてるってやつさ。お前は、自分の夢には普遍的な価値があると思ってるだろう。だがな、それは違うぞ。夢なんてな、興味のない奴から見れば鼻クソほどの価値もありゃしねえ。トルクで一番の食い物屋を目指してるオヤジの夢が、お前にとっては目クソほどの価値もねえようにな。夢のためなんだからこのくらいはいいだろう、お前はそう考えて誰かに迷惑をかける。だが、迷惑かけられたその誰かにしてみりゃ、耳クソのためなんだからこのくらいはいいだろう、って言われたのと同じだ』

 

「猫の地球儀 幽の章」

秋山瑞人 

 



 

つまり、ほんとうの友情というのは、個人的なものでしかないということだ。集団の気分などには関係なく、二人の個人的関係をもとにして築かれたものである。友達を愛するのは、相手が愛情をしめしてくれた、必要なときに助けてくれた、打ち明け話を聞いてくれた、秘密を守ってくれた、といった事情があるからだ。人間的な価値や資質や美徳のあかしをしめしてくれたからである。相手を愛するのは、だれか他人がそうきめて、二人の手をむすばせ、操作したからではない。こちらが相手を信じるからだ。相手もこちらを信じるとすれば、それは相手が自発的にそうするからで、他人に指示されるからではない。

そんなわけで、個人的友情と政治的友情とはまったくちがう。われわれはふつう、自分が属している社会的政治的範囲から、個人的な友達も選ぶ。しかし深い政治的な亀裂が生まれると、友達も兄弟もおたがいに離れて、他人同士、敵同士になってしまう。政治的立場はさておいて関係を保ちつづけ、相手のなかに、思想や政党の影を背負ったイメージではなく、ひとりの人間を見ることのできる人は数少ない。 

 

「戦う勇気、退く勇気」

フランチェスコ・アルベローニ



 

友よ、私はつねに、人間はだれにでも暴力的なところがあるものだと認める少数派に、理があると思ってきた。憎悪は聖典にもふつうの本にもひとしくあらわれている。だから甘い幻想はもてない。しかしだからといって、そういうものかとうなずくわけにもいかない。(中略)われわれ一人ひとりはまるで、外国に来た移民のようにして社会のなかに生きているのだ。言葉もわからず、その国の人たちの活動に深くかかわることもできなかったら、どうやって暮らしたものだろう。だれかが微笑んでくれはしないか、やさしく辛抱強くつきあってくれる人はいないだろうか、と思いながら周囲の人々の顔を眺める。そのうちに、そういう人に出会うとうれしくなり、感謝したくなる。大多数の人たちは冷たく、思いやりがなく、つっけんどんなのは知っている。しかしよい人がいることも知っていて、だれもがいつかは友達になってくれそうな気がする。なぜならどんな人でも、たとえ罪を犯した人でも、乱暴にはちがいないが、ときにはやさしく穏やかになることもあるからだ。われわれが頼りにしたいのはそういう人たちであり、善良さがあらわれたそういう瞬間なのだ。

われわれは移民や浮浪者やほどこしを乞う貧者のように、そのひとかけらの善意にすがり、そのほかの部分は避けようとする。よきものだけを集め、悪意に出会っても、それはどこにでもあることを知っているから驚かない。たった一度の政治的対決、ひとつの法律、一回の戦争で、社会がよくなるだろうとも考えない。われわれ自身が社会を救えるとも思わない。われわれはただ、暮らしている場所の居心地をよくし、周囲の人たちがより快適に暮らせるように、偏見をもたないで、他人の手助けをしようとするだけだ。

だから私は、だれかに挑戦されても応じない。応じたら、剣をとり、人を殺し、私まで勇気ある英雄だと自負するようになってしまうだろう。これは勇気ではない。勇気というのは、悪意ある社会に立ち向かわなければならないことを知りながらベッドを出て、見返りなどを期待せずにだれかにちょっと手を貸すために、精神を晴朗に保っておくことなのだ。

 

「戦う勇気、退く勇気」

フランチェスコ・アルベローニ



 

うぬぼれ屋は、もってもいない力をもっているつもりになり、自分をひじょうに高く評価する。他人のことなど眼中になく、他人がどう感じようと考えようと頓着しない。彼らは話し方からしてすでに尊大で、他人を圧迫するように声高に話す。よその家を訪ねれば、まるで戦車のように堂々と敷居をまたぐ。目障りで不愉快なことこのうえない。できないことまでできるような言い方をするから、信頼感も薄れてしまう。しかしときには、悲壮な人物に見えることもある。善意とやる気にあふれているのに、誤りを犯しても、直すことができないからだ。

尊大なうぬぼれ屋は、権力を手に入れないうちは、危険というよりいらいらさせるが、いったん力を手にすると状況は一変する。できもしないことをできると確信するから、とてつもないことを計画し、とんでもない命令を発し、まちがえてもそれを認めない。高慢だから他人の批評に耳を貸さず、能力ある人が手助けしようとしても振り払い、失敗の責任を他人に負わせ、しまいには自分の周囲に、息もつけないような張りつめた空気を生んでしまう。

彼らは権力の座に昇ってだれからも制御されなくなると、じつに危険な存在になる。民主主義社会の政治家は選挙で選ばれるから、かなりまずいことをすれば、追放の憂き目を見る。しかし官僚や官庁の職員、司法官などの地位にある人は、選挙で選ばれるわけではないから、一生その地位を保証される。官庁というのは必要で、役人の大方は偏見のない正直な人たちだ。(略)しかし、なかには例外がいる。権力を手にした役人が、自分の部署であたかも帝王のようにふんぞり返っていることがある。彼らにとって市民というのは虫けらみたいなものだ。虫けらは黙って頭を下げるだけで何も言わない。なぜなら書類や判をもっているのは権力者で、あることを許可するもしないも、ある事業を成功させるも失敗させるも、彼らしだいだからである。

 

「戦う勇気、退く勇気」

フランチェスコ・アルベローニ



 

われわれのもっとも根深い思いこみ、つまり、思考や感情を深いところから形成するものは、自分の仲間として愛する集団から、われわれのなかに自然と染みこむ。その集団が宗教にかかわるものか、政治、民族、文化にかかわるものかの区別はない。親や友達と自分を同一視することによって、長い年月のうちに形成されかたまってしまう。集団の歴史に加わり、勝利を喜び敗北を悲しむうちに根づいてしまう。仲間なら、その人を知らなくても親しみを覚え、敵方の人間なら憎しみを抱く。

ほかの集団の人たちとよい人間関係をむすび、親しい仲になることはもちろんできる。けれども、相手を批判したり変えようとしたりしなければ、という制限がつく。無神論者とカトリック教徒もいい友達にはなれるが、宗教の話になると対立してしまう。自分にとって自明の理であることを相手が理解しなければ、それは認めがたいことだからだ。

(略)殺すのはいつも個人だが、その個人をけしかけるのは、個人を道具として利用する集団なのだ。

この集団の力は、通常の政治活動でもものをいう。政治は戦いだ。党派は相対する軍隊で、党員は党派と自分を一体化する。どの党も対立する党を倒そうとやっきになる。だから政治の場でも、表面の礼儀正しさの下で憎悪が渦を巻いている。政治家の言葉づかいはひどいものだ。ごろつき、悪党、ペテン師、ぬすっと。そして政界でも、個人が個人を説得するということはほとんどない。おたがいを知らない人たちの集まりで、だれかが政治的な判断を口に出すと、出席者の半数が腹を立てる。

われわれはだれでも、偏見からは逃れられない。だから、他人と衝突したり、会話を喧嘩に変えたりしないために、ある種の話題は避けるほうがいいと教えられてきた。しかしほんとうは、さらに一歩を進めるべきではないだろうか。相手をわれわれとは異質の人間にした歴史や経験に、思いをはせてみるのだ。そうすればたとえひとときでも、相手の立場でものを見ることができるかもしれない。それができれば、自分の立場は失わずに相手を理解し尊重することも、不可能ではないと思う。

 

「戦う勇気、退く勇気」

フランチェスコ・アルベローニ 



 

それはただの男だったが、剣を取った。
恋人が殺されたとか、妻が死んだとか、理由は色々言われたが、真実は違う。
ただ、人類の敵が気に入らなかっただけだ。
別に正義感が強かったわけではない。
だが、どうにも我慢できなかった。
ただ、弱者が死ぬのが我慢できなかった。
そして剣をとった。何度も負けたが、その度に立ち上がった。そして学んだ。
自分がなぜ、負けたかを。
そして、負けない為にはどうするかを考えた。
人に教わるのではなく、自分で考えた。
男には信念があった。自分が、最後だと。
自分の後ろには、他に民を守るは何もないと。
実際そうだったかどうか分からぬ。
だが、男は信じた。血を流し、戦うその中で。叫びながら、剣を握ってそう信じた。
言った言葉はただ一つ、弱者のために。
我らの祖先は彼を見て、ヒーローがなんであるかを学んだ。ヒーローは、血からも、魔法からも、科学からも生まれぬ。
ヒーローは、違う。
ヒーローは、ただの人間から生まれるのだ。
ヒーローは、ただの人間が、自分自身の力と意志で、血を吐きながら人を守る為に人でない何かに生まれ変わったものだ。

芝村舞

「ガンパレードマーチ」

アルファシステム



 

 

「一人の人生に疲れた女が居た。
 いいことなど、生まれて一度もない女だ。
 それはただの女だったが、だが、ある日、困っている人に手を差し伸べた。
 一人助けたら、次の人も助けを待っていた。
 次を助ければ、次が出た。
 適当なところで折り合いをつけて、やめればいいのに、文句と運命を呪いながら、ハイヒールのかかとを折って、髪振り乱し、歯をくいしばりながら他人のために走り、そして戦った。
 持った武器は、ただのシャーペンだった。
 だが、我らの祖先は思った。
 そやつはもはや、ただの女ではない。
 ヒーローだと。
 人生に疲れてもいなければ、迷いもない、その暇もない。
 本来人間が居るべきポジションに戻った、誰もがその勝利を願う人の中の人。
 人間の本懐たりえるヒーローだと。
 必要となれば、人は、ペン一本で、刺し、切り、罠を突破し、図を書き、そしてエンジンを爆発させることが出来る。
 核戦争を阻止し、化け物どもを倒し、名前も知らぬ子供のために、走る事が出来るのだ。」

芝村舞

「ガンパレードマーチ」

アルファシステム



 

 

 「むかしといまでないどこかがわかったのよ。
 それはみらいなの。
 いままでがんばろうって言ってきたのは、みらいをよぶためなのよ。
 いまが、そのときなのよ。
 むかしでもいまでもない、どこかにつながるところに、みんなでいくのよ。
 かなしみにめーするの!
 だれひとりしななくても、おはなしはおわるのよ。
 それが、せかいのせんたくなの。」
 のぞみは、大きくうなずいて声をあげた。
「もういちどたつのよ。
 たちなさい。
 なっちゃんをたすけるの。
 ばんぶつのせーれーがどうか、しらない。
 うんめーがどうだかわかんない。
 ぶとうがどうとか、きいてないっ。
 でも、あっちゃんは、たちあがるのよ。のぞみがそう決めたから。
 それが、せかいのせんたくなのよ。
 のぞみがきめたの。
 せかいは、良くなるのよ。ぜったいに。
 たちなさい!」

 

「ガンパレードマーチ」

アルファシステム



 

「僕は問う、僕のこの気持ちは、本物なのか」
「舞を、みんなを好きだという、この気持ちは」

“その答えは、YESである”

「僕は問う、僕の力は、僕の努力とやらは、人を幸せにできるのか」

“その答えは、YESである”

「他人の為に血を流す勇気を、僕はまだ持っているか」

“その答えは、YESである!”

 

速水厚志

「ガンパレードマーチ」

アルファシステム



 

 

人間関係(コネ)でつながる世の中でなく技術でつながる世の中を!

 

「ゴーマニズム宣言第7巻」

小林よしのり



 

 

技術の上に念をのせろ!届く言葉が人を動かす

 

「ゴーマニズム宣言第7巻」

小林よしのり



 

 

狂った男は最も技巧に富んだ男より危険だ 次に何をするか測る術がないからだ。

 

「沈黙の艦隊」かわぐちかいじ



 

お前らのやろうとしていることは虐殺だ!

正当な理由も信ずる理念も人間らしさのかけらもない!! 単なるコロシだ!!

そんな行為を人間が支持すると思うか 人間の支持がえられないということは 自らの国家の

国民の支持すらも得られぬということだ 滅びるのはお前らだ

正義とは何かを考えぬお前らだ!!

そんなに力を誇示したければコロスがいい

だが その虐殺で流された血はアメリカが滅亡しても歴史からは永久に消すことはできないんだ

アメリカにその度胸があるか!!

 「沈黙の艦隊」かわぐちかいじ



 

 あの巨大な国を莫大なエネルギーで作り上げた国民の大統領とはこんなセコイ人間か

そんなに自らの力を試す敵が欲しいか

こんなちっぽけな東洋の島国を説得するのに演説ではなく拳銃を片手に脅すような政治家か!!

お前らは一体朝鮮戦争やベトナムで何を学んだのだ

わからんのかミサイルを射たれた瞬間 死んだ乗員や残された私たちの中に何が芽生えたか!?

尊敬でも敬愛でもない まして恐怖でもないぞ 激しい怒りと憎しみと闘争心だけだ!

 「沈黙の艦隊」かわぐちかいじ

 

 

 


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