抜き書き言葉集

あらゆる書物や映画その他から、自分の心に残った言葉を集めてみました。

 

あくまでも忠実であることは、非難にも賞賛にも値しない。なぜならそれは、好みと感情という、人が自分から取り除くことも、自分に与えることもできないものの持続に過ぎないからだ。


「ラ・ロシュフーコー箴言集」






人は自分が他人の邪魔になるはずがないと信じこんでいる時、えてして他人の邪魔をしているものだ。


「ラ・ロシュフーコー箴言集」








私欲は諸悪の根源として非難されるが、善行のもととして誉められてよい場合もしばしばある。


「ラ・ロシュフーコー箴言集」








洞察力の最大の欠点は、的に達しないことではなく、その先まで行ってしまうことである。


「ラ・ロシュフーコー箴言集」








銃火を以て闘争を始める者に人間も非人間もあるものか 

彼らは来た!!殺し 打ち倒し 朽ち果てさせるために

殺されに 打ち倒されに 朽ち果てされるために 

それが全て!! 全てだ!!

闘争の契約だ!!

彼らは自らの弱いカードに自らの全てをかけた!!

そういう事だ!!

殺さなければならない!! それを違えることは出来ない

誰にも出来ない只一ツの理だ

神も 悪魔も 私も おまえも


アーカード

「ヘルシング」平野耕太








「他人の趣味に口を出すつもりはない。わたしの人生を脅かすものでない限り」

「つまりは、おまえ、正気か? そう問いたいわけだ」


南郷一之と永井景明

「地球連邦の興亡4 さらば地球の旗よ」佐藤大輔








「もうそんなベタな考え方はやめろ!!」

「・・・ベタ? ベタなどというな! 王道と呼べ!!」


松下吾朗と山本一番星

「妄想戦士ヤマモト」G・B・小野寺








「・・・あの〜〜 この人なんなんですか?」

「放送禁止用語です」


幽霊少女と松下吾朗

「妄想戦士ヤマモト」G・B・小野寺








「・・・俺にはわかる痛いほどに しかしこれほどわかってしまう自分がいやだ!!


松下吾朗

「妄想戦士ヤマモト」G・B・小野寺








「しかしヤス わしは一つだけサンタさんにプレゼントをもらったぞ」

「え?」

「思い出という名のプレゼントをな!」

「番長・・・・・・」

「ヤス最後にもう一言いってもいいか?」

「ヘイいくらでもどうぞ!」

「今のはまけおしみじゃ!!」


番長とヤス

「純愛番長」G・B・小野寺








国事を論ずる人間の大部分は、相手の言うことよりは自分の言いたいことの方に気をとられる。自分の考えで頭が一杯なので、ひとに聞かせることしか考えない。今度は自分が聞く番にさせてもらおうなどと、自分の方から言うことはまずありえない。


カリエール

「外交談判法」








「自立した個人は他者との妥協によって成立した調和ならば受け入れる。けして隷属は望まない」


南郷一之

「地球連邦の興亡4 さらば地球の旗よ」








 すなわち、社交性とは、いろいろ異なる個々人に接した場合、如才なく振舞いうることであるが、一体感を目標としている集団内部にあっては、個人は同じ鋳型にはめられているようなもので、好むと好まざるとにかかわらず接触を余儀なくさせられ、個人は、集団の目的、意図に、よりかなっていれば社会的安定性が得られるのであり、仲間は知りつくしているのであり、社交などというものの機能的存在価値はあまり無いのである。
 同様に「他流試合」の楽しさとか、きびしさもなく一生を終わってしまうというおおぜいの人間が生産される。個性とか個人というものは埋没されないまでも、少なくとも、発展する可能性はきわめて低くなっている。


「タテ社会の人間関係〜単一社会の理論」

中根千枝

 




 エモーショナルな全面的な個々人の集団参加を基盤として強調され、また強要される集団の一体感というものは、それ自体閉ざされた世界を形成し、強い孤立性を結果するものである。ここに必然的に、家風とか社風というものが醸成される。そして、これはまた、集団結束、一体感をもり立てる旗印となって強調され、いっそう集団化が促進される。
 一体感によって養成される枠の強固さ、集団の孤立性は、同時に、枠の外にある同一資格者の間に溝をつくり、一方、枠の中にある資格の異なる者の間の距離をちぢめ、資格による同類集団の機能を麻痺させる役割をなす。すなわち、こうした社会組織にあっては、社会に安定性があればあるほど同類意識は希薄となり、一方「ウチの者」「ヨソ者」の差別意識が正面に打ち出されてくる。
 「ウチ」「ヨソ」の意識が強く、この感覚が尖鋭化してくると、まるで「ウチ」の者意外は人間ではなくなってしまうと思えるほどの極端な人間関係のコントラストが、同じ社会に見られるようになる。知らない人だったら、つきとばして席を獲得したその同じ人が、親しい知人(特に職場で自分より上の)に対しては、自分がどんなに疲れていても席を譲るといった滑稽な姿がみられるのである。
 実際、日本人は仲間といっしょにグループでいるとき、他の人々に対して実に冷たい態度をとる。相手が自分たちより劣勢であると思われる場合には、特にそれが優越感に似たものとなり「ヨソ者」に対する非礼が大っぴらになるのが常である。


「タテ社会の人間関係〜単一社会の理論」

中根千枝

 




 異集団の調整はなぜ困難であるか

 x集団においては、内部の「意見一致」ということは、前に述べたように、速やかに、そして容易に達しうるが、異なる集団間においては至難の業である。
 両集団を結ぶ「タテ」の線の無い場合には、どちらも各々の集団の利益を最大限に主張するばかりで、その折衝において、調整の作用が全然働かず、また、各々の代表またはリーダーが、自己の集団の利益を多少譲歩して調整をしようという客観的立場に立ちにくいということは、彼らが構造的に他の成員によってつき上げられやすい、という点にもある。
 リーダーのレーゾンデートルは、折衝の成功にあるよりも、集団の利益を最大限に標榜し、集団成員の意を十分受け止めることであって、もしこれに失敗すれば、自分自身が危くなる、という立場におかれている。
 実にここに、異なる集団の意見統一の困難さが存在するのである。「タテ」の折衝は、ある意味で単純に帰着しすぎるのであるが、「ヨコ」の折衝がこのように非常に困難であるということは、x集団構造を持つ社会においては、「ヨコ」に働くメカニズムが不在で、もしあったとしても、それが機能をもちえないということがいえよう。
 これは同時に、「タテ」の折衝においても、「ヨコ」の折衝においても、実は「論理」というものが、重要視されていない、ということが指摘できる。論理に代わって、ここに出ているのは「力関係」である。


「タテ社会の人間関係〜単一社会の理論」

中根千枝

 




 このあまりにも人間的な――人と人との関係を何よりも優先する――価値観をもつ社会は宗教的ではなく、道徳的である。すなわち、対人関係が自己を位置づける尺度となり、自己の思考を導くのである。
 「みんながこういっているから」「他人がこうするから」「みんながこうしろというから」ということによって、自己の考え・行動にオリエンテーションが与えられ、また一方、「こうしたことはすべきではない」「そう考えるのは間違っている」「その考えは古い」というような表現によって、他人の考え・行動を規制する。
 このような方式は、常に、その反論に対して、何ら論理的、宗教的位置づけがなく、もしそれらの発言を支えるものがあるとすれば、それは「社会の人々がそう考えている」ということである。すなわち、社会的強制である。社会の道徳とは、修身の本にあるのではなく、いうまでもなく、この社会的強制である。したがって、その社会がおかれた条件によって、善悪の判断は変わりうるものであり、宗教が基本的な意味で絶対性を前提としているのに対して、道徳は相対的なものである。(中略)
 この社会的強制は、日本社会という大きなものより、小集団におけるほど密度が高くなる。
 一定の集団が他のものと接し、話し合いをするような場合に、誰もが口にするのは、「我々の意見をまず統一しておかねば」ということである。集団の結束がかたく、機能が高いほど、集団の個人に対する社会的強制は強くなる。いいかえれば、それだけ個人の自由な思考、行動を規制してくるのである。
 こうしたたえざる運動の結果、一定の集団の構成員のパーソナリティが非常に似てくるという現象がみられ(この集団構成に耐えられない個人は長い間には結局脱落したりする)、また、似たようなパーソナリティの人々が集団を構成するという現象が見られる。

「タテ社会の人間関係〜単一社会の理論」

中根千枝

 




 論理を容易に無視するこの相対的価値観は、現実の日本人の人と人との関係、やりとりに如実に発揮されている。そして、特に知的な活動において致命的な欠陥を暴露するのである。その最もよい例の一つは、日本人による「批評」の確立の困難さであろう。(中略)
 作品自体について論じているのに、ちょっとほめると、「あいつはオレに好感をもっている」ととられ、ちょっとけなすと、「あいつはケシカラン奴だ」とくる。作品をとびこえて、人対人の直接の感情的出来事になってしまう。
 また、ごく少数の(これは雨夜の星ぐらいの割合だが)ものを除いて、評論家、書評者のほうでも、往々にして感情的文句を弄しているのが常である。「これは気に入った」だの、「著者の問題意識を疑う」だの、「著者はまだ苦労が足りない」とか、「著者の周囲の人々がどうだ」などと、作品外の著者の態度とか人(パーソナリティ)にまで及ぶと同時に、自分の感情投入をさかんに行う。書評というもののスタイル・内容が、著者との人間関係で決まってしまうことが多い。
 はっきりいうと、知らない人のもの、自分と反対に立つ人のものに対しては、悪評をするが、知人や仲間、特に先輩のものに対しては、必ずといっていいくらいにほめている。そして、往々にして(筆者などもついそうなってしまうのだが)、本当に作品の弱点をついたのちに起こる、いまわしい、パーソナルな感情攻撃をされることを考えると、ついおざなりのことを書いてお茶をにごしてしまいたくなるのである。(中略)書評の信頼度が異常に低いということである。


「タテ社会の人間関係〜単一社会の理論」

中根千枝

 




 論争が行なわれ、どちらかが、ゆずらなければ事が運ばないような場合、一方の主張がとおり、一方が譲歩する原因は、論争のテーマ自体でなく、他の社会的強制による場合が圧倒的に多い。
 したがって、譲歩した側には、いつも感情的欲求不満が残りやすく、また、これは第三者にとっては、不可解な決着が少なくない。論理による勝敗の決着にみられる、あのサバサバした気持ちには遠く及ばない。
 日本人の「話せる」とか「話ができる」という場合は、気が合っているか、一方が自分をある程度犠牲にして、相手に共鳴、あるいは同情をもつことが前提となる。すなわち、感情的合流を前提として、はじめて話ができるのであるから、お互いに相手について一定の感情的理解をもっていなくてはならない。


「タテ社会の人間関係〜単一社会の理論」

中根千枝






信頼は強制によって醸成されているものではない。人間に信頼を強いることはできない。

 

D・ウェブスター






「身勝手な友情は相手に迷惑をかける。しかし敬意は――節度ある敬意はけして迷惑にはならない、とわたしは信じている」

 

南郷一之

「地球連邦の興亡4 さらば地球の旗よ」佐藤大輔






おもしろい事を考えて みんなを楽しくさせたいな

打ち明け話にうなずいて みんなと仲良くなりたいな

どうか友達よ手をのばせ 僕ももう少しがんばるよ

人には歴史があるけれど 僕達生まれたばっかりだ

走り続けよう情けはいらぬ ながれものには惚れてはならぬ

闘う時には武器などいらぬ 愛する時には言葉はいらぬ

どうだ友達よ目を覚ませ 地球はグルグル回るんだ

恋人たちよ抱き合って 何があっても離れるな

ハイヨーまっすぐだ ハイヨー振り向くな

愛する事だけ考えて それでも誰かを傷つける

そんなあなたが大好きだ そんな友達が欲しかった

バイバイバイバイさようなら 会いたくなったらまた来いよ

言い訳なんかはいらないよ 会いたくなったらまた来いよ

 

ブルーハーツ「ながれもの」歌詞






妄想で自らを卑屈にすることなく、闘うべき相手とこそ戦いたい、そしてその後の調和にこそ安んじたいと願う私の気持ちをお伝えしたく、この筆をとりました。

 

梶井基次郎「橡の花―ある私信―」






皆は一人のために、一人は皆のために。

 

デュマ






僕は、矢張り、正義の観念の強い、意志の強い、信じることを行う人間が好きだ。しかし出来るだけ他人の運命を尊敬するものが好きだ。何と言ったって聖人や、神のような人は偉い。一時的の波乱のために浮き沈みする人間は尊敬することは出来ない。それから惨酷な冷たい人間は嫌いだ。いつも損しないことばかり考えているものも嫌いだ。どこかに人間の面白みが出なければ。

 

武者小路実篤「友情」






真実ってやつは、誕生日と同じだよ。個人にひとつづつあるんだ。事実と一致しないからといって、嘘だとは言いきれないね

 

ヤン・ウェンリー

「銀河英雄伝説」






ユリアン、陰謀だけで歴史が動くことはありえないよ。いつだって陰謀はたくらまれているだろうが、いつだって成功するとはかぎらない

 

ヤン・ウェンリー

「銀河英雄伝説」






運命というならまだしもだが、宿命というのは、じつに嫌なことばだね。二重の意味で人間を侮辱している。ひとつには、状況を分析する思考を停止させ、もうひとつには、人間の自由意志を価値の低いものとみなしてしまう。宿命の対決なんてないんだよ、ユリアン、どんな状況のなかにあっても結局は当人が選択したことだ

 

ヤン・ウェンリー

「銀河英雄伝説」






それもいいね、けど私のサイズにあう服じゃなさそうだ

 

ヤン・ウェンリー

「銀河英雄伝説」






わたしにはわかりません。あなたのなさることが正しいのかどうか。でも、わたしにわかっていることがあります。あなたのなさることが、わたしはどうしようもなく好きだということです

 

フレデリカ・グリーンヒル

「銀河英雄伝説」






ことばをだいじに使いなさい、ユリアン。そうすれば、ただ沈黙しているより、多くの事をより正確に伝えられるのだからね……

 

ヤン・ウェンリー

「銀河英雄伝説」






……私は、あなたの主張に対してアンチ・テーゼを提出しているにすぎません。ひとつの正義に対して、逆の方向に等量等質の正義が必ず存在するのではないかと私は思っていますので、それを申し上げてみただけのことです

 

ヤン・ウェンリー

「銀河英雄伝説」






小集団の理想的なサイズは五〜七人である。十数人以上になると、その中で多少の親疎の関係ができ、インフォーマルなサブ・グループができるのが常である。もちろん、小集団自体もインフォーマルな場合が少なくない。しかし、その特色は場を共有しているのが常で(少なくともコミュニケーションがたいへん密で)、仕事仲間という設定が圧倒的に多い。

五〜七人というのは、その成員が遠慮なく自分の意見や感情を開陳でき、相互の協力が効果的に行われ、満足すべき意思決定のプロセスをもつことのできるサイズである。すなわち、いつでも集まって相談事ができ、ほんの些細な日常の出来事にも共感をもって反応できる数である。十数人ともなると、こうしたことは必ずしも出来なくなる。(中略)

一方、小集団が二〜三人というのは、小さすぎるのである。なぜならば、二〜三人ではなかなか気分というか雰囲気が出てこないのである。インド人はバンチ、すなわち五人の意見は神の意見に等しいといって、五人の意味を高く評価するが、五人ともなると、さまざまな意見を持つことができるし、性格やパーソナリティにバリエーションが出て、にぎやかな雰囲気をもつことができ、またそれによって緊張をやわらげることができるのである。とくに、個人主義という文化をもたず、人見知りをしやすい日本人にとって、この雰囲気の存在は、人体の存在にとって空気が必要なように、必須のものと思われるのである。

日本人が個人として生き生きとし、緊張を感じないで社交を楽しみ、仕事をするという状態のときは、いつもこの小集団の中に(物理的とは限らず社会的に)いるときである。実際、多かれ少なかれ、各個人は何らかのこうした小集団(あるいは擬似小集団)をもっているといえる。

 

「タテ社会の力学」

中根千枝