貴方に花を、私には音のない、歌を



此処しばらく、花冷えが続いていた。
桜の開花予想では24日。
何時花開くかと人を案じさせるのは、桜の花だけだろうと思った。
他にも花は存在するのに、心のざわめき度が違うような気がする。
桜の持つ妖艶な、壮大な美しさに魅かれるよう遺伝子に何代にも渡って、記憶が刻み込まれているのだろうか、そう考えた。
人においても。
惹かれるのは己と遺伝情報が異なる相手だと、不可解な激情でさえ、遺伝子で規定されるのだと何時かの書物は語る。
運命がたった4つの記号の複雑な組み合わせの妙から、生まれるものであったとしても、心をさざめき立てるのは、彼女しかいなかった。
傍らにいる、髪を解いた彼女が安らかに眠る様子を、見つめた。
降ろすと意外に長い髪だった。
手ですくと指に滑らかに絡み付いてきた。指でひねって小さな一束を作りその香りをかいだ。
ほんのりいいにおいがした。
起こさないよう、そっと胸に耳を当てて、鼓動を聞く。
死んだ妻にはしたことがなかったことだった。
彼女を子供ごと失った後、すり抜けて行ったかりそめの女たちにもこんなことはしなかった。
目の前の彼女を抱いた時からの習慣。
髪の先まで愛しいと思う感情は、危険だともう独りの自分が囁く。
喪失の痛みを忘れたわけではあるまいと。
規則正しく上下する胸のふくらみを見ながら、付けっぱなしのFMラジオは日付変更を告げる。

「何だ、もう起きていたの?」
彼女が目を覚ます。このまま朝まで目ざめなければいいのにと、願っても、それは叶わない。
「うん、ついさっきね」
「ちゃんとかけないと・・・寒いわよ」
そういって彼女が毛布をかけなおしてくれる。
「花冷え続くわね。桜・・・咲くのが遅れるかしら」
「それでも、忘れず咲いてくれるさ・・・・花は人のために咲くのではない、己のために咲くのだ」
「・・・人もまたしかり・・・誰の言葉だったかしらね」
「寝起きで出典まで求められると、つらいねえ・・・」
そういって降りてきた前髪をかきあげた。その様子をみて彼女がかすかに笑った。
「どうしたの?」
「いえ・・・後藤さんに聞いたら何でも分かるように、思ってしまうなんて、買いかぶりすぎているかなと思っただけ」
「しのぶさんより、ちょっと長生しているからって、俺、威張ったつもりないよ」
「分かっています。理論戦で貴方に勝てる人はそういないわ」
そういって手のひらで、顔を包んで、軽く額に口付けした。
「おはよう・・・て言っていなかったわね」
「うん、おはよう。しのぶさん」
「おはよう、後藤さん。朝ではないけどね」
「あ、帰るなら、鏡を見たほうがいいよ」
寝所から出て行こうとする彼女に声をかけた。
「・・・また、なのね」
「いや・・・大丈夫だと思うよ。うん、大丈夫、此処からは見えない」
そういって彼女が言う、意地の悪い笑みで見つめた。
「何度もお願いしているのに・・・見えるところに、つけないで」
そういって軽くため息をついて、髪をかきあげた。
「だから、今回は付けていない」
「どうして、こんなことするわけ?」
「さあ・・・気まぐれ」
「気まぐれで、毎回、なの?」
そういって綺麗なその眉をしかめて、彼女が見つめるので、腕をとって引き寄せた。
「まだ、時間あるよ」
「分かっています。でも・・・」
「でも、なに?」
吐息さえすぐ聞こえそうな距離で、ちらりと時計を見て彼女は言った。
「シンデレラは12時の鐘がなったら、家に帰らなくちゃならないわ・・・魔法が解けるから」
「しのぶさんには、魔法がかかっているの?」
「そうよ、これ以上一緒にいたら・・・」
「一緒にいたら?」
「離れられなくなる、そういう魔法よ。だから帰るわね。終電逃しちゃうし」
「終電なんて・・・もうないよ。それにその魔法、掛かったままでいいよ」
「私が、困るわ・・・これ以上心が深入りしないほうがいい」
「あっさり、しているね」
「もう、傷つきたくない・・・というのは我が侭よね・・・」
「その気持ちは、わかるよ」
しばし無言のまま抱き合っていた。
胸にもたれていた彼女が手のひらで、押す。
「じゃあ、帰ります。名残惜しくて帰られなくなる」
そういって微笑んだ彼女が返答できないうちに、すばやく唇を奪う。
「ちょっと、後藤さん・・・やめて・・・」
歯列に割りこむように、息さえ出来ないくらいに。
彼女の唇からこぼれるかすかな声を聞いて、ようやく唇を離した。
「・・・意地悪なのね」
「知らなかった?前からだよ」
それを聞いて彼女はため息をついた。
「明日、桜見に行こうよ」
「まだ咲いて、いないわよ」
「いい場所があるんだよ」
「・・・はっきり言ったら、後藤さん」
「何が」
「返したくないって・・・言ってみて」
「それは・・・」
「言えないっていうんでしょう・・・素直じゃないわね」
「しのぶさんほどじゃないよ」
「・・・それはお互い様でしょう」
「そろそろさ、越えてみない?その壁をお互い」
「・・・後藤さん、覚悟できてる?嫌になったら、こっそり逃げるって言うのは・・・なしにして」
「覚悟とか自覚とか、夏休みの読書感想文とか、そういうの苦手なんだよね・・・そうだ、一緒に逃げればいいよ」
「どこに逃げるのよ・・・」
「この世のどこか。どこがいい、しのぶさん」
「あのね・・・しょうがないひとを・・・好きになってしまったわ」
そういって彼女が軽く頬に唇を寄せた。
まだ、夜更けを告げる鳥は鳴かない。
口からこぼれるのは、彼女の名を呼ぶ声だけ。
手のひらに吸い付くような彼女の肌を、逃がさないように指先が追い、彼女の肢体が月の光の元でしなるのを、見つめた。



何処かで夜明けを告げる鳥が鳴いていた。
傍らに眠る彼の寝顔をぼんやり見みていた。そして私の指先を。
糊の効いたシーツが素肌に冷たいことを教えてくれたのは彼が最初ではなかったように、彼もまた、私が始めての相手というわけでもなかった。
こういう場面は何度迎えても、緊張する。
見たこともないような自分の一面が見えるから、時々恐ろしくなる。
誰かに執着するということが怖かった。
始まりがあるから、終わりがある。
この関係性の行く先が何処へ向かっているのか、良く分からなかった。
彼はいつもの笑みで、はぐらかすから。
答えを聞く口を、いつも唇で塞ぐから、それ以上聞きようがなかった。
それが答えかもしれないが。
夜の彼は昼間と違って見える。

「獣はねえ、しのぶさん、綺麗なものを欲するんだよ」

そういって何度も繰り返し、耳元で低く抗えないような声で、私の名前を囁いた。
こちらの顔が赤くなるくらい。
概してしなやかな獣は美しいと思える。
綺麗なのは優しい花や鳥ばかりではない。
均整の取れた背筋や指先。狙った獲物を捕らえて話さない、鋭い牙や爪。
そそり立つ彼の背中と抱きしめて離さない胸筋と腕。
それらが昼行灯を装う彼の何処に隠されているのか、知りたくなってしまう。
「おかしいわ・・・どこかに、隠しポケットがあるんじゃないかしら」
そういって横の彼の背中をぺたぺた触った。
「そんなもの、ないよ。此れも俺、二課のそれも俺」
「じゃあ、切り替えのスイッチがあるんでしょう」
そういって笑って、彼の脇腹をくすくった。
「・・・まだ、そんな悪戯をする余裕があるのなら、まだまだ、だったかな?」
後藤さんは私の手首をシーツに押し付けて離さなかった。
しばらく私の目を見て、何も言わなかったし、何もしなかった。
「・・・あの・・・後藤さん・・・どうしたの?」
「・・・しのぶさん、綺麗だね」
「やだ・・・照れるじゃない・・・熱でもあるの?」
「いや、思ったことを口にしただけ」
「外見の美しさは、何時かは滅びると決まっているわ」
「でも、内面の美しさは滅びないでしょう。この世界はそういう風に、出来ているんだよ」
「なんだか・・・その言い方・・・預言者みたいね」
「イカサマ師と言ったのは・・・しのぶさんではなかったっけ・・・」
そう意地悪く笑って、唇を重ねてくる。
次第にそれがうなじから、鎖骨に流れる時、こらえていた声が、唇から漏れた。
「やっぱり此処弱いんだ、我慢しなくてもいいのに」
彼は喉の方で押し殺すようにくっくと笑った。
「・・・いやよ・・・・・私が、聞きたくない」
「聞いてみたいね・・・その、可愛い叫び声」
「そんなこと、言っているからおじさんって言われるんじゃないかしら」
「いいよ、別に。どうせ狼だから」
「・・・私は?」
「・・・可愛い、お嬢さん。花を摘んであげるね、君のために」
そういって緩急をつけて乳房に触れて、その頂点を口に含んだ。
緩められた手を振り払って、彼の首に腕を回した。
その腕でさえ、次第に力が抜けてくる。
彼の翻弄の仕方は、かなり意地悪なやり方だった。
それでも、彼を果てしなく知りたいと思ったのは何故だろうか?
無邪気なくらい罪深く、彼から与えられる快楽に、身を沈めてもいいとさえ思った。
彼はひたひたと迫る、水のようだった。
足元の砂を少しずつさらって、水の中に引き込み、息の根を止める波みたいに、私を翻弄して。
自分は涼しい顔をしている。本当は水などないのに溺れているように苦しいのは、私のほうだと錯覚してしまう。
彼の掌中に陥るのは、プライドが許さなかった。でも、彼の極たまにしか見せないような、心の奥を私は知りたかった。
どうして、小娘のような私を、愛してくれるのか、見当がつかない。

「獣が狩をするときは、全力でしとめること知っていた?」

彼が溢れそうな花の蜜を指ですくいながら、わざと淫靡に見えるように指を舐めた。
ようようにしか返答できない、私の顎をなぞって囁く。
「ねえ・・・俺の顔、見てよ」
「・・・全力の割には、息が・・・・上がっていない・・・ようね・・・」
「まだ、返答できる余裕が残っていたんだ」
そういってくすくす笑いながら、大腿を抱えこむように抱き上げて、舌を這わす。
自らの楔で私の肢体を貫く前に、必ず私を酩酊状態寸前までおとしめて、消え入りたいほどの感情と悦楽を彼は与えた。
彼のことを心が忘れても、私を構成する細胞の一片は彼を忘れないようにしているみたいに。
そう意味で、執拗で意地悪だった。

「獣が獲物を食べる時は、可愛い可愛いって思いながら、その喉元に喰らい付くそうだよ・・・」
「でも、相手は・・・命がけ・・・なの・・・よ・・」

彼の楔を受け止めて、体が弓なりにしなった。
「だから全力で、しとめる。それが礼儀なんだよ、捕まえられなかったら、今度は自分が死んでしまう」
「・・・後藤さん?」
「なにかな、しのぶさん」
「私は・・・貴方にとって・・・・・」
「俺にとって・・・なんだい?」
「・・・・しとめるに値する・・・存在なの・・・」
彼が一瞬動きを止めて、私の瞳をのぞく。
「・・・可愛いことを・・・じゃあ、それを今から、教えてあげるよ。しのぶさんが忘れないように」
「え・・・・ちょ、ちょっと待って!」
身をよじっても、絶対逃げられないように、抱えあげられた。
「だーめ、待たない。もう、限界だよ」
「・・・意地悪」
「そんな風に乱れるから、心底意地悪したくなるんだよ」
彼の罪深い、色香のある笑みと言葉に結局自ら騙されていく。こぼれてくる涙を彼はそっと舐めた。
水の中から眺める風景は月の光がにじんで見えた。
彼の感情を肢体で受け止めながら、沸きあがってくる淡い甘い感情に浸っていた。そして、親に黙って秘密を抱えているような、かすかな不安と恐れを彼に対して抱いていた。そして快楽の極みを駆け上がる。
しなった体を限界まで追い詰めるように彼が激情をぶつけてくるのを、黙って受け止めていた。
お互いの息使いと体温と素肌を取り巻く湿り気。
「・・・・これが、貴方の答えなの?」
「そうだねえ・・・心が忘れても、細胞は忘れない。そういう魔法をかけたよ」
「意地悪な魔法使いだから、きっと何時までも赤ずきんは少女のままだわ」
「狼を待ちわびてかい?」
そういって笑って、胸に引き寄せられる。
頬をつたって聴こえてくる鼓動が、心地よかった。
「じゃあ、おばあさんになる前に迎えに来てね」
「・・・しのぶさん、小さくて重いものと大きくて軽いもの、どちらが欲しい」
「なによ、それ」
「誕生日、なにもしなかったから」
「あら、忘れたのかと思ったのに」
「枕もとのそれ、開けてみていいよ」
小ぶりの紙袋の中に綺麗に包まれた箱が二つあった。
「あ、可愛い・・・」
小さな箱には小さな丸い石がはめ込まれた指輪、平たい箱には薄いストールが入っていた。
「平たいのは真帆子から。小さくて重いものは・・・それなりに考えたんだよ。とても小さくて悪いけど」
「綺麗な石ね、あんまり見たことが・・・ない」
「たんぽぽ色の石だよ・・・なんていっていたっけ・・・忘れちゃったよ」
「綺麗ね」
「始めてみたとき、隣にある透明な炭素の塊より綺麗に見えたんだよ」
「うん・・・」
「指にはめてみてもいい?」
「・・・・いいわよ」
後藤さんが取り出して、私の指にはめた。
「しのぶさん・・・・狼が迎えに来ても、彼女はドアを開けてくれるだろうか?」
「そうね・・・考えておくわ」
「そう・・・まあ・・・渡せたし、此れで安心して寝られるよ」
そういって私の手のひらにキスをして、本当にうつらうつらし始めた。
「・・・・もう、どちらが素直じゃないんだか・・・」

もう一度夜明けの鳥が鳴いたような気がした。
彼が目ざめたら、桜の何処がすきなのか聴いてみようと思った。
規則正しく上下する胸郭にそっと触れた。
薬指の小さな石が差し込んできた陽光に光って見えた。彼の顔を見ながら何故だか歌いだしたくなるような、胸のさざめきを感じた。
「・・・今日晴れたら、貴方には最初の桜の花びらをあげるわ」
そういって頭を撫でた、いまだ、獣は目ざめないまま。狼は乙女をかみ殺さないまま、傍らに。





story by 湊さん
illustrated by damian