心震わせる、貴方の、音


呼び鈴を、鳴らさずに勝手に室内に入るのはいつものこ と。不在の時に合鍵を使って藍が部屋に居座っても蒼は 何も言わなかった。

小さい時から一緒に育っているのだ。互いの行動パター ンなど、互いがよく知っていた。

だから。

藍は門の前で立ち止まる。腕時計を見ると玄関を通らず に庭に回った。そしてテラスに座って耳を、澄ます。
流れる旋律。

空気を震わせるそれらの繋がりを、藍は柱に背を預けて 目を閉じながら感じていた。

規則的な音のつながりから、どうやらそれが指馴らしの ための練習曲らしいことを藍は知る。


やがて流れ始めたブラームス。


その時、足元に擦り寄る何かの存在に気付いて、藍は瞳 を開いてそれを確かめた。銀色の、狼みたいな犬が一匹、 藍のすぐ傍にきていた。

犬が吠えることで蒼の演奏の手を止めるのを嫌がって、 藍は口元に人差し指を宛てて、静かにしろよと呟いた。 まるで人語を解したかの風情で犬はおとなしく、藍の足 元の日溜りに身体を横たえた。

一人と一匹は並んで名曲を鑑賞する。郷愁を掻き立てる 優しいけれども切ないそれが、藍は好きだった。知らず 流れる涙を、手の甲で乱暴に拭ったその時。音が不意に 途切れた。

音の途切れた理由がわからずにいぶかしむ藍を数秒の無 音が包む。そして、扉の開く音がした。破られる沈黙。
振り返ると蒼が藍の背後に立っていた。

「いつからそこに?」
戸惑ったような表情で蒼が聞く。この人物にしては随分 珍しい表情だと藍は思った。いつだって、余裕のある人 であるから。

「ブラームスのワルツの最初から。蒼の演奏の手を止め るのは不本意なんだけど。はやく、弾けば?」

蒼の質問にぶっきらぼうにそう言って藍が蒼に背を向け た。それっきり立ち尽くす相手を見なかったのは、泣き 顔を見られたくない、藍の矜持かもしれなかった。

蒼は暫く何もせずに相手の背中を見つめて、やがて徐に 目の前にある細い背中にふわりと腕をまわした。緩い抱 擁。それにどきりとしたけれども、藍はそれが嫌ではな かった。

「この腕の意味は何?」
嫌ではないのに、内心の動揺を悟られたくなくて、ぶっ きらぼうに言ってみる。
「多分、藍を慰めたいっていう気持ちの現れ」
蒼は衒いなく言う。
「こうしてほしいのかなって思ったんだけど。もしかし て自己満足だった……?」
自信のないような台詞を自信有りげに言うこの相手を、 手におえないと思うのは例えばこんな瞬間だ。
「嫌な奴……」
言いながら藍は背後の人物に自分の体重を預けた。

「ねぇ……」
未だに充血気味な瞳で相手をさかさまに見上げながら、 藍は端的に要求を告げた。
「ピアノ、弾いて」
と。

「リクエストは?」
短い言葉に笑って蒼が尋ねた。

「……リストのラ・カンパネラ」
藍の言葉に蒼の笑みが一転して硬くなる。
「横暴なんじゃない?超絶技巧曲だって知ってるくせに」
「知らない。それは言い訳。蒼のカンパネラが聞きたい。
今すぐ。絶対」

弾かないと蒼が言ったわけでもないのに、強い口調で藍 は要求する。横柄に。

一瞬の溜息の後に、蒼が藍を抱き締めていた腕を解いて 部屋の奥に入る。相手の動きを視線で追って藍は、やが て再び瞳を閉じた。

鐘の音に似せた音の連立。寸分の狂いもなく繋がってい くそれに耳を傾けながら藍は深い呼吸を繰り返した。

藍がわざわざ蒼の演奏を聞きに来るその意味を蒼は知っ ていた。けれども蒼は何も聞かない。

蒼が藍の我が侭を許すのに甘えている自覚が藍にはあっ た。何も聞かない相手の優しさに、泣きそうになる。

そして、蒼の思いを雄弁に語る音。

心配だと、言いはしない。けれども常に心のどこかに蒼 は藍を思う余地を残していた。深い音を聞きながら藍は 愛されていることを知る。

言葉の要らない今が心地よいと藍は思うのだ。このまま 拠りかかったままではいけないと知りながら、もう少し だけ、そう思っていままで振りきれずに来た。

けれども、せめて今この瞬間だけは蒼の優しさに縋って いたかったのだ。今、この瞬間だけは。




* こちらの作品の登場人物、設定につきましては 涼月 霖 様のサイト 「雨の博物館」にて公開されております。
また、別作品「花散らし」もお読みになれます。是非遊びに行ってみましょう!!(^^)


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