―― 参  衝動リバース運動 ――

 噂は何処からともなく入り込み、知らない内に意識を浸食する。たとえ、人々に忘れられ古くなって消えていくと錯覚はしても、其れは確実に姿を変えながらも私たちの街に住み着くのだ。噂という形ではなく真実という形で・・・。

 

 街の雑踏は、不思議と落ち着ける場所だ。様々な意識の集合体が大河の如く流れで汚い汚れを洗い流してくれる。何重もの靴とアスファルトの擦れる音が潮騒にさえ思う。

僕は人という流れの中で高尚な幻想にさらわれるでもなく、数時間前に耳にしたまるで聖書の言葉であるかのような呪文のような言葉を舌の上で反芻していた。

短い単語を何度も繰り返すうちに其れ本来の意味を無くしていくような感覚とは全く反対に、唱えれば唱えるだけ其の言葉の比重がまし、大きく収縮しながら僕の意識を犯していく様にさえ思える。実際、僕の体は熱を持ちはじめ、早く何かを壊したい衝動に駆られている。焦らされているでもないのに焦れったく、急かされていることもないのにあせっている体。

 ――見つけなければ。

 あるかも分からないものを見付けろだって?

 それにどうしてそんなにも僕の体は、いや、本能はそれを欲しているのだろうか分からない。

 だが、確かに此の心臓が言っている。

 見つけだせ。

 そして、全てを破壊せよ、と。

 

 

 三時間前。

 無機質な枠から覗く十二月の空は、白濁とした奇妙な淡い夢の色をしていた。

 そんな風景を一瞥して正面の区切られた教室に向き直る。閉ざされた箱の中は零司と彼の見ていた空を反映しているが如くマンネリの空気でいっぱいだ。

 暫し野放しにされた零司の意識は、黒板の前中央に突っ立ている男に止まる。何処でどう笑うのかという洒落を言って、一人苦笑する痩身の英語教師の心情を考えてみることにした。

 赴任して間もなく担任のクラスを持たされ、若いながらも生徒からの信頼を勝ち取り問題なく清々しい日々を過ごす、という彼の理想は勢い余る熱血ぶりに空回り、哀れ冷たく疎まれるような生徒らの目にびくびくと胃を痛める毎日を送っている。ああ、可愛そうに。神経質な筋張った手が、執拗にチョークの粉を払ってそれが紺のスラックスに付いたのをまた神経質に払っている。いくつだっけ?確か30前だよね?ずいぶんと老けてるぜ。

そこまで考えを巡らせると、隣のクラスメート――こいつはよく消しゴムを落としては人に拾わせるジャンキーだ。――に袖を引かれた。    

「おい、あいつのしてるロレックス。あれまがいものだぜ?」

そうなの。へぇ、確かによくあんなのもしてられるなっていう金メッキだ。でも、そのほうが相応だろう?いや、どうでもいいじゃないか。

「この間、露店で見たんだ。2000円。絶対あれだ。笑っちゃうよな?」

返事をしないでいると勘違いしたのかまだ同じ話題ですり寄ってきたので――

「笑えるな。ところでお前クスリのやりすぎだろ?目の焦点危ないよ?」

脅し半分話題転換を仕掛けた。だが相手もケロリと乗ってくる。

「クスリはたんないくらいだ。クスリといえばすごいのがあるらしいで?なんでも、世界をゼロにするクスリとかっていってたなぁ。」

 世界をゼロにする?――何故か頭の芯が熱くなった。

「今、ハウスでこの話がもちきりでさー。どんなやつかやってみたいんだけどな。実際持っている奴いないんだよ。やったって言うのもいないし。でも、噂だけならあそこまで騒がれないとおもうんだ。」

零司の意識はすでに隣のジャンキーの話など聞いていなかった。

「たぶんダウン系だぜ?でも俺アップ系しかやったことないんだよな。なぁ、零司はやったことあったよな?」

 痺れたようにぼうっと視界が遠ざかっていく感じがした。窓の外の空がとうとう教室まで飲み込んでしまったと思った。

 

 下校を告げるチャイムが鳴り無意識に雑踏の河へとむかっていた。

 ゼロにする。そのことだけが今の零司を歩かせている。

 

 ――そうだ、僕が欲しいのはドラッグでもヤクでもない。破壊だ。

 

 その時、零司は夕日に染まった人波の中で声を聞いた。

 『壊してしまえ』   『すべて』 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ―― 四    相反ユニゾン配置薬 ――

 彫りが深く、割と色の白い男は、酷く毒々しい朱色の影を背負ってマルボロの新たな1本に火を付けた。

「其れで?其の噂がどうしたの?」

言葉を切ってしまった相手にことの真意を促そうとユキは久しぶりに口を開いた。シンヤはさりげなく其れを無視して、味わうように紫煙を吐く。焦らしているのか。

「あたし、焦らされると我慢できなくなるのよ。早くして。」

 際どい言いようのしたつもりだったけど、目は訝しげにシンヤをのぞき込んでいた。相手は微笑しながら、まぁ、待てというように掌を見せる。

「実際はそんなドラッグ存在しないんだ。」

と、また紫煙を吐き出す。 

「どうして言い切れる訳?確かに本当にそんな神がかったモノ実際ないだろうけど、ドラッグの宣伝文句にはよくある話じゃない。それにハウスの連中はありもしない虚言に踊らされるようなやつらでもないでしょ。」

ユキが言ったのは真実。旧市街に溢れてる売人達は、あの世まで飛べるよ、なんて宣伝文句を言いながら薬を売っている。勿論、買うやつも本当にあの世に行こうなんて考えちゃいない。

 ハウスというのは旧市街なんかに居住している比較的若い連中――所謂ジャンキーだ。――が、男も女も、薬と夜を凌ぐ相手を求めて集まるバーだ。イカれた奴等が馬鹿騒ぎをするでもなく、静かに、快楽と、安らぎを求めて。ジャンキーといって誤解されがちだが、彼らは狭くて汚い社会の中で、それなりに上手く生きてきたしたたかかな人種だ。政府の管理下でぬくぬくとやってる連中より、ずっと出来ている、とユキは思う。

「悪い、俺の言いようが悪かったみたいだ。言い直す。いわゆるドラッグはないが・・・文字通りの『世界をゼロにする薬』ってのはあるんだ。」

「文字通りって?」

「文字通りさ。」

言わんとしていることが見えてこないユキは、全部知ってて勿体ぶってるあくどい男の城の中。完全不利の状況を悟って、腹は立つけど諦めて息を吐いた。

「それこそさっきいった『神ががかったありえないモノ』じゃない。」

「そ。そのあり得ないモノがあったって訳。」

「信じられない。どんなんなの?」

興味をそそられると、ユキは段々と舌足らずな無邪気な女の子になっていくようである。一方シンヤは、よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりにパソコンに向き直り、『Enter』キーを小気味よく軽快に叩いた。

「其れこそ此です。」

会心の笑みがまた怖い。ユキは、彼がデスクチェアーをスライドさせて左によけると同時に飛びついた。

「何これ。文字化けしてる・・・。」

画面には解読不能のあらゆる文字のチャンポン。

「バ――カ。ソース見ろよ。」

それにしても、「バ」と「カ」の間が長ければ長いほど頭に来るものだ。

「言われなくても分かってる!」

次の瞬間からは、今度はシンヤが呆気にとられる番になった。彼女は、膨大な文字情報の配列を高速でスクロールしている。すごい、此。等といいながら。ユキの情報処理力にはさすがのシンヤ先生も敵わない。

 純な好奇心だけの横顔に、シンヤは罪悪感が過ぎった。――彼女も、同罪。

「ねぇ、どうするの?」

すべてに目を通し終えたユキの顔は、日が落ちたばかりの薄明かりの中で蒼く白かった。シンヤは彼女の心を曇らせてしまったことに気が付く。後悔した。

「知ってしまったよ。もう遅い。」

悲痛な言葉を予想しながらシンヤは淡々といった。だが、次に見た彼女の顔は思っていたものとは違った。

「争奪計画でも立てる?」

ついさっきまでシンヤが浮かべていた不適な笑み。シンヤは確信した。やはり彼女に言って正解だった。

「俺も考えてた。」

黄昏は過ぎ、つたないランプの火が点る。電気はいつも不足だから。

 シンヤにならいユキも手元のジッポで立ち並んだ蝋燭に火を点していく。

「怖くないのか?」

素っ頓狂な彼の揚々とした問い。

「まさか。あたし、異端児よ。何もこわいことない。」

「新世代でもない、旧世代でもない。確かに立派な異端児だな。」

シンヤにとってユキはそれ以上に異質に見えた。

「変人の30男と異端の17歳か。」

自嘲めいて彼女が呟く。

「俺はまだ30じゃないぜ。それにしても奇妙なコンビだな。」

ユキは左の親指をカッターで切った。

一筋の血。

「共犯だ。」

シンヤも同じく切った指を彼女の其れに重ねた。

「ああ、共犯だ。」