人に頼ることは禁忌だった。
彼方と此方の境界線に在る者は、何も求めてはいけないのだ。
アイシテハイケナイノダ
それでいいと割り切っていたつもりだったのに――
――――――――――――――――――――――――――――― The Somnambulist in Outline ―――――
2001,9,3
2
その日は午後から関口君が来ていた。
「京極。それで、一体何だって榎さんは南米になんかに行ったんだい?」
今頃、南米行き宣言をして去っていった榎木津は、メキシコシティ行きの航空便の中だろう。
昨日。榎木津が帰っていった後、中禅寺は些か動揺していたが、取り敢えず薔薇十字探偵社に電話を掛けた。
詳しいことは何も云わずに帰ったのだから、訳が分からない。どういうことか訊いてみようと思ったのだ。
出たのは和寅だった。相手が中禅寺だと知るなり、たった今立たれました!と云った。
聞けば、数週間前、榎木津はメキシコダッ南米に行きたい!とひとしきり騒ぎ、てきぱきと航空券を手配すると神も修行が必要なんダッとか云って荷造りしていたそうだ。
「知らないよそんなことは。あの人のことだから大した理由なんてないよ。忘れた頃にひょっこり帰ってくるさ」
そうなのだ。
あの時は何だか何時もと違う雰囲気にあてられて、妙に儚い気持ちになったのだったが、よくよく考えてみれば単なる海外旅行に行くというものではないか。
何時帰ってくるか分からないのは無計画な榎木津にはあたりまえのことで、別に何年も帰ってこないなんてことは云っていないのだ。
「南米かぁ。具体的に何処なんだろう。マヤのピラミッドとか?なんだか変な民俗衣装とかで帰ってきそうだな。」
関口なんて既に観光旅行と決めつけている。
――何だか馬鹿馬鹿しい。
結局は何でも無いことに一人で揺れ動揺していたのだ。事も在ろうに。
榎木津だから、か。
榎木津が、暫く居なくなれば、この感情も薄れるのだろうか
いっそ、このまま帰らなければ、日常は変わることなく平穏に過ごせるのではないか
――何を馬鹿なことを。
屹度自分は畏れているのだ。
何時か、決着を付けなければいけないことを。
・・・決着?
体どうするというのだ。
どうするもない。こんなことは云える訳がない。
ましてや――
名残惜しみに来たんだ ――
あれは、どういうことだろう。
まさか――
自分と離れるのが、嫌だった・・・?
「京極、それじゃあ僕はこれでおいとまするよ」
そこで中禅寺は我に返った。
「ああ。大したことじゃないのに呼び出してすまなかったね」
中禅寺は心此処にあらずというような様子で関口を送り出すと、つい先刻思い至ったことを考えた。
そして、
又あの時彼が云ったことが蘇った。
*
学生の時。
そう、榎木津が学徒出陣で出兵する日が迫っていた時だった。
「どうしたんですか先輩。こんなところに呼び出して」
中禅寺は榎木津に学校の近くのとある処に呼び出された。
「分かっているくせに。お前は何時もそうだ」
いつもとは違う低い声で榎木津は云った。
「僕は名残惜しみに呼んだんだ。もう、会えないかもしれないからな」
それは、普段の彼からは想像がつかないほど弱気な口調だった。
「何をいってるんです。まさか死ぬ気じゃないでしょう。あんたらしくもない。戦争なんていうのは終われば帰れるんです。この戦争はもうそんなに長くはない」
「帰ってきたら会えるだろうか・・・」
そう、彼は呟いた。
「会いに来れば会えますよ」
「そうだな」
そういうと、彼は目を細めて笑った。
*
十五年前、榎木津は同じ事を云ったのだ。
また、
あの胸のざわつきが
中禅寺は、言い知れぬ不安に襲われた。
翌朝。
約束されたようにまた朝が訪れた。
何時もと変わらぬ平凡な朝。
やはり、朝というのは変わり様がないのだ。
昨朝そうしたように、本を持って帳場に行こうとすると電話が鳴った。
中禅寺が出ようとする前に千鶴子が先に出た。
そのまま行くこともできず暫く対応している千鶴子を眺めていると、どうやら中禅寺宛の電話だったようだ。
木場からだった。
「朝からどうしたんですか旦那」
「お前さん、あの馬鹿探偵がどうしたか聞いてるか?」
やはりそのことだ。
「ええ、一昨日家に来ましたけど。何かあったんですか」
「その馬鹿の乗った飛行機だがな、まだ詳しいことはわからねぇんだが」
中禅寺は半ば其の先が予想できた。
「礼二郎の乗った便が事故ったそうだ」
散々なる朝は訪れた。
非日常を約束する朝が――
中禅寺は只そのあと木場が続ける言葉を聞きながら、愛しい人の顔を思い出そうとした。
何故か、寝顔しか思い出せなかった。