――そんな優しいことを仰るから・・――
其の先が聞けていたら、と。
今はそう思う。
結局は、自分も只の人間に過ぎぬ。
――人間性
本当はどうなのだろうか。
情というものに絆されては自分は立ち行かない。
それとも
そう装っているのか
否。
どちらでも同じだ。
情け深い自分 非情な自分
人道的な自分 非人道的な自分
それらは皆同じなのだ。
人とは斯くも愛おしく愚かなもの
自分は只の人間だ。
だから――
――――――――――――――――――――― The Somnambulist in Outline ―――――
2001,9,17
3
この男の本性を、関口は未だ掴めていない。
もうかれこれ十五年以上の付き合いになるが、この男が一体どんな人物なのか、本当は何を思っているのか、要として知れないのである。
彼は云う。
「この世に不思議なことなど何もない」と。
そう云いながら、彼は何処か此の言葉に反語的意味合いを含ませているような気がする。彼はモノを語るとき、又その正反対の概念でモノを考えている様にも思うのだ。
彼は拝み屋――憑き物落と師である。
彼は、語る相手に一番有効な言葉で相手の領域にのみ作用させ、全てを無効化し、構築する。そこには、彼自身は居ない。
言の葉を操り、使役する陰陽師
関口は、幾度もその男に闇い影を見た。
常人には想像もつかぬ程の重い何かを背負っているように見えた。
しかし、又彼は極普通の男でもあるのではないかと、関口は夢想する。
本当の彼は極当たり前の感情を持った人間で、極当たり前の夫であり、極当たり前の古本屋なのではないか・・・。
否、彼の本質はもっと陰惨で混沌としている気がする。
分からない。
彼の本質は何なのか――
そんなことを熟(つらつら)と考えながら、関口は目の前で本を読んでいる男――中禅寺秋彦を眺めている。
「先刻から気持ち悪いな。僕なんか見てても如何にもならないじゃないか。やめてくれ」
彼は不機嫌そうにそう云った。常態からしてそうなのだが、その時は本当に不機嫌、否腹を立てていた。
「あ、うん・・・」
真面目に怒られるとは思っていなかったので、謝ろうとしたが、面食らって胡乱な返事しか出来なかった。
やはり榎木津を心配しているのだろうか。
そかし、彼はどんなに動揺することであっても、悠然としたそのポォズを崩すことはないのだ。
――今日の彼は何処か綻びがある。
空気が重い。
沈黙を破ったのは鳥口だった。
「師匠、その・・・大将は、榎木津さんは・・・だ・・・」
語尾が掠れて聞き取れなかった。
鳥口は言い直すことはしないでばつが悪そうに下を向いた。
大丈夫、とは云えない。
でも鳥口は云って欲しかったのだろう。
この男に。
『大丈夫だ。あの男はそう簡単に死んだりするものか。屹度帰ってくる』
屹度そう
気休めでも、何か拠り所が欲しいのだ。
中野は京極堂、中禅寺宅には例によって客が集まっている。
関口、鳥口、木場、益田そして敦子。
ただ、一人欠番している。
昨日、榎木津の乗ったメキシコ行きの飛行機が飛行中無線が途切れ姿を消したのだそうだ。
米軍が現在捜索中と発表されたが、報道を見る限り、詳しいことは未だ分かっていないようだった。元華族・榎木津グループの御曹司が乗った航空機が消失とあって、新聞などでは大々的に取り上げられ様々な憶測が上げ連ねられた。
榎木津を知る者は大方それを聞き及んで大層心配やら驚愕やらなにやら忙しかった。
何せ飛行機事故である。
もし本当なら、太平洋上では助かりようがない。
いくら榎木津でも。
「でも兄さん。まだ事故と決まった訳ではないでしょう?その、新聞なんかではハイジャックの可能性もあるってかいてあるし。いえ、連絡が途切れただけじゃ事故とかハイジャックとかは断定できないわ」
中禅寺の聡明な妹はどうにか拠り所を自分で探り出そうとしている。
榎木津礼二郎という男の存在は、思いの外大きかったようだ。
下僕だ何だと何時も罵られ非道い扱いを受けながらも、その下僕達はかなりの部分で榎木津に依存していたのだろう。今の自分たちの位置は、榎木津が決めたようなモノである。いわば、榎木津自身がアイデンティティなのだ。
益田は自分の出した意外な結論に戸惑った。
それでは、下僕であることこそが自分の存在意義ということになる。
それを自分は認めていたのか。否、認めざるを得まい。
榎木津の生死が危ぶまれた途端、益田は道程を見失ってしまった。胸に風穴が空いたように不安定で、冷静になることも、激高して気を高ぶらせることもままならない。
これが、神というものなのか。
益田は、こんな時木場はどんな気持ちなのだろうかと思った。
榎木津と木場は所謂幼馴染みで、付き合いは誰より長い。だからといって、親友のように仲がいいようには見えない。顔を合わせれば罵倒を浴びせ合い、殴り合いもする。それを仲がいいといえばそうかもしれないが、互いを思いやると云うことはまずない。それは信頼しあっているからなのだろうか。
木場は自分でもそれは判じかねている。
榎木津と自分とは馴れ合って喜ぶような関係ではない。しかし、切ろうと思って切れるような薄弱な結びつきではないのだ。
木場は、今回のことに感想が持てないでいる。ぼんやりとした、怒りのような、苛つきのような、悔しさのような感情が今の木場の中身を満たしていた。
そして、目の前の男が何を思っているのか。
木場は中禅寺を見た。
何時もと変わらない仏頂面である。
榎木津の一番の理解者といったら多分この男なのだ。
普段は見えることがないが、榎木津と中禅寺の間には他人が踏み込めないような、そんな結びつきを持っているような気がする。
その男が、榎木津の危機をどのように受け取っているのか。
中禅寺といえば、
中禅寺は、今の自分の常態に対して驚いていた。
否。
嫌悪していた。
中禅寺は、あの時木場の電話を取ったとき、予感があったにしても大変驚いたのだが、次の瞬間。
ほっとしたのだ。
榎木津が帰らないかも知れないと、そう思った瞬間、自分はほっとしていた。
何に対しての安堵か、それは明白だった。
自己防衛に他ならない。それが榎木津の命にかかわったとしても、中禅寺は自分が大事だった訳である。
其処までして、自分を守りたかったのか。
違う。
其の程度にしか榎木津を思ってなかったのか。
中禅寺はそんな自分に嫌悪した。
所詮、気の迷いだったのか。
それならば、自分は気の迷いで右往左往していたことになる。
滑稽だ。
何もかもが莫迦らしい。
苛つく。
イライラする。
駄目だ。もう――
「今日は皆、帰ってくれないか」
一同が一斉に顔を上げた。
「このまま待機してたって事態は好転しやしない。まだ分かることが少ないから僕もどうしようもないからね。又の機会に出直してくれ」
まさに鶴の一声で、客人達は各々別れを云い、古書肆の細君に見送られて帰った。
玄関から戻った千鶴子は、中禅寺に声を掛けた。
「あなた、夕飯はどうしましょうか。今日はまともに食事を摂っていないのでしょう?急いで準備します」
「いや、いいよ。ちょっと調べたいことがあるから出掛けてくる」
中禅寺は黄昏時の空の下、行く先も云わずに家を出たのだった。
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